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  <title>ロシアが気になる</title>  
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  <tagline>ロシアに関するあれこれをのんびり書き綴るブログ。</tagline>  
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    <title>プーチン氏、中間層の政治参加を約束</title>  
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    <dc:subject>ロシア</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
ロシアの有力な世論調査機関はいずれも、来るロシア大統領選で（3月4日）、プーチン首相は第1回の投票で過半数を獲得して大統領復帰を果たすという予測を発表している。「全露世論調査センター」によれば、プーチン氏の得票率52％に続くのは、最大野党・共産党のジュガーノフ党首と極右・自民党のジリノフスキー党首の各８％。中間層の受け皿と目されていた反政府系リベラル派政党、ヤブロコのヤブリンスキー氏は、候補者登録の書類不備を理由に、そもそも出馬を認められなかった。<br/>
<br/>
昨年来「反プーチン」デモが続き、2月４日の反政府集会では3万6千人（主催者発表では12万人）が集まったとされるが、２月23日、プーチン氏を支持するデモ行進や集会には10万人以上が参加した。「国を壊そうとしている勢力に反撃する」ことも集会の目的であったという。プーチン氏も、ロシアには「独自の民主主義制度の発展が必要」と訴えている。<br/>
<br/>
その一方で、プーチン氏は、2月6日、「コメルサント」紙に、市長らの公選制やネット上の民意を政治に反映させる仕組の導入など、中間層を意識した民主化や地方分権の推進を訴える論文を発表した。<br/>
抑圧的な政治体制や変わらぬ汚職の蔓延に批判の目を向ける、特定の支持政党を持たない中間層（平均月収1,000～1,500ドル）は、現在人口の約２割とみられ、政治に及ぼす影響は無視できない。<br/>
<br/>
プーチン体制では、民営企業の国営化など経済の国家管理が進められ、原油高により、2000～2008年に年率約７％の経済成長が達成された。経済力をつけた中間層は、政治的な権利の拡大や公正な社会の実現を求めている。<br/>
近年、硬直化した社会体制に見切りをつけ、国外脱出するロシア人が増えている。ここ数年で125万人に達し、最近の傾向として中間層が多いのが特徴であると分析されている。<br/>
<br/>
プーチン氏は、選挙公約で、今後10年間に23兆ルーブル（約61億円）を投入し、大陸間弾道ミサイル４００基導入など軍と関連産業近代化に向けた施策を優先課題のひとつとして掲げ、保守層へのアピールを図った。<br/>
<br/>
大統領選で、下院選挙（2011年12月4日）時のような不正疑惑が再び起きる可能性はある。政権運営のスタート時における「透明性」の確保を内外に示せるかが注目される。<br/>
<br/>
【2012年２月7日・23日共同通信、7日東京新聞、21日日本経済新聞、23日読売新聞、27日毎日新聞他より】
        ]]></content> 
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    <title>ボリショイ・バレエ 「スパルタクス」</title>  
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    <dc:subject>演劇</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
ボリショイ・バレエ「スパルタクス」の感想です。（１月３１日／東京文化会館）<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201202/01/23/d0007923_215650.jpg" border="0" width="227" height="324" align="left"/><br/>
【出演】<br/>
スパルタクス：イワン・ワシーリエフ<br/>
フリーギア：スヴェトラーナ・ルンキナ<br/>
クラッスス：アレクサンドル・ヴォルチコフ<br/>
エギナ：エカテリーナ・シプーリナ<br/>
ボリショイ劇場管弦楽団／指揮 パーヴェル・ソローキン<br/>
音楽：アラム・ハチャトゥリアン<br/>
<br/>
6年間の修復を終え、新装なったばかりのボリショイ劇場が引越し公演（1月27日～2月12日）。地震と放射能を心配していたと思うが、よくぞ来日した。都内の初日は、「スパルタクス」。古代ローマの剣奴の反乱（紀元前73-71年）を題材に、ユーリ・グリゴローヴィチが振付したバレエで、1968年初演された。<br/>
<br/>
この演目のパリ公演（2008年）をたまたま録画で見ていたが（スパルタクスを客演したカルロス・アコスタが印象的だった）、実際観られる機会が少なそうなこともあって、先週チケットを購入。平日夜でも劇場の9割近くが埋まっていた。ワシーリエフがミハイロフスキー劇場に移籍したけれども、予定通りのキャスティングで行われた。<br/>
<br/>
この作品は、ダイナミックな音楽にのって力強さでおしまくる勇壮な「男性バレエ」で、衣装も派手ではない。言うなれば、バレエという感じのしないバレエ。炸裂する管弦楽はやはり生の舞台ならでは。<br/>
主演のワシーリエフはわりと小柄で、どんなスパルタクスかと思いきや、ゴム鞠のごとくかなりの気合で最初から最後まで飛び跳ね、かつ、スピーディなー切れのよさを披露して喝采を浴びていた。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201202/01/23/d0007923_23355796.jpg" border="0" width="425" height="278"/></center>撮影:Damir Yusupov<br/>
<br/>
シプーリナのエギナも濃いキャラクターのせいか心に残る演技だった。対して、ルンキナのはかなさはややわりを食う感じになった（そういう役柄なので仕方がない）。<br/>
半ばでヴォルチコフの着地が失敗し、その後、やや足を引きずったのでどうなることか心配だったが、後半は無事に踊りきった。あと、兵隊さんの数がもう少し多いとより迫力が増しただろう。<br/>
前回来日時よりずっと円高のはずだが、チケットの価格帯は変わらない印象である。もう少し何とかならないものだろうか。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201202/01/23/d0007923_25938.jpg" border="0" width="326" height="216" align="left"/><br/>
改装されたボリショイ劇場のメインロビー
        ]]></content> 
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    <title>公正な選挙を求める中間層、大規模デモで政権に抗議</title>  
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    <issued>2011-12-30T23:54:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>ロシア</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
12月4日のロシア下院選挙において、票の水増し等の不正行為が行われたことに抗議し、10日・24日にモスクワで大規模デモが行われた。主催者発表で、10日はソ連崩壊後最大規模とされる10万人、24日はそれをさらに上回る12万人が参加した。公正な選挙を求める集会は、全国５０都市以上で行われた。政府は大都市で治安部隊を投入し、のべ千人以上を拘束した。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201112/31/23/d0007923_045177.jpg" border="0" width="369" height="215"/></center>       （写真：RIAノーボスチ・2011年12月24日）<br/>
<br/>
下院選では、政権与党である統一ロシアは全国得票率４９％（前回選挙では６３％）、獲得議席（定数450）は77議席減の238議席にとどまった。過半数は維持したものの、憲法を単独で改正できる3分の２を占めるに至らなかった。与党への批判票が野党に流れ、与党得票率はモスクワで46％、サンクトベテルブルクで３２％となった。その一方、チェチェンなどでは９０％超となるなど、一部地域で強引な集票活動が行われたことで、与党「勝利」につながったと伝えられている。<br/>
<br/>
プーチン首相は、9月24日、政権与党である統一ロシアの党大会で、2012年3月の次期大統領選に立候補を表明している。メドベージェフ大統領とのたすきがけ人事、すなわち大統領への返り咲きは言わば既定路線とされていたが、国民不在、権力者同士の決定に、リベラルな中間層が反発し、与党に背をむけた。<br/>
<br/>
2008年12月の憲法改正により、大統領任期は4年から6年に延長されており、最長12年間大統領職を務めることが可能である。プーチン氏が唱える「主権民主主義」（管理された民主主義）は、2007年の選挙頃までは受け入れられたかもしれないが、インターネット人口が国民の３分の１を超えた現在、汚職の改善や天然資源に依存しない経済への改革を求める中産階級の意識を、政権は認識していないと分析する声がある。<br/>
<br/>
12月15日、プーチン首相は国民との対話で、野党が求める選挙のやり直しや票の再集計には応じないとし、2012年３月の大統領選では、全投票所にライブカメラを設置して投票を監視することを検討すると表明した。<br/>
下院選で、与党への反対票により躍進した野党には、大統領選でプーチン氏に対抗できる有力な候補者はおらず、決選投票となってもプーチン氏当選の可能性は大きいとされる。<br/>
<br/>
【2011年9月24日朝日新聞、１２月５日・８日日経、11日毎日、１５日読売、２８日産経新聞より】<br/>

        ]]></content> 
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    <title type="text"><![CDATA[PR: 駒沢大学駅　新築マンション2LDK4880万円より]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/j1awefMIk2z./VsAlFHAzr.Ru?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/j1awefMIk2z./VsAlFHAzr.Ru?type=3&ent=446a534af8b034e4ed8e35f71b88cd84"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 最終3邸先着順受付中　自然に恵まれた開放的な暮らし　オープンレジデンス世田谷弦巻 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-12-31T00:08:30+09:00</created>
    <modified>2011-12-31T23:24:21+09:00</modified>
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    <title>北方領土をめぐる最近の話題</title>  
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    <issued>2011-11-30T23:49:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>その他</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
●日露首脳会談の開催<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201112/01/23/d0007923_0274851.jpg" border="0" width="283" height="192" align="left"/>２０１１年１１月１２日、ＡＰＥＣ首脳会議が行われたホノルルで、野田総理とメドベージェフ大統領が会談を行った。外務省の発表によれば、両首脳は領土問題解決の必要性を再確認し、議論を継続させることで一致。野田総理から、交渉は日露両国間の諸合意に基づき行う必要があることを指摘した、とのことだ。ここで、「諸合意に基づき行う必要性で両国は一致」にもなっていないことが気になる。９月２１日、国連総会開催時に行われた日露外相会談の概要を見ると、玄葉外相とラヴロフ外相は、「日露間では立場の違いがある中で、法と正義を重視して、静かな環境で議論を継続していくこと」で一致したとある。<br/>
<br/>
北方領土交渉を「静かな環境」で、という表現をよく見かけるが、意味するところがもうひとつ不明である。昨年１１月１日、メドベージェフ大統領は、国後島を訪問。ソ連時代を含めロシア国家元首として初めての北方領土訪問であり、ロシアの実効支配をまざまざと見せつけた。領土問題の議論を重ねた上で、解決に向けた次のステップに進む具体的道筋など依然全く見えない状況である。問題解決に向けた交渉は徐々に後退しているようにも感じられる。<br/>
<br/>
●国後島、地熱発電で全電力供給へ<br/>
北方領土のインフラ整備を行う「２００７～１５年　クリル諸島社会経済発展計画」の一環で、国後島で地熱発電所のタービンが更新・増設され、島全体の電力が地熱で賄われる予定である。計画が達成されれば、日本側が供与したディーゼル発電施設が不要になる可能性もあるとのことだ。 <br/>
<br/>
２０１１年１月３１日、国後島を視察したバザルギン地域発展相は、２０２５年までのクリル発展計画を用意することを打ち出した。特に「クリル諸島連邦目的別プログラム」として、港湾施設、空港整備のほか、漁業発展のため、現在２つの水産加工場に加えて８つの新たな工場を建設する予定である。総額１８０億ルーブル（約５４０億円）が計上されると伝えられている。<br/>
<br/>
●北方四島交流等事業用の新船舶就航へ<br/>
ビザなし交流など北方四島への交流事業に使用していた船舶が老朽化したため、２００７年１２月、バリアフリー設備も導入した船（約１２００トン）を造る方針が決定された。２０１１年５月、新船舶の名は公募で「えとぴりか」となり、同年１１月１１日、命名進水式が広島県江田島市で行われた。「えとぴりか」は、来年５月からの就航が予定されている。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201112/01/23/d0007923_0281690.jpg" border="0" width="340" height="238"/></center><br/>
<br/>
【２０１１年2月1日朝日新聞、11月3日北海道新聞、９月２３日「ロシアの声」、外務省ＨＰ、内閣府ＨＰ等より】<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
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    <title type="text"><![CDATA[PR: レノボ DO.プロジェクト]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/j1awefMIk2z./yoeX29Ma3UbP?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/j1awefMIk2z./yoeX29Ma3UbP?type=3&ent=044f16766780accbe9d235ef4437e88a"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 中田英寿と一緒に大きな夢に挑んでみないか？ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-12-01T00:30:33+09:00</created>
    <modified>2011-12-01T00:36:35+09:00</modified>
    <issued>2011-11-30T23:49:00+09:00</issued>
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    <title>『チェルノブイリの祈り－未来の物語』 『チェルノブイリ診療記』</title>  
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    <issued>2011-10-30T15:12:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-10-30T15:41:57+09:00</modified>  
    <created>2011-10-30T15:12:33+09:00</created>  
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      <name>itsumohappy</name> 
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    <dc:subject>文学・本</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの２冊の感想です。<br/>
<br/>
************<br/>
１９８６年４月２６日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の４号炉が爆発・炎上した。事故から３６時間経過した時点で、発電所から３キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。２８日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。５月５日～６日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、５２０京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の２００～５００倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は３７京～６３京ベクレルである。<br/>
５月６日、３０キロ圏内の住民に避難命令が出され、約１３万人が避難した。<br/>
<br/>
ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約６０万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から５年間で約３万人、２０１１年現在まで約１０万人が死亡したとされる（国連は、２００５年、被爆による死者は約４千人と推定している）。<br/>
<br/>
事故から２５年経った現在も、許可が無ければ３０キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」（わがままな人）と呼ばれる人々は現在２００人以上という。<br/>
２０１１年４月２０日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、ＥＵなど約３０の支援国や国際機関が、約６５０億円相当の資金拠出を表明した。<br/>
チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは２０６５年の予定である。<br/>
<br/>
【201１年４月１４日・２０日日経、６月９日読売、１１日日経新聞より】<br/>
************<br/>
<br/>
『チェルノブイリの祈り－未来の物語』<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201110/30/23/d0007923_14591510.jpg" border="0" width="198" height="286" align="left"/>スベトラーナ・アレクシエービッチ著（１９９８年）。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモービッチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が３年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、９６年より雑誌に発表したものの集大成である。<br/>
<br/>
ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第３次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために１０年の歳月をかけたと語っている。<br/>
<br/>
以下、主な証言の要約である。<br/>
************<br/>
＜殉職した消防士の妻＞<br/>
プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「１６００レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな２週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。<br/>
<br/>
＜事故処理にあたった兵士＞<br/>
３４万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「１万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。<br/>
<br/>
＜映像ジャーナリスト＞<br/>
チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。<br/>
<br/>
＜住民たち＞<br/>
原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。　<br/>
疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。<br/>
<br/>
＜ベラルーシの核エネルギー研究所元所長＞<br/>
ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。<br/>
一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。<br/>
<br/>
＜同研究所技師＞<br/>
食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。<br/>
<br/>
＜党地区委員会元第一書記＞<br/>
体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため　、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。<br/>
************<br/>
<br/>
ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。<br/>
以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。<br/>
<br/>
<br/>
『チェルノブイリ診療記』<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201110/30/23/d0007923_1502516.jpg" border="0" width="204" height="293" align="left"/>菅谷昭著（２０１１年７月）。１９９８年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。<br/>
著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、１９９６年から２００１年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州（１㎡あたり１４８０キロベクレル（４０キュリー）以上）などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。<br/>
<br/>
ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の１０年間は７名であったが、事故後の１０年間では４２４名。当初、事故は伏せられていたため、人々は５月１日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは５月２日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。<br/>
<br/>
ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は８日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。<br/>
<br/>
氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、１０年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績（＝手術件数）で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。<br/>
<br/>
「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術（首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術）が認められるように努めた。手術を手がけた患者は７５０人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。<br/>
<br/>
現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第２のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。<br/>

        ]]></content> 
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    <title>映画 『カティンの森』</title>  
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    <modified>2010-09-30T23:39:18+09:00</modified>  
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    <dc:subject>映画</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201009/30/23/d0007923_23262958.jpg" border="0" width="198" height="281" align="left"/>アンジェイ・ワイダ（1926～　）監督作品（2007年）。1943年、独ソ戦のさなかにドイツ軍が、スモレンスクの森で約４千名の射殺されたポーランド人将校が埋められているのを発見した事件をテーマにしている。ワイダ監督の父も犠牲者の一人。監督は、1957年、カンヌ映画祭でフランスを訪れた際に読んだ、西側で出版されたカティン事件に関する文献で真相を知り、以来、事件の映画化を構想していた。<br/>
<br/>
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。17日にはソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約の秘密議定書（モロトフ・リッベントロップ協定。39年8月）で、独ソは、ポーランドとバルト三国を分割占領することを取り決めていた。映画は、突然のソ連侵攻により、東西からの敵に挟み撃ちされた避難民が右往左往するシーンから始まる。ソ連軍の捕虜となりやがて虐殺されることになるポーランド将校と残された家族たちの運命を、複数の主要人物のストーリーが交錯する形で描いている。<br/>
<br/>
戦後、ソ連の体制に組み込まれた「新生ポーランド」では、カティンの事件はナチスの仕業であるとして、真相の究明は封印された。この映画では、「カティン後」の描写が印象的である。事件を巡って、家族でも新体制に与して生きる者とソ連に背を向ける者とに分かれる。抵抗する者は反ソ活動で逮捕される。演出は淡々と抑えているが、事件のリサーチを重ねて再現したという将校処刑のシーンはおぞましい。また、映画ではさほど説明がないので、多少歴史的な事項をふまえないとわかりにくい部分があるかもしれない。ポーランド人将校の妻子の逃避行を手助けする、家族を失くしたソ連軍人がやや唐突に登場するが、その軍人もまたスターリニズムの犠牲者である、と示唆する場面など。<br/>
<br/>
大戦中、英米はドイツとの戦闘を優先し、カティンの件で、連合国の一員であるソ連を糾弾することをあえて行わなかった。<br/>
ポーランド国内で公然とカティン事件の解明を求める声が上がったのは1980年代後半になってからである。88年、ソ連のグラスノスチ政策に伴い、ソ連・ポーランド両国合同の歴史委員会が発足して事件の見直しが進められた。1990年、ゴルバチョフは、事件はソ連の犯行であると公式に認めた。<br/>
ソ連により銃殺されたポーランド人将校らは、カティンの犠牲者も含めて約２万２千人と言われる。<br/>
<br/>
2010年４月7日、プーチン首相は、ポーランドのトゥスク首相らポーランド首脳を初めてカティンに招いてカティン事件の追悼式典を開き、ワイダ監督もこれに出席した。この式典に招待されなかった、親米派とされるカチンスキ大統領らが、別に開いたポーランド主催のカティン追悼式典に出席のためスモレンスクに向かう途中、政府高官約90人とともに飛行機事故の犠牲となった出来事（４月10日）は記憶に新しい。<br/>
<br/>
<br/>
【参考】<br/>
2010年9月12日･8月11日･5月7日･4月8日、1988年3月29日朝日新聞ほか<br/>

        ]]></content> 
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    <title>シャガール－ロシア・アヴァンギャルドとの出会い～交錯する夢と前衛～</title>  
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    <issued>2010-08-31T23:30:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-10-03T17:58:23+09:00</modified>  
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    <dc:subject>展示会</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/03/23/d0007923_17555152.jpg" border="0" width="241" height="341" align="right"/><br/>
ポンピドー国立芸術文化センター（パリ）所蔵のシャガール（1887ー1985）とゴンチャローワ、ラリオーノフ、カンディンスキーらの作品展の感想です（東京藝術大学大学美術館：開催中～10.11；福岡市美術館：10.23～2011.1.10）。<br/>
<br/>
シャガールの芸術と20世紀はじめに始まったロシア・アヴァンギャルドとの関わりに焦点をあてた企画で、シャガールが影響を受けた「ネオ・プリミティヴィスム」（ロシア・アヴァンギャルド運動初期の動きのひとつとされる）の絵画が合わせて展示されている。<br/>
<br/>
右： 『ロシアとロバとその他のものに』（1911）<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/03/23/d0007923_17564451.jpg" border="0" width="150" height="191" align="left"/><br/>
ナターリア・ゴンチャローワ『収穫物を運ぶ女たち』（1911）<br/>
ネオ・プリミティヴィスムは鮮やかな色彩と簡潔な描写が特徴。<br/>
<br/>
1887年、帝政ロシア・ヴィテブスク（現ベラルーシ）のユダヤ人町に生まれたシャガールは、1908年から2年間、ペテルブルクで、バレエ・リュスの舞台芸術を手がけていたレオン・バクストの美術教室に通ったのち、パリで引き続き絵を学んだ。ロシア革命後、ヴィテブスクに戻り、革命政府の支援をえて1919年、美術学校を開くが、教授として招いたマレーヴィチと対立し、学校を辞職。翌年、モスクワで舞台美術の仕事を始めた。その後、パリに移住し、37年にフランス国籍を取得するが、ナチスのパリ占領を機に41年米国に亡命した。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/03/23/d0007923_17571071.jpg" border="0" width="241" height="289"/></center>『彼女を巡って』（1945）  ベラ夫人の思い出を描く。シャガールは赤より青が美しい。<br/>
<br/>
ドイツ国内にあったシャガール作品は37年、退廃芸術としてナチスにより撤去され、独ソ戦で故郷のヴィテブスクは焼き払われた。渡米してまもなくの44年にはベラ夫人が死去。そのようななかで、シャガールの画風は、キュビズムやフォービズムの影響を受けた抽象的なものから幻想的な表現を主体としたものに変化していった。画面の端には農村生活のモチーフが配され、記憶の民らしく常に思い出の中に生きていたかのようだ。<br/>
<br/>
画家は、戦争や混乱の時代を亡命者として生き抜き、つらいことも多かった現実を直視する表現よりも、脱力したような人物が漂う、現実感のないふわふわの夢の世界を描いた。作品だけを見ていると、愛や夢ばかりでもうひとつパンチがないと感じてしまうが、やはりいろいろな要因が背景にある。故郷に残っている親族を思えば、亡命画家としては反ソ的なものも描けなかった。<br/>
　<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/03/23/d0007923_17573459.jpg" border="0" width="227" height="264" align="left"/><br/>
『日曜日』（1952-54）  女性は再婚したヴァランディーナ夫人。<br/>
<br/>
舞台美術の代表作としては、メトロポリタン・オペラ「魔笛」の衣装デザイン、舞台スケッチが展示されている。<br/>
また、会場ではビデオ『シャガール：ロシアとロバとその他のものに』（52分）が上映されており、画家本人の絵画に対する思いなど映像を通してより理解を深めることができる。このなかに出てくるユダヤ人村の様子は映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の光景そのものだった。<br/>
<br/>
展示会の性格上、会場に置いてあるペーパーには作品リストに加えて、サイトに出ている年譜くらいはあったほうがよいと思った。どの展示会でも言えるが、立派な図録だけでなく、コンパクトで安価な小冊子程度のものも作成してほしい。<br/>

        ]]></content> 
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    <title>ギンズブルグ 『明るい夜暗い昼』　</title>  
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    <issued>2010-07-30T00:40:32+09:00</issued>  
    <modified>2010-07-30T00:40:29+09:00</modified>  
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    <dc:subject>文学・本</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201007/30/23/d0007923_0345894.jpg" border="0" width="180" height="193" align="right"/>スターリン時代の強制収容所生活を生き抜いた学者エヴゲーニヤ・ギンズブルグ（1904－1977；右）の回顧録。（中田甫訳；集英社／続編、続々編の３冊構成。現在は絶版のもよう）<br/>
<br/>
カザンの大学で教鞭をとっていた著者は、共産党に「全生涯を捧げる決意」をしていたほど忠実な党員であったが、1934年12月のキーロフ暗殺をきっかけに始まった大粛清に巻き込まれ、37年、逮捕された。逮捕理由は、反党的として逮捕された同僚学者の著作や論文の「過ち」を指摘しなかったことだった。逮捕に納得せず、自らを地下テロ組織のメンバーとした「自白調書」へのサインを拒否した著者は、軍事裁判で禁固10年、公民権剥奪５年の判決を受けた。<br/>
<br/>
家族（カザン市ソヴィエト議長の夫・アクショーノフと男児２人）と離れ離れになり、監獄で取調べを受ける日々からこの記録は始まる。収容された者同士が壁を叩く音やオペラのアリアで情報交換を行うなどの獄中生活の様子が詳しい。<br/>
教養があり信頼もされていた同僚が、取調官のいいなりのままに密告で他人の命を次々と犠牲にしたり、著者を断罪した取調官もその後逮捕・粛清されたり、といったエピソードが前半は続く。著者は、取調べで「自分だけのことについて真実を述べる。作りごとについては一切サインせず、誰の名も挙げない」という姿勢を貫いた。<br/>
判決後、中継監獄を経て、鉄道と船で極寒の地コリマ（「12ヶ月が冬で残りが夏」の地）に移送され、様々な労働に従事した。囚人を牢獄に閉じ込めておくより強制労働させるほうが「効率的」であるという国の方針転換による。<br/>
タイガでの作業は零下50度にならないと中止にならない。過酷な環境の中で、著者は何度も生存を脅かされる危機に陥ったが、頑健さと才気で乗り切った。ロシア・インテリゲンチャの精神、即ち、世紀はじめの賢者や詩人の遺産が自らを支えたと記している。<br/>
<br/>
著者は刑期を満了するも、49年再逮捕され、東部シベリア地域に終身移住の判決を受けた。しかし、大陸から呼び寄せた次男（後の作家ワシーリー・アクショーノフ。長男は独ソ戦中にレニングラードで餓死）や囚人時代に知り合ったドイツ人医師との生活を願い、引き続きコリマに住むことを許された。追放処分が解かれたのは、スターリンの死後。18年ぶりに開放され、56年、名誉回復を受けた。<br/>
<br/>
解放後は、回想記の作成に打ち込んだが公の出版はかなわず、国内にはサミズダート（私製版／地下出版）で流れ、やがて欧州、米国でも読まれるようになった。母国で完全な姿で出版されるという願いは、著者の存命中果たされなかったが、ペレストロイカ期の1990年、モスクワで公刊された。<br/>
<br/>
平穏な時代であれば、一生表に出てくることはなかったかもしれない、個人の奥に潜む悪性に関して、著者は以下のように記している。<br/>
「･･･（他人を貶めた）人間はいかに良心の呵責にさいなまれるものか･･･苦しみの中で許しを請う人を見れば、「わが過ちなり」がそれぞれの人の心の中に鼓動しているのがわかる」<br/>
この本に描かれている生き地獄と、その究極の状況下にして初めてあらわれる、人間のさまざまな本性や生き様はあまりにすさまじく、言葉では説明し難いほどの衝撃を受ける。
        ]]></content> 
  </entry>  
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    <title>最近の話題から</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://amihappy.exblog.jp/11319060/"/>  
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    <issued>2010-06-13T23:57:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-06-18T11:28:10+09:00</modified>  
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    <dc:subject>その他</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
最近の報道から北方領土に関する話題を紹介します。<br/>
<br/>
●ビザなし交流をめぐる動き<br/>
1992年から毎年実施されている四島交流（ビザなし交流）事業は、本年も５月から開始され、すでに日本側からの訪問は２回実施されている（５月末現在。国後、色丹に各６０名程度）。領土返還の環境づくりの事業であるため、交流プログラムでは、現地ロシア人住民と領土問題を議題とする「対話集会」が毎回行われてきた。しかし、ロシア側は、今年度の交流計画策定段階で、対話集会の中止を要請し、日ロの協議の結果、今年は「対話集会」に代わって領土問題を主要なテーマにしない｢住民交流会｣が開かれることとなった。<br/>
<br/>
　　対話集会の模様（２００７年５月）<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201006/15/23/d0007923_22422186.jpg" border="0" width="397" height="220"/></center>日ロの協議の場で、当初ロシア側は、対話集会中止のほかにも、日本側渡航者数の制限、四島に渡航するチャーター船の入港税徴収、同行記者の取材許可証の義務付けなど要求した。また、根室港と四島との定期航路開設、日ロ共同の道路などインフラ整備などを事業継続の条件に挙げた。<br/>
<br/>
これまでにも四島訪問事業でのロシア出入国カードの提出要求などがあったが、今回、ロシア側が強硬な姿勢を見せている背景には、「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律（北特法）」の改正（09年７月）により北方領土が日本の「固有の領土」と規定されたことのほか、訪問団を受け入れるロシア側住民が事実上同じ人々であり、対話集会を毎回一から始めることに嫌気がさしていることも影響しているらしい。<br/>
<br/>
結局、今年は例年どおりの規模で事業を行うことをロシア側は受け入れ、国後での住民交流会ではロシア人出席者が例年の１０数名から１００人以上になったそうだ。<br/>
<br/>
第一陣の国後島上陸の際、日本側関係者間の調整不足のためか、チャーター船長が、今回初めてロシア側から提示された入港書類に記入・提出したので、２回目の色丹では、船長の署名が要らないＩＭＯ（国際海事機関）の書式による届を日本側で作成し、提出したという。また、ロシア外務省発行の記者証取得を避けるため、同行記者は動画撮影の自粛を当座受け入れた。<br/>
<br/>
チャーター船ロサ・ルゴサ号<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201006/15/23/d0007923_22431672.jpg" border="0" width="279" height="182" align="left"/>入港税については、国後島にあるロシア側の交流窓口が、1年間有効の入港税として約9,700ルーブル（約３万円）支払ったそうだ。日本側から交流事業の経費は一括して四島側に支払われるが、外務省は、入港税として支払うものではないとしている。ロシア国内法の適用をどうにか一見避けた形であるが、今後も同様の問題が続くのではと危惧されている。<br/>
四島交流事業を維持したい日本のいわば足元を見ているロシアの狙いは、四島交流の枠を使った経済交流の開始であると指摘する声も多い。<br/>
<br/>
北方四島への日本人の渡航に関する枠組については、こちらをご参照下さい。<br/>
【2010年２月７日、３月11日、５月14・15・29日北海道、６月６日毎日新聞より】<br/>
<br/>
●領土交渉に進展なし<br/>
2010年６月2日に辞任を表明した鳩山総理は、同日の記者会見で「やり残したことは日ロ関係」と語った。昨年9月の就任時、半年ないし1年で北方領土交渉の進展を図ると表明しており、今年６月以降、メドベージェフ大統領と3回首脳会談が予定されていた。<br/>
<br/>
６月８日、菅総理は就任記者会見で、北方領土問題に対する具体的方針について、「鳩山総理がどういう約束をメドベージェフ大統領とされているのか、あるいはその流れがどうなっているのか、必ずしも詳細に状況をまだ把握しておりません」と答え、これまでの経緯などを十分検討した上で判断すると語った。<br/>
<br/>
再任された岡田外相は、６月９日、ロシアのラブロフ外相との電話会談で、北方領土問題の打開策について協議を継続していくことを確認し、新政権でも日本の対ロ政策に大きな変更はないことを表明。一方、ラブロフ外相は、これまでの日ロ協力関係の発展を期待し、平和条約締結についても、建設的な対話をする用意があると応えた。<br/>
対話の姿勢を見せても、北方領土問題に対するロシア側の主張に変化は見られない。ラブロフ外相は、ロシアによる四島の領有は第二次大戦の結果で、日本はそれを認めるべきであり、その上で領土交渉を行うとしても日ソ共同宣言（1956）による歯舞・色丹の返還で決着する（2010年５月19日ロシア下院での発言）、と表明している。<br/>
<br/>
鳩山総理が最後の閣議で、菅氏に渡したメモには「日米、日中、日韓をよろしくお願いします」とあったそうだ。日ロ関係、なかでも北方領土の問題は、最大の懸案ではあるけれども、現在、日本政府が抱えている内政問題や外交交渉のなかで最優先事項には位置づけられていない。今後も当面、日ロともにそれぞれの立場を会談で主張し続けるだけの「領土交渉」になるのだろう。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201006/14/23/d0007923_15124614.jpg" border="0" width="170" height="186" align="right"/>政府の北方領土問題対策には、外交交渉のほか、内閣府北方対策本部が行う啓発事業があるが、国民の関心を北方領土問題に引きつけ、返還運動を行い続けるのは容易ではなさそうだ。<br/>
（写真右）前原沖縄及び北方対策担当大臣のアピール　<br/>
<br/>
<br/>
【2010年５月20日毎日、６月５日産経、６月９・10日北海道新聞より】<br/>
<br/>
<br/>
●北方四島周辺水域の安全操業の監視を強化<br/>
2010年１月29日、日ロの政府間協定に基づき国後島沖で操業していた、羅臼漁協所属のスケトウダラ刺し網漁船２隻が、ロシア国境警備局のヘリコプターから銃撃を受ける事件が起きた。<br/>
その後の海上保安庁の調べで、この２隻は、航跡を記録するＶＭＳ（衛星通信漁船管理システム）位置データを約４時間半受信していないことが判明し、さらに、同時に操業していた僚船１３隻とホッケ刺し網漁船15隻がＶＭＳを遮断していたことが明らかとなった。銃撃を受けた船の船長は、道海面漁業調整規則違反（区域外操業）で罰金刑を受けた。<br/>
<br/>
北方領土周辺海域での「安全操業」は、領土問題に直結する管轄権を棚上げし、双方の信頼に基づいて行われるものとして１９９８年に始まった。漁業者はロシア側に協力費を支払い、決められたラインの中で操業する。<br/>
これまでにもロシア側による銃撃・拿捕事件が起きており、事件の真相はあいまいにされる場合が多かったが、日本漁船拿捕防止の目的で2009年10月、漁協にＶＭＳが導入された。<br/>
<br/>
1月の銃撃事件を受けて、北海道は、ＶＭＳの発信器に細工ができないようにし、操業を常時監視するなどの再発防止策をまとめ、5月11日、道議会に報告した。道海面漁業調整規則違反の罰則も強化され、違反操業者に対する出漁禁止の処分日数が増える。この防止策は、2010年10月からホッケ刺し網漁、11年1月からスケトウダラ刺し網漁から導入される予定である。<br/>
<br/>
スケトウダラの価格暴落により、地元では、ルールを守っていては生活できないとの声がある。しかし、この度のＶＭＳ切断事件について、領土問題の犠牲となっている漁業者への同情論はなく、非難の声が強いことを道は危惧し、再発防止に毅然とした姿勢で臨むと報道されている。<br/>
<br/>
北方領土周辺海域での日本漁船操業に関するロシアとの協定についてはこちら１・２もご参照下さい。<br/>
【2010年5月11日北海道、13日毎日、6月1日日刊水産経済新聞より】<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>元シベリア抑留者への給付金支給法案</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://amihappy.exblog.jp/11218485/"/>  
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    <issued>2010-05-31T19:15:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>歴史</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
戦後、ソ連やモンゴルに強制抑留された人々に特別給付金を支給する法案（戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法案）の成立が待たれている。同法案は、元抑留者に抑留期間に応じて１人２５万円から１５０万円を給付することを柱とするもので、今年９月に解散予定の独立行政法人「平和祈念事業特別基金」を１３年３月末まで存続させて、その基金約２００億円を給付金の財源に充てる。法案は、２０１０年５月２１日、参議院で全会一致で可決され、５月中に衆議院でも可決・成立が見込まれていたが、昨今の国会情勢の影響により５月末現在も衆議院で審議中である。<br/>
<br/>
元シベリア抑留者への補償に関して、日ソ共同宣言（１９５６）で両政府は相互に賠償請求を放棄したため、元抑留者たちは、日本政府に対し、強制労働の未払い賃金の補償と謝罪を求め、法廷で争ってきた。しかし、いずれのケースも敗訴確定または敗訴となっている。全国抑留者補償協議会（全抑協）が、国に未払い賃金の補償を求めた訴訟での最高裁判決（１９９７．３．１３）では「抑留も、国民のひとしく受忍しなければならなかった戦争損害のひとつであり、抑留の補償には立法措置を講ずることが必要である」とされた。全抑協はこの判決を受けたのちは、補償を実現する立法に向けた要請活動を続けてきた。０４年以来、元抑留者に給付金を支給する法案は、野党（民主党等）から度々国会に提出されたが、廃案ないし否決が繰り返された。０９年の政権交代により、元抑留者に対する国からの給付金支給の実現性が高まったが、政府内には、別の国家補償問題に波及するとの懸念も根強いと言われる。この度の法案が政治決着により成立することが期待されている。<br/>
<br/>
法案には、「特別給付金の支給」のほか、強制抑留の実態調査等（抑留者の埋葬場所、遺骨等の収集、抑留の実態解明その他）に関する基本方針を定めることが盛り込まれている。なお、特別給付金の支給対象は、「法律の施行の日において日本の国籍を有するもの」であり、日本軍に徴用された朝鮮半島出身者など外国籍の元抑留者は対象外である。<br/>
<br/>
【200９年１０月１５日毎日、２０１０年１月９日読売、５月1４日毎日、５月２１日北海道新聞より】<br/>
当ブログの関連記事もご参照ください。<br/>
<br/>
【参考】<br/>
以下、長いですが、全抑協会長でシベリア立法推進会議代表でもある平塚光雄氏の声を一部紹介します。<br/>
　<br/>
･･･自公政権は、シベリア抑留問題への対応は１０年９月（注１）で完全に幕を引くと決めていた。代わりに記念品を配る事業を実施したが、０７年に届いた記念品に添付されていたちっぽけな送付状には「先の大戦における御労苦に対し心から慰藉（注２）の念を表します　内閣総理大臣」とあるだけで、当時の安倍晋三首相の名前も日付も記入されておらず、あぜんとした。首相官邸に送付状を返却しに行き、抗議すると、官房副長官も「お怒りは当然」とすぐに送付状を作り直し、あらためて送ってくれた。その時一緒に官邸を訪れた仲間のうち、この２年半で半分の４人がすでに他界した。私自身も今年の正月は病院で迎えた。もはや残された時間は少ない。<br/>
　小泉構造改革の後遺症と空前の不況で、国の支援を必要とする社会的弱者は他にも多い。私たちだけを特別扱いせよと求めるつもりはないが、遅れるなら遅れると説明し、どうしてもできないのであれば、理由を明らかにして謝罪してほしい。<br/>
　すでに野党側の了承も得られている今回の法案も、あれだけの過酷な重労働３年に対し、２５万円の特別給付金では少なすぎるという気はする。だが、金額の問題ではない。強制労働を国として受け止め、その責任を認めてくれるのであれば、尊厳回復のあかしとして、私たちはそれを受け入れようと決めている。国として、歴史的、政治的にけじめをつけていただきたい。<br/>
　私たちは国と和解することを望んでいるが、私たちの声がどこまで鳩山首相に届いているのかもわからない。もどかしさと焦りを禁じ得ない。<br/>
　「領土はなくなることはないが、人のいのちには限りがある」と語って、１９５６年にソ連との交渉のためモスクワに赴いたのは、首相の祖父の鳩山一郎首相だった。<br/>
　シベリアで弔いもできないまま多くのいのちを見送ってきた私たちのいのちがあるうちに、抑留問題のけじめをつけていただきたい。<br/>
<br/>
　（注１）当初予定されていた平和祈念事業特別基金の解散時期<br/>
　（注２）いしゃ。慰めいたわること。<br/>
<br/>
出典：（私の視点）シベリア抑留　今こそ国はけじめをつけよ　（2010年2月18日  朝日新聞）<br/>
<br/>
【追記】<br/>
2010年6月16日、第174回通常国会の最終日に、戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法案は成立し、同法は即日公布・施行された。<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>話の話 ロシア・アニメーションの巨匠　ノルシュテイン＆ヤールブソワ</title>  
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    <issued>2010-04-30T16:00:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-04-30T16:03:56+09:00</modified>  
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    <dc:subject>展示会</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201004/30/23/d0007923_1555553.jpg" border="0" width="142" height="138" align="right"/><br/>
ロシアを代表するアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン（1941-）（右）とその作品の美術監督であるフランチェスカ・ヤールブソワ（1942-）夫妻の展示会の感想です（神奈川県立近代美術館 葉山館・６月27日まで）。<br/>
<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201004/30/23/d0007923_15503868.jpg" border="0" width="213" height="302" align="left"/><br/>
ノルシュテイン作品の下絵・絵コンテを中心に、作家の世界を紹介する展示で、現代のCGを多用した量産アニメーションとは全く異なる詩的な映像にふれることができる。CMなどをのぞく過去約40年間の作品（共同監督を含む）のほとんど全て（『25日-最初の日』（1968）、『ケルジェネツの戦い』（1971）、『キツネとウサギ』（1973）、『アオサギとツル』（1974年）、『霧の中のハリネズミ』（1975）、『話の話』（1979）、『冬の日－狂句 木枯らしの身は竹斎に似たる哉』（2003）、『外套』（制作中））について展示されている。11時と15時に上映会がある（『ケルジェネツの戦い』を除く）。<br/>
<br/>
<br/>
ノルシュテインのアニメーションは、絵コンテから作成した切り絵を少しずつずらしながら撮影し動きを作るという手間のかかる手法で作られる。マルチプレーン（多層のガラス面に切り絵を配置して撮影する）で奥行きを出す表現も独特で、手作業の暖かさが伝わってくる。複雑な色づかいの変化が美しい。『キツネとウサギ』からは土気が、『霧の中のハリネズミ』（右）からは冷気が感じられる。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201004/30/23/d0007923_15534781.jpg" border="0" width="283" height="230" align="right"/>1980年に着手した『外套』は今もって制作中で、会場ではラッシュを見ることができる。主人公アカーキエヴィチの表情やしぐさの表現が驚異的である。『話の話』はやや観念的な作品。個人的なおすすめは『霧の中のハリネズミ』。君がいなければ誰と一緒に星を数える？と切々と訴える小熊の脇で夢から覚めやらぬ様子のハリネズミ。ブルーグレイを基調とした幻想的な世界が展開されている。<br/>
<br/>
ノルシュテインは、芭蕉、一茶、北斎などを信奉する日本文化愛好家でもあるそうだ。アニメ作家育成に熱心で、日本でワークショップを開くなど制作指導を行っている。<br/>
<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>ギリャロフスキー 『帝政末期のモスクワ』</title>  
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    <issued>2010-03-28T22:50:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-03-29T12:23:58+09:00</modified>  
    <created>2010-03-28T22:50:04+09:00</created>  
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    <dc:subject>文学・本</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
ウラジーミル・アレクセーエヴィチ・ギリャロフスキー（１８５３－１９３５）著。19世紀末から20世紀初頭のモスクワ社会のルポルタージュ（原題『モスクワとモスクワっ子』）。ギリャロフスキー、通称ギリャイおじさんは、当時の新聞に掲載していたスラム街のルポで有名だったらしい。チェーホフやシャリアピンら著名人たちとも交流し、ギリャイおじさんの家は、演劇、新聞、美術界のサロンとなっていたようだ。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201003/28/23/d0007923_22433558.jpg" border="0" width="142" height="188" align="left"/>ギリャロフスキー（左）は、ヴォルガの船曳き、サーカスの曲馬師、俳優など多くの職業を経験。<br/>
１ルーブル硬貨を指先で割り、蹄鉄を折り曲げるなど並外れた腕力の持ち主だった。<br/>
<br/>
ギリャロフスキーは、70歳を過ぎてから以降約10年間ドキュメンタリーを執筆。『帝政末期のモスクワ』は１９２６年に出版された。革命前のモスクワで、ブルジョワジーの豪壮な屋敷から死体の埋まる下水道の中まで、好奇心の赴くまま街のあちこちをつぶさに見て歩いた記録の集大成である。<br/>
<br/>
この本でやはり印象的なのが貧民街や泥棒市場のルポ。強盗、脱走犯など「人生のルビコン河を渡ってしまった人たち」のうごめく「ヒトロフカ」の魔窟ぶりを仔細に紹介している。<br/>
モスクワ芸術座が「どん底」の上演に際し、演出家、俳優一同はギリャロフスキーに引き連れられてスラムを見学した。スラムの人々に「ぶんやさん」と呼ばれ一目置かれたギリャロフスキーのおかげで全員無事に出てこられた、とある。<br/>
<br/>
スラムの他、銭湯、レストラン、床屋、パン屋、競馬場、骨董市場などのルポが載っている。骨董市場の上客は有名なコレクター、シチューキンであった。60軒あった銭湯はモスクワっ子たる以上、「絶対素通りできない場所」で、どこにも固定客がいた。<br/>
庶民の暮らしぶりだけではなく、シベリアに徒刑となり、女子供も含む囚人たちが市中引き回されたうえ送られていく姿や専制政治打倒を訴え学生運動が先鋭化していく様子など、帝政末期の不穏な社会状況にも言及している。<br/>
<br/>
本書で数多く出てくる地名は、巻末に索引となっていて、現存する場所は今の地名が併記されている。モスクワの街や歴史に関心があれば興味深い本だろう。<br/>
<br/>
レーピン画 『トルコのスルタン宛に手紙を書くザポロジェ・カザークたち』に登場するカザークのモデルになった<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201003/28/23/d0007923_22435241.jpg" border="0" width="454" height="268"/></center><br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>ソルジェニーツィン 『ガン病棟』</title>  
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    <issued>2010-02-28T17:13:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-03-05T09:40:36+09:00</modified>  
    <created>2010-02-28T17:13:12+09:00</created>  
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    <dc:subject>文学・本</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201002/28/23/d0007923_1761171.jpg" border="0" width="227" height="329" align="left"/>アレクサンドル・ソルジェニーツィン（1918-2008）の代表作のひとつ。８年間のラーゲリ生活の後、カザフスタンに追放された著者は、追放生活の間、悪性腫瘍を患ってウズベクスタンの首都タシケントの病院で治療を受けた。その経験を基に６７年に完成したのが『ガン病棟』であるが、ソ連国内の雑誌への掲載は拒絶され、海外で出版された。同書は、ソヴィエト体制が崩壊するまで『煉獄のなかで』と同様、発禁の扱いであった。<br/>
<br/>
タイトルどおり、ガン病棟における患者や医者たちの人間模様の話である。このタイトルでは、あまり進んで手に取る気になれないし、実際楽しい内容でもないが、本当に面白い本を読みたいときに最適だと思う。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
どうして運命はこんなに不公平なのだろう。どうして、ある人間は一生涯、平穏無事に生きつづけ、ある人間は何から何までうまくいかないのだろう。それなのに人の運命はその本人次第だなどという。絶対にそんなことはない。（上巻186頁）<br/>
<br/>
『ガン病棟』の時代設定は１９５５年で、舞台はタシケントの病院。ガン患者たちが、死をどう迎えるのか、人は何によって生きるのかを論じ合う。理不尽な病は老若男女の別なく、そして時には医者をも襲う。「死」或いは「生」にいかに向き合うかという問題は、国や時代をこえた普遍のテーマである。<br/>
<br/>
<br/>
「若いなんてとんでもない！･･･見かけがまだ子供っぽいということですか」<br/>
「･･･きみは嘘をつくことが少なくてすんだ。･･･屈服することが少なくてすんだ。･･･きみは判決を受けたが、私らは読みあげられる判決に拍手喝采することをやらされたのだ。」（下巻207頁）<br/>
<br/>
難病の苦しみに加えて、著者が、患者達のエピソードを通じてえぐり出したのはスターリン体制下で痛めつけられた人々の悲痛な叫び。病棟では、特権階級の小官僚や反体制的とされ服役した流刑囚ら様々な階層の者たちが、単なるガン患者として一時的に平等な立場で日々過ごす。　スターリン死去とベリヤ銃殺（53年）、マレンコフ辞任（55年）、スターリン批判（56年）といった時代の移り変わりに対する彼らの反応が、当然ながらリアリティーに富んでいる。<br/>
<br/>
分量もほどほど（上・下巻）であり、会話の場面が多いせいか文も自然体なので、大テロルなどスターリン時代の出来事をある程度おさえた上で読めば、中学生でもそこそこ理解できる小説だと思う。<br/>
当ブログ記事ソルジェニーツィン 『収容所群島 1918－1956文学的考察』もご参照下さい。<br/>
<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201002/28/23/d0007923_1781049.jpg" border="0" width="255" height="230" align="right"/>『ガン病棟』で言及されている、ガンに効能があるという「チャーガ」（白樺に寄生するキノコ；右）<br/>
小説の、チャーガを研究する「マースレニコフ博士」は実在の人物。<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>『エセーニン詩集』</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://amihappy.exblog.jp/10722954/"/>  
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    <issued>2010-01-31T23:52:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-02-27T11:50:20+09:00</modified>  
    <created>2010-02-01T00:08:36+09:00</created>  
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    <dc:subject>文学・本</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/31/23/d0007923_23552939.jpg" border="0" width="142" height="209" align="right"/>内村剛介氏の選・訳による、抒情詩人セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・エセーニン（1895－1925）の作品集。<br/>
（『世界の詩 53』弥生書房、1968年）<br/>
<br/>
リャザンの農家生まれのエセーニン（右）は、教員養成学校卒業後、1912年、モスクワで働きながら詩作を開始し、15年、ペトログラードの詩壇にデビューした。1917年の10月革命を支持、社会革命党（左派エスエル）の詩人として活躍し、イマジニズム（映像主義）運動にかかわった。農村ロシアの自然を讃えた作品で有名。18年から４年間、ソロフキ、コーカサス、クリミアなどロシア各地を放浪した。<br/>
<br/>
おまえ　いったい　知らないのかい？<br/>
鋼鉄の騎馬－それがもう　生き馬を負かしちゃったんだってことを？<br/>
非力な野には　おまえさん　いくら走ったって　もう　あのむかしは還らない。<br/>
<br/>
　　　（「ソロカウスト」（1920年）より；「鋼鉄の騎馬」は機関車を指す）<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/31/23/d0007923_23594781.jpg" border="0" width="227" height="149" align="left"/><br/>
21年、革命政権に招かれて訪ソした舞踏家イサドラ・ダンカン（1878－1927）と結婚し、23年にかけて共にヨーロッパ、アメリカを旅行した（その後ほどなくダンカンとは離別）。アメリカの印象を「人類最良の衝動が亡ぶ」と言い、都会の機械文明とは全く相容れなかった。（左：ダンカンとエセーニン）<br/>
<br/>
<br/>
見果てた夢、そいつはもうよび起こさないで。<br/>
成るようにして成らなかったこと、そいつもそっとしておいて。<br/>
喪くすのも、疲れきるのも早すぎた。<br/>
そういう目にあったってこと。<br/>
<br/>
　　　　　（「母への手紙」（1924年）より）<br/>
<br/>
<br/>
すべてお受けする。<br/>
万時ありのままお受けする。<br/>
穴ぼこだらけの道だって　歩いてみせるつもりはある。<br/>
洗いざらいに　たましいを　十月・五月に渡してもいい。<br/>
だがしかし　リラだけは　愛するこのリラだけは　渡しはせぬ。<br/>
<br/>
　　　　（「ルーシ・ソヴェツカヤ」（1924年）より）<br/>
<br/>
エセーニンは、国内の戦闘を導き社会の荒廃をもたらした革命に次第に幻滅し、放蕩とアルコール依存のすえ、25年、レニングラードのホテル・アングレテールの一室で「さようなら友よ」を書き遺し、縊死した。死因をめぐっては、かつて秘密警察による殺害説も取りざたされたことがある。<br/>
<br/>
さようなら　友よ　さようなら<br/>
わが友、君はわが胸にある<br/>
別離のさだめ－それがあるからには<br/>
行き遭う日とてまたあろうではないか<br/>
<br/>
　　　　（「さようなら友よ」（1925年）より；この詩は血で書かれていた）<br/>
<br/>
訳者の内村氏は戦後、ソ連に抑留中、監獄でエセーニンの詩を読む機会を与えられないかわりに、ロシア人の囚人たちにより口移しに数限りなく教えられたそうだ。氏が56年に釈放になった際、パンと交換にまっさきに手に入れたのがエセーニンの詩集だった。<br/>
<br/>
ロシア人にとってエセーニンが国民詩人といわれるゆえんは、作品の読み方が無数にあり、「エセーニンに接近する者の情念如何によって、エセーニンは無数の相貌を示す」ためであるという。本書で紹介されているのはごく一部の作品であるが、ゆっくり何度か読み直しながら進めていくと、詩人の魂の叫びがじわじわと伝わってくる。<br/>
細かい注釈はないが（あえてないのかもしれない)、付録に年表があり、詩の制作年と照らしあわせられるようになっている。<br/>
<br/>
　　　　　　エセーニンの墓（モスクワ：ヴァガンコヴォ墓地）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201002/24/23/d0007923_22432425.jpg" border="0" width="255" height="341"/></center><br/>
【参考】<br/>
『ロシアを知る事典』（平凡社、2004年）、1998年７月６日読売新聞<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
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    <title>ピロシキ作り</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://amihappy.exblog.jp/10615812/"/>  
    <id>http://amihappy.exblog.jp/10615812/</id>  
    <issued>2009-12-31T19:12:00+09:00</issued>  
    <modified>2009-12-31T21:40:59+09:00</modified>  
    <created>2009-12-31T19:12:43+09:00</created>  
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    <dc:subject>その他</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
モスクワとサンクトペテルブルクに旅行した際、食事のときに出てきたパンは黒パンが主体で揚げパンの類は出てこなかった。出店で買ったピロシキは焼いたものだった。私の住む横浜付近では、ピロシキというと必ずといっていいほど中味がひき肉の揚げパン。これはちょっともたれる感じ。普通の焼きピロシキ（というのか）のほうが食べやすい。家で作ると熱々でおいしいです。<br/>
<br/>
【作り方】<br/>
（パン生地）（約15個分）<br/>
強力粉：300g <br/>
ドライイースト：小さじ1 <br/>
牛乳：200㏄<br/>
砂糖：大さじ2 <br/>
塩：小さじ1/2 <br/>
溶き卵：1個分＆つやだし用に少々<br/>
バター：20g<br/>
<br/>
（具）<br/>
キャベツの炒め物＋ゆで卵<br/>
ひき肉と玉ねぎの炒め物<br/>
りんごの砂糖煮<br/>
塩・コショウ<br/>
<br/>
１．牛乳、バターを室温に戻しておく。バター以外を混ぜ合わせ、ある程度混ざったらバターを入れてこねる<br/>
２．パン生地をまとめてラップに包み、温めておいたオーブンの中に1時間位入れて休ませる<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_192772.jpg" border="0" width="195" height="184" align="left"/><br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_1924453.jpg" border="0" width="198" height="179"/></center><br/>
３．その間に具の準備。量は適当。ひき肉の場合、肉160g＋中玉ねぎ1/4使いました。<br/>
強火で調理し、塩・コショウの味付けはややきつめがいいです。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_1931446.jpg" border="0" width="389" height="309"/></center><br/>
４．パン生地をピンポン玉に丸め、麺棒でのばし具を包む。中身によって形を変えるとわかりやすい<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_1942498.jpg" border="0" width="298" height="210"/></center><br/>
５．天板に油を塗ったオーブンシートを敷き、ピロシキにぬれふきんをかぶせ、温かいオーブンの中にまた入れて約20分休ませる<br/>
６．溶き卵をピロシキの表面に塗り、200度で10分強焼く。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_1945688.jpg" border="0" width="369" height="350"/></center><br/>
具は、好きなもの何でもいいと思います。マッシュポテトやキノコの炒め物もよく使われるそうです。パン生地はあまりこねなかったので固めに仕上がりました。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/31/23/d0007923_1951593.jpg" border="0" width="312" height="236"/></center><br/>
ひき肉をいためる時に小麦粉を入れるとまとまりやすいかも。<br/>
オーブンの調子がわるく、また2回に分けて使ったので２時間位かかってしまった(--)　<br/>
ピロシキはロシアではおにぎりのような存在らしいですが、おにぎりのほうがよほど素早くできますね。<br/>

        ]]></content> 
  </entry> 
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