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  <title>塩はうまくてまずいです</title>  
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  <modified>2012-05-23T22:43:57+09:00</modified>  
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    <name>hosokawa18272</name>
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  <tagline>うそとかほんととかを適当に</tagline>  
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    <title>まるで現代を見てるような時代</title>  
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    <issued>2012-05-23T22:22:00+09:00</issued>  
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      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
みなさん日食は見られましたか？<br/>
私のトコは一日中晴れて太陽が良く見えました。<br/>
えーと。午前６時～９時以外の話ですけど・・・・。w<br/>
なんだよもう。日食やってる時間だけ雨かよ。 (´Д⊂ヽ<br/>
せっかく日食用メガネ買って準備してたのに。残念。<br/>
<br/>
押入れを漁ってましたら学生時代に受け取った借用書がけっこう出てきました。<br/>
これが全部回収できれば、なかなかの小遣いになりますなー。<br/>
ま。今度会ったときにでも払ってもらいましょうかね。w<br/>
もちろん私が書いた借用書があれば相殺しますよ。<br/>
心当たりがある方はよろしくお願い致します。うそです。<br/>
<br/>
さて。戦前昭和史について本当にざっくりと書いてみたのですが、<br/>
やっぱりこの時代って激動すぎます。そして非常に面白い。<br/>
まるで現代を見ているかのような錯覚に陥ります。<br/>
<br/>
そこでまあ。ついでに戦前昭和史に関する雑感を脈略なくダラダラと。<br/>
でも戦前昭和史って、それ自体がなんかタブーっぽい雰囲気を感じますね。<br/>
信長とか曹操とかの話と同じ様には語れません。<br/>
同じ 「歴史」 の話なんですが・・・。<br/>
<br/>
本とか読んでてまず思うのは、昭和天皇の名君っぷり。<br/>
もういっそのこと昭和天皇が親政を行ってくれてれば・・・とすら思います。<br/>
<br/>
満州事変が勃発したとき若槻首相が上奏。<br/>
「絶対に事態をこれ以上拡大させません！」<br/>
しかしそれからわずか３日後。若槻首相は裁可を求めてきます。<br/>
「朝鮮軍の越境とそれに伴う経費支出を認めてください」<br/>
このとき昭和天皇は言いたかったハズ。<br/>
<br/>
「お前が最初に言ったことと違うじゃないか」<br/>
<br/>
昭和天皇は田中首相のコトが頭を掠めたでしょう。<br/>
自分が叱責したために内閣総辞職へ追い込んでしまった・・・・。<br/>
昭和天皇はこの件を非常に反省されていたため、<br/>
若槻首相の上奏に反対せずに裁可を与えています。<br/>
この辺は昭和天皇の苦衷を察すると泣けてきますね。<br/>
<br/>
満州事変はこちらから仕掛けた戦争でしたが、<br/>
「連盟脱退」 という代償を払ったものの、<br/>
ちゃんと中国との停戦に漕ぎ着けています。<br/>
<br/>
それに比べて昭和１２年から始まる支那事変は<br/>
こちらから仕掛けた戦争ではありませんでしたが、<br/>
停戦に漕ぎ着けるコトができませんでした。何気にこの差は大きいです。<br/>
その件に関しては近衛首相の責任が大きいと思いますが・・・・。<br/>
<br/>
2.26事件の話は非常に怖いイメージがあります。<br/>
たしかに高橋蔵相・斉藤内大臣・渡辺教育総監が悲惨な殺され方をしてるので、<br/>
怖いイメージになって当たり前なのですが、<br/>
それにしても陰惨なイメージが強すぎる気がします。<br/>
雪が降っていたコトもあるのでしょう。<br/>
でも岡田首相救出作戦の話なんかは、かなりドキドキして面白いですよ。<br/>
<br/>
栗原・安藤・野中・磯部・村中・香田<br/>
2.26事件の首謀者６名は極悪人だった・・・とは思いません。<br/>
「農村の窮状を救いたい」<br/>
この一心でクーデターに踏み切ったのは事実。<br/>
本とかを読んでいると、どうしても青年将校たちに同情してしまいますね。<br/>
真崎みたいな 「皇道派幹部」 には同情しませんけど。w<br/>
<br/>
「政友会」 と 「民政党」 による権力争いは、まるで現代を見ているみたい。<br/>
あまりにも党利党略を優先しすぎたため、<br/>
政党政治そのものが民衆の支持を失ってしまいました。<br/>
これはやっぱり自業自得でしょう。特に政友会。<br/>
<br/>
じゃあ民政党が良かったのか・・・というと決してそうでもなく、<br/>
金解禁にこだわって日本経済を瀕死の状態に叩き込んだのは民政党でしたし、<br/>
中国に対する宥和外交（幣原外交）を行ったものの、<br/>
その理念は正しかったのかもしれませんが、<br/>
けっきょく侮られる結果となり、むしろ中国の排外運動は激しくなってます。<br/>
本当に外交っていうのは難しいですねー。<br/>
<br/>
貿易によって景気回復させようとして 「円高」 に苦しんだ井上蔵相。<br/>
金本位制と緊縮財政によってデフレを加速させちゃいました。<br/>
一方の高橋蔵相はケインズの先を行く積極財政によって景気回復を成し遂げます。<br/>
「デフレ下の緊縮財政」<br/>
つい先日。フランスやギリシャの選挙で緊縮財政派が敗北しましたけど、<br/>
日本でも同じようなコトが起こるんでしょうか。<br/>
<br/>
帝人事件は 「検察」 が斉藤内閣を倒してしまった事件。<br/>
検察のあまりにも非道な捜査方法は 「検察ファッショ」 とか呼ばれましたが、<br/>
今回の 「陸山会事件」 もこの事件と同じだ・・・・という意見もあります。<br/>
でも帝人事件に関しては裁判長が言ってます。<br/>
「証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである」<br/>
<br/>
えーと。戦前昭和史の前半は2.26事件まで。<br/>
昭和元年からここまでで既に約１０年が経過してます。<br/>
運命の真珠湾まであとわずか５年９ヶ月。<br/>
本当にここからは怒涛の展開ですね。w
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>朕自ら近衛師団を率いて此れが鎮定に当たらん</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18313894/"/>  
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    <issued>2012-05-19T14:52:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-22T07:57:16+09:00</modified>  
    <created>2012-05-19T14:52:26+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
二・二六事件　（昭和11年2月26日）<br/>
<br/>
昭和１１年２月２６日午前５時。<br/>
クーデターを計画していた青年将校たちが決起します。<br/>
彼らが 「農村を救いたい」 という純粋な気持ちで決起したのは事実。<br/>
しかしそのやり方は重要人物の暗殺テロでした。<br/>
<br/>
岡田啓介 （首相）<br/>
高橋是清 （蔵相）<br/>
斎藤実 （内大臣）<br/>
鈴木貫太郎 （侍従長）<br/>
牧野伸顕 （前内大臣）<br/>
渡辺錠太郎 （陸軍教育総監）<br/>
<br/>
高橋蔵相・斉藤内大臣・渡辺教育総監が死亡。<br/>
鈴木侍従長は重症。<br/>
牧野前内大臣はなんとか難を逃れたものの行方不明。<br/>
<br/>
岡田首相は襲撃した栗原隊長が 「うっかりさん」 だったおかげで、<br/>
奇跡的に無傷で助かってます。（岡田首相と彼の義弟を間違えたため）<br/>
しかし首相官邸から岡田首相が救出されたのは翌日のコトであり、<br/>
事件発生の段階では「死亡」したものと思われていました。<br/>
<br/>
さらに決起部隊は警視庁・陸軍省・参謀本部・永田町の一帯を占拠します。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/19/21/b0052821_144041.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/> この事態に対して 「陸軍三長官」 の対応はというと・・・<br/>
<br/>
川島陸相はオロオロするばかり。<br/>
閑院宮参謀総長は病気療養中。<br/>
渡辺教育総監は襲撃を受け死亡しています。<br/>
<br/>
そうなると大将クラスの長老たちの動きが重要。<br/>
陸軍大将には荒木・真崎などの 「皇道派」 が健在でした。<br/>
<br/>
宮中勢力は、斉藤内大臣・鈴木侍従長が共に襲撃され、<br/>
残っているのは 「侍従武官長」 の本庄繁。<br/>
本庄武官長は皇道派に近い人物で、青年将校たちに同情的です。<br/>
<br/>
青年将校たちの目標は 「皇道派政権」 の樹立。<br/>
岡田内閣は首相襲撃によって機能不全に陥っており、<br/>
このまま内閣総辞職となれば 「皇道派」 による暫定政権が出来るかもしれません。<br/>
そうなれば青年将校の勝ち。<br/>
<br/>
午前５時３０分。昭和天皇が侍従から事件勃発の報告を受けます。<br/>
「とうとうやったか。全く私の不徳のいたすところだ」<br/>
<br/>
午前６時。本庄武官長が昭和天皇に謁見。<br/>
事件について報告しようとするのですが、このとき本庄はビックリ。<br/>
いつもは背広の昭和天皇が大元帥の軍服に身を固めています。<br/>
「早く事件を終息せしめよ。禍を転じて福となせ！」<br/>
昭和天皇の激怒っぷりは凄まじかったようで、本庄は恐縮しまくり。<br/>
<br/>
宮中ではさっそく会議が行われ 「暫定内閣は絶対に置かない」 と決定。<br/>
これで皇道派による暫定政権の道が絶たれます。<br/>
この時点で 「クーデター計画」 の失敗は決まっていたのでした。<br/>
<br/>
午前９時。陸軍省を占拠した青年将校は川島陸相に 「蹶起趣意書」 を手渡し、<br/>
川島陸相は謁見して、青年将校が出した 「蹶起趣意書」 を読み上げます。<br/>
しかし昭和天皇は一喝。<br/>
「なにゆえそのようなものを読み聞かせるのか！」<br/>
川島陸相は泣きそうになりながら退出します。<br/>
<br/>
その後も昭和天皇は数十分おきに本庄武官長を呼び出し続けます。<br/>
「速やかに事件を鎮圧せよ」<br/>
<br/>
２７日午前３時。戒厳司令部が設置されますが、<br/>
この 「戒厳司令部」 は青年将校たちを鎮圧するためのものなのか？<br/>
それとも青年将校たちの 「昭和維新」 を成し遂げるためのものなのか？<br/>
陸軍はまだ態度を決めかねており、グズグズしていました。<br/>
<br/>
しかし午前８時に 「原隊復帰」 の奉勅命令が裁可。<br/>
これで青年将校たちは兵を収めなければならなくなります。<br/>
背いたら逆賊です。<br/>
本庄武官長はなんとか青年将校の弁護をしようとしますが、<br/>
激怒している昭和天皇に一蹴されます。<br/>
<br/>
「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校ら、<br/>
その精神に於ても何の恕すべきものありや」<br/>
<br/>
また午後１時に謁見した川島陸相にも昭和天皇は徹底鎮圧を指示。<br/>
<br/>
「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」<br/>
「朕自ら近衛師団を率いて、此れが鎮定に当たらん」<br/>
<br/>
あくまでも反乱鎮圧の強い意思を崩さない昭和天皇。<br/>
ついに陸軍は青年将校たちへの武力攻撃を決定し、<br/>
２９日午前８時３０分に攻撃開始命令が出されます。<br/>
<br/>
「下士官兵に告ぐ」 のビラが空から撒かれたり、<br/>
「勅命下る軍旗に手向かふな」 のアドバルーンが上がったり、<br/>
「兵に告ぐ」 のラジオ放送が始まったり・・・・。<br/>
<br/>
これで戦意を喪失した青年将校たちは投降し、2.26事件は終わりました。<br/>
事件を鎮圧した最大の功労者は昭和天皇。これは間違いありません。<br/>
<br/>
岡田内閣は事件の責任を取って３月９日に総辞職。<br/>
総選挙に大勝したばかりの 「民政党」 は政権から転落します。<br/>
これで政党勢力は一気に衰退し、代わりに陸軍が台頭。<br/>
2.26事件は青年将校の思惑をはるかに越える 「置き土産」 を残したのでした。<br/>
<br/>
「戦前昭和史」 の前半はここまでです。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/19/21/b0052821_1440355.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>安藤輝三<br/>
大尉。歩兵第３連隊第６中隊長。<br/>
誰もが認める人格者で、兵や下士官からは人気抜群。<br/>
敵である統制派からも高く評価された。<br/>
決起には直前まで反対だったが、決起すると誰よりも信念を貫き、<br/>
第６中隊は最後まで鉄の統率力を誇った。
        ]]></content> 
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  <entry> 
    <title>永田の前に永田なく永田の後に永田なし</title>  
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    <issued>2012-05-17T20:23:24+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-17T20:23:23+09:00</modified>  
    <created>2012-05-17T20:23:23+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
相沢事件　（昭和10年8月12日）<br/>
<br/>
陸軍の将校 （少尉以上） は大きく２つに分かれます。<br/>
「陸軍士官学校」 を卒業するところまでは同じなのですが、<br/>
その後。陸軍大学校を卒業して中央での出世が約束された 「キャリア組」 と、<br/>
現場の隊長のまま陸軍人生を終える 「ノンキャリ組」。<br/>
<br/>
ノンキャリの将校たちは、兵士たちと直に接するので、<br/>
田舎 （特に東北地方） での悲惨な状況を兵士たちから直接聞くコトが多く、<br/>
どうしても現状の打破を考えるようになります。<br/>
彼らがいわゆる 「青年将校」。<br/>
<br/>
さて。荒木陸相は露骨な派閥人事によって、皇道派の天下を築き上げていました。<br/>
さらに荒木はいつも 「改革」 を唱えていたので、<br/>
青年将校たちは皇道派に味方します。<br/>
「荒木ならば現状を打破してくれるだろう」<br/>
<br/>
ところが荒木は 「改革改革」 って言うばかりで、どうも実行が伴いません。<br/>
「荒木はダメだ。口ばっかりだ」<br/>
青年将校たちは荒木を見限り、<br/>
彼らの支持は 「皇道派」 のもう一人のボス 「真崎甚三郎」 に移ってしまいます。<br/>
<br/>
そして昭和９年１月。<br/>
酒を飲みすぎた荒木は、風邪をこじらして肺炎になって陸相を辞任。<br/>
後任の陸相は 「林銑十郎」。<br/>
本当は荒木は同じ皇道派の真崎を陸相にしたかったのですが、<br/>
林もかつて 「反宇垣トリオ」 を組んだお友達。<br/>
「まあ悪いようにはならないだろう」<br/>
と、軽く考えて林の陸相就任にＯＫを出します。これが大マチガイ。<br/>
<br/>
林陸相はとっくに 「皇道派」 を見限っていました。<br/>
さっそく左遷されていた 「永田鉄山」（統制派） を中央へ呼び戻し、<br/>
軍務局長 （陸軍省ナンバー３） として自由な采配を震わせます。<br/>
ここから 「皇道派」 と 「統制派」 による熾烈な権力闘争が始まったのでした。<br/>
<br/>
まず起こったのが 「陸軍士官学校事件」。<br/>
<br/>
磯部浅一・村中孝次という過激な青年将校がいました。<br/>
で。辻政信 （統制派） が彼らをワナにはめるため、<br/>
部下の士官候補生を彼らの下にスパイとして送り込み、彼らを煽りまくります。<br/>
<br/>
「宮中勢力の中ではあいつを殺しましょう。元首相のあいつも殺しましょう」<br/>
<br/>
あまりにも発言が過激すぎたため、手に負えなくなった磯部と村中は言います。<br/>
<br/>
「いいから。我々にはちゃんとした計画があるから・・・」<br/>
<br/>
この発言を引き出した士官候補生は、その件を辻に報告。<br/>
ワナにかかった磯部と村中は 「クーデターを計画した」 という理由で逮捕。<br/>
けっきょく不起訴処分にはなったものの、陸軍からはクビになって追い出されます。<br/>
<br/>
「汚い・・・・あまりにもやり方が汚すぎる」<br/>
<br/>
皇道派の青年将校たちは、統制派のやり口に激怒。<br/>
陸軍を追われた磯部と村中は、むしろ堂々とクーデター計画を立てていきます。<br/>
<br/>
そして次に起こったのが 「真崎の総監更迭事件」。<br/>
<br/>
人事権を握った永田によって、次第に追い詰められていく皇道派・・・。<br/>
それでも真崎だけは陸軍三長官の一つ 「教育総監」 のポストに残っていたのですが、<br/>
ついに真崎もその座から追われたのでした。<br/>
もちろん裏で糸を引いていたのは永田軍務局長。<br/>
<br/>
青年将校たちは真崎に非常に期待していたので、この人事によって不満爆発。<br/>
ついにタイヘンな事件が起こっちゃいます。<br/>
<br/>
昭和１０年８月１２日。<br/>
陸軍省で執務をとっていた永田軍務局長。<br/>
そこへいきなり青年将校の相沢三郎（中佐）が白昼堂々と現われ、<br/>
持っていた日本刀で永田局長をバッサリ殺っちゃったのでした。<br/>
<br/>
相沢中佐には全く罪の意識がなかったらしく、<br/>
逮捕されたとき、その理由が解からなかったみたい。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/17/21/b0052821_17582012.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>永田は広い視野を持っており、政党や財界や宮中とも顔が利く人物。<br/>
間違いなく陸軍を背負って立つ男でした。<br/>
<br/>
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」<br/>
<br/>
とにかく今でも彼の評価は高いです。<br/>
<br/>
「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった・・・・」<br/>
<br/>
でもやっぱり永田が死んで最も痛いと思うのは、<br/>
石原莞爾と東条英機という能力は高いものの、性格に難がある２人。<br/>
この２人を同時に使いこなせる人物がいなくなっちゃったコトでしょう。<br/>
永田は東条を使って軍規の粛清を行い、石原を使って対外戦略を立てようとしてましたから、<br/>
それを考えると 「永田の死」 は惜しすぎ。<br/>
<br/>
事態は切迫していました。<br/>
過激な青年将校たちは 「第１師団」（東京） に集中しており、<br/>
彼らは小隊・中隊・大隊を指揮するコトができます。<br/>
これはあまりにも危険な状況。<br/>
<br/>
「３月になったら、第１師団の危険分子たちを満州へ送ってしまえ！」<br/>
<br/>
先手を打った統制派でしたが、<br/>
さらにその先手を打つ形で青年将校たちが挙兵したのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/17/21/b0052821_1812993.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>永田鉄山<br/>
陸軍省軍務局長。統制派のボス。<br/>
大して勉強しなくても何でも良くでき、友達つき合いも良くて人望も厚い天才。<br/>
皇道派との派閥抗争に絡んで暗殺された。<br/>
「もし永田が生きていれば・・・・」<br/>
っていうシーンが、その後の歴史で多すぎる人。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし</title>  
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    <issued>2012-05-15T20:00:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-15T19:47:41+09:00</modified>  
    <created>2012-05-15T19:45:40+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
天皇機関説問題　（昭和10年2月18日）<br/>
<br/>
岡田内閣が誕生すると、政友会は閣僚を引きあげて野党に下ってしまいます。<br/>
その代わりに民政党が閣僚として残ったので、<br/>
実質的には 「民政党内閣」 と言ってもいい状態でした。<br/>
<br/>
この岡田内閣のときに 「天皇機関説問題」 が発生します。<br/>
天皇機関説は憲法学者の 「美濃部達吉」 が主張した学説。<br/>
<br/>
統治権は 「国家」 にあり、天皇は 「国家」 の最高機関である。<br/>
<br/>
天皇機関説をぶっちゃけて言えば、こんな感じでしょうか。<br/>
美濃部博士も主権が天皇にあるコトは認めています。<br/>
これはあくまでも国家システムの話。<br/>
<br/>
昭和１０年２月１８日。美濃部博士 （貴族院議員） は貴族院で名指しで非難されます。<br/>
「統治の主体が国家にあるなんて公言する学者は謀反人だ」<br/>
<br/>
これを受けて美濃部は２月２５日に 「一身上の弁明」 として、<br/>
貴族院で釈明演説というか、天皇機関説に関する講義を２時間かけて行います。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/21/b0052821_19573438.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>「私を謀反人と言われるのはこの上なき侮辱であります。<br/>
いわゆる機関説と申しまするは、国家を一つの法人と観念いたしまして、<br/>
天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし」<br/>
<br/>
この講義は非常に解かり易かったため、<br/>
聞いていた議員はもちろん、大勢の傍聴人たちも静かに聞き入り、<br/>
終わった後に盛大な拍手が起こっています。<br/>
美濃部を非難した議員も 「これならば問題ない」 と言ってました。<br/>
<br/>
ところがこの問題に火を付けたのが 「政友会」。<br/>
政権を取るためなら何でも利用する・・・・。<br/>
これが政友会の悪いクセ。<br/>
かつては 「統帥権干犯」 を党利党略に利用しましたが、<br/>
今度は 「天皇機関説」 を岡田内閣を倒すために利用しようと画策。<br/>
圧倒的な議席数をバックに猛攻撃に討って出ます。<br/>
<br/>
「天皇ありて国家があるのであり、国家がありて天皇があるのではない！」<br/>
<br/>
こういう論争は岡田首相にとってトクな事は何一つありません。<br/>
そもそも岡田首相は天皇機関説に問題があるとは思ってませんでした。<br/>
<br/>
「大正の頃からずっと天皇機関説は国家公認の学説だったのに、<br/>
なぜ今になって攻撃を受けなければならないのか？<br/>
それに天皇機関説を攻撃すれば議会政治の否定につながるのに・・・<br/>
アイツらはそれが解かってるのか？」<br/>
<br/>
おそらく解かってなかったのでしょう。w<br/>
解かっててやったのだとしたら、むしろすごい執念。<br/>
この政友会の執念の前に、岡田首相はジリジリと押されていきます。<br/>
<br/>
「天皇機関説は国体の観念において誤りはない！」<br/>
<br/>
と、最初は言いきっていたものが、<br/>
<br/>
「私は機関説には必ずしも賛成ではない」<br/>
<br/>
と、トーンダウン。<br/>
これで調子に乗った政友会はますます攻撃を強め、<br/>
世間の風潮でも 「天皇機関説」 はワルモノにされちゃいます。<br/>
<br/>
大学の講義から 「天皇機関説」 が消えたり、<br/>
美濃部博士の著作が発禁処分になったり、<br/>
機関説を主張する学者が大学を追放されたり・・・。<br/>
<br/>
この異常事態を鎮静化させるため、岡田内閣は 「国体明徴声明」 を出します。<br/>
これは完全に岡田首相の屈服でした。<br/>
<br/>
「機関説は国体の本義に反するので、取り除かれなければならない」<br/>
<br/>
かわいそうなのは美濃部博士。<br/>
美濃部は議員辞職に追い込まれたばかりか、不敬罪で告発され、<br/>
さらに右翼に襲撃される・・・・というまさに踏んだり蹴ったり。<br/>
<br/>
はっきり言って天皇機関説問題は、単なる 「言葉遊び」 だったと思います。<br/>
本当に当時の人たちが 「天皇機関説」 をちゃんと理解してたとは思えません。<br/>
やっぱりこう単純で解かりやすい方へと世論が流れちゃったため、<br/>
天皇機関説が敗北してしまったのだと思いますね。<br/>
<br/>
調子こいた政友会はついに内閣不信任案を提出。<br/>
<br/>
「面白い。やってやろうじゃないか」<br/>
岡田首相は不信任案を無視して衆議院を解散。<br/>
昭和１１年２月２０日の総選挙で 「民政党」 は大勝利します。<br/>
逆に 「政友会」 は大幅に議席を減らして敗北。<br/>
<br/>
国民は 「天皇機関説」 なんてどうでも良かったのでしょう。<br/>
それよりも 「政友会」 の節操のないやり方に嫌気が指していたと思われます。<br/>
機関説で難癖つけて、相変わらずの党利党略を優先させる行動。<br/>
これじゃあソッポを向かれて当然です。<br/>
<br/>
勝利した岡田首相は大喜び。<br/>
「これまで議会運営に苦労させられたが、これでやっと安定した政権運営ができる」<br/>
民政党の幹部たちと祝杯をあげる岡田首相。<br/>
しかし運命の日はあと６日後に迫っていたのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/21/b0052821_1958126.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>岡田啓介<br/>
第３１代首相。<br/>
斉藤首相と同じく海軍出身の穏健派で常識人。<br/>
記者たちに振舞う酒が買えず、酒を冷やすための氷だけ配ったり、<br/>
自分の服すらほとんど持ってない・・・という清貧を貫いた人。<br/>
奇跡的に2.26事件を生き延び、東条内閣の倒閣工作で活躍する。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18290464/"/>  
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    <issued>2012-05-14T21:34:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-14T22:54:00+09:00</modified>  
    <created>2012-05-14T21:19:35+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
帝人事件　（昭和9年4月18日）<br/>
<br/>
斉藤内閣は安定した政権運営をしていました。<br/>
<br/>
たしかに 「国際連盟」 からは脱退しちゃいましたけど、<br/>
逆に 「連盟」 を利用して満州を奪還しようとしてた中国は打つ手がなくなり、<br/>
日本との停戦協定 （塘沽協定） にサイン。<br/>
ちゃっかり平和を勝ち取っていました。<br/>
<br/>
国内では高橋蔵相による 「インフレ祭り」 が効を奏し、世界恐慌から脱却。<br/>
円安のおかげで世界市場を席巻し、<br/>
ついにイギリスを抜いて、世界第１位の綿製品輸出国になっちゃいます。<br/>
「ソーシャル・ダンピングだー」<br/>
イギリスは文句を言いますが、知ったこっちゃありません。w<br/>
<br/>
しかし順調に見えた 「斉藤内閣」 をいきなりブッ潰す事件が発生します。<br/>
それが 「帝人事件」。<br/>
<br/>
昭和９年１月１７日から時事新報で 「番町会を暴く」 という連載記事が始まり、<br/>
財界（番町会）と政府要人との癒着が、おもしろおかしく報道されます。<br/>
その内容はこんな感じ。<br/>
<br/>
大正時代に急成長した鈴木商店という商社がありました。<br/>
鈴木商店は台湾銀行（政府系銀行）から多額の融資を受けてまして、<br/>
その資金を使って事業拡大に乗り出したものの、放漫経営により大赤字に転落します。<br/>
<br/>
で。鈴木商店の子会社に 「帝国人造絹糸製造株式会社」（帝人） がありまして、<br/>
昭和初期の 「金融恐慌」 によって鈴木商店が倒産しちゃったとき。<br/>
台湾銀行は鈴木商店の持っていた 「帝人株」 を引き取ります。<br/>
<br/>
ところがその後。科学技術が進んで 「人工絹」 がブームとなり、帝人は優良企業に成長。<br/>
これで台湾銀行が持っていた 「帝人株」 が値上がりする可能性が出てきたので、<br/>
財界グループ 「番町会」 が政府要人に働きかけて、<br/>
台湾銀行から大量の 「帝人株」 をゲットします。<br/>
その瞬間に帝人が大規模な増資を行ったため、帝人株がはねあがり、<br/>
「番町会」 の連中はボロ儲け。<br/>
儲けた見返りとして、番町会は政界に多額のワイロをバラ撒いたのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/14/21/b0052821_205007.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>・・・なんか 「いただきストリート」 でありそうな話。<br/>
要するにインサイダー取引です。<br/>
かつての 「リクルート事件」 を彷彿とさせますね。<br/>
<br/>
「時事新報」 はデタラメな記事を書くコトで有名だったのですが、<br/>
なぜか 「検察」 はこの記事を重視し、徹底的な捜査を開始します。<br/>
<br/>
昭和９年４月１８日。まず帝人社長が贈賄容疑で逮捕。<br/>
その後。大蔵省に捜査の手が伸びて、次官をはじめとする大蔵官僚も次々と逮捕。<br/>
それから番町会のメンバー達や、台湾銀行頭取も逮捕され、<br/>
ついには斉藤内閣の閣僚（商工相・鉄道相）までもが逮捕されてしまいます。<br/>
<br/>
こうなってしまってはもはや斉藤内閣が政権を続けるのはムリ。<br/>
帝人事件の捜査が始まってわずか３ヶ月後の７月８日。<br/>
斉藤内閣は総辞職に追い込まれたのでした。<br/>
<br/>
ちなみにこの裁判。３年後の昭和１２年に 「全員無罪」 で結審します。<br/>
しかも裁判長はこう言ってます。<br/>
<br/>
「証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである」<br/>
<br/>
つまり完全にでっち上げの 「冤罪事件」。<br/>
やっぱり 「時事新報」 の記事は全くのデタラメでした。<br/>
じゃあこの検察による冤罪捜査の黒幕は誰だったのか・・・・？<br/>
それは 「平沼騏一郎」（枢密院副議長） だと言われています。<br/>
<br/>
ちょうどこの頃。枢密院議長が病気のため辞任していました。<br/>
普通にいけば後任は 「副議長」 の平沼が昇格するのですが、<br/>
平沼が大嫌いな西園寺公望が横やりを入れ、別の人物を議長にしちゃいます。<br/>
<br/>
激怒した平沼は斉藤内閣の倒閣を決意。<br/>
平沼はかつて 「大審院長」 を務めていた法曹界のボスであり、<br/>
その関係で 「検察」 に子分が大勢いまして、<br/>
彼らに命じてこの 「帝人スキャンダル」 をでっち上げたのでした。<br/>
<br/>
平沼のせいで内閣総辞職に追い込まれた斉藤首相。<br/>
「絶対に平沼だけは首相にさせない！」<br/>
もともと平沼嫌いの西園寺も全く同意見。<br/>
<br/>
「平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない」<br/>
<br/>
そこで斉藤の後輩で同じ海軍出身の 「岡田啓介」 を後任の首相に奏薦。<br/>
強力な首相候補の一人だった 「平沼騏一郎」 は悔しがります。<br/>
<br/>
岡田首相は斉藤と同じく穏健な常識人。<br/>
斉藤内閣の路線がそのまま継承されるコトは明らかでした。<br/>
<br/>
しかし組閣する段階になって 「政友会」 が閣僚を送り込むのを拒否。<br/>
野党に下ってしまいます。<br/>
「民政党」 は閣僚を送り込んで与党に残ってくれたのですが、<br/>
帝国議会で圧倒的多数を持つ 「政友会」 を敵に回したのは、かなりやっかい。<br/>
少数与党となった岡田内閣は、帝国議会でかなりの苦戦を強いられるコトとなります。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/14/21/b0052821_20573626.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>斉藤実<br/>
第３０代首相。<br/>
海軍出身だが穏健派の常識人。<br/>
この激動期の中では珍しく安定した政権運営を行った。<br/>
親英米派で、英語力は歴代首相の中でも抜群。<br/>
記者会見では 「うむ」 としか言わないので、記者は苦労したらしい。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>巡洋艦１個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18284626/"/>  
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    <issued>2012-05-13T19:15:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-20T06:11:03+09:00</modified>  
    <created>2012-05-13T18:59:33+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
大角人事　（昭和8年3月11日）<br/>
<br/>
第１次大戦後。列強各国は 「建艦競争」 を防ぐため、<br/>
各国の軍艦保有量を決める条約を結びます。<br/>
それが 「ワシントン条約」 と 「ロンドン条約」 という２つの海軍軍縮条約。<br/>
「海軍の休日」（ネイバル・ホリデー） と呼ばれる時代となっていました。<br/>
<br/>
日本においてこれらの条約を結ぶのに主導したのは 「海軍省」。<br/>
海軍では政治を管轄する 「海軍省」 の方が、<br/>
作戦を担当する 「海軍軍令部」 よりも強い立場にあります。<br/>
<br/>
「日米の工業力を比較すると、この条約は日本にとってむしろ破格だ」<br/>
<br/>
あくまでも 「対米７割」 を主張してブーたれる海軍軍令部をムリヤリ説得。<br/>
しかしこれで海軍は 「条約派」 と 「艦隊派」 に分裂してしまいます。<br/>
<br/>
「艦隊派」 は巻き返しのために、日本海海戦の英雄 「東郷平八郎」 に接近。<br/>
<br/>
さらに艦隊派は軍令部長に 「伏見宮博恭王」 を就任させるコトに成功しました。<br/>
伏見宮はバリバリの 「艦隊派」 であり、皇族と言う権威を持つ人物。<br/>
<br/>
艦隊派は 「神様と宮様」（東郷と伏見宮） の権威をバックに、条約派の殲滅を画策。<br/>
海相の大角岑生（おおすみみねお）に対して圧力をかけます。<br/>
<br/>
大角海相は 「条約派」 でも 「艦隊派」 でもどっちでもない日和見主義者。<br/>
そんな彼には東郷元帥や伏見宮に逆らう勇気なんてありません。<br/>
ヘナヘナと艦隊派の言われるがままになってしまい、<br/>
こうして大角海相による条約派への粛清人事が始まったのでした。<br/>
<br/>
まず昭和８年３月１１日。山梨勝之進（大将） が予備役へと追放されます。<br/>
山梨はロンドン条約のときの海軍次官。<br/>
ロンドン条約締結のために 「海軍軍令部」 を説得した人で、<br/>
艦隊派からも 「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」 と言わしめた人。<br/>
間違いなく将来の海軍を背負って立つ人物でした。<br/>
<br/>
９月。今度は 谷口尚真（大将） が追放。<br/>
彼は東郷元帥にニラまれて 「軍令部長」 のポストから追われていましたが、<br/>
海軍そのものからも追い出されます。<br/>
「アメリカとは絶対に戦っちゃいかん！」<br/>
彼の意志は米内光政へと受け継がれてます。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/21/b0052821_192178.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>調子に乗った伏見宮はさらに要求を拡大。<br/>
<br/>
「海軍省の権限を軍令部に渡せ」<br/>
<br/>
これは海軍省に対する明らかな挑戦。<br/>
軍務局長の寺島健や、軍務局第一課長の井上成美は猛反対。<br/>
<br/>
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－<br/>
兵力の準備は国家予算と密接な関係があるため、<br/>
内閣の一員である海相の手から離すわけにはいかない。<br/>
<br/>
軍令部長は天皇に対してのみ輔弼の責任があり、<br/>
議会に対して責任を持つ海相とは立場が異なる。<br/>
この軍令部長に予算と人事を含む強大な権限を与えることは、<br/>
軍令部の独走を許し、果ては戦争につながる危険がある。<br/>
－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－<br/>
<br/>
まさに井上の言うとおり。<br/>
しかし肝心の大角海相が 「へなちょこ」 だったので、けっきょく海軍省は屈服。<br/>
井上は最後まで伏見宮に抵抗したため、第一課長を更迭されます。<br/>
<br/>
こうして 「海軍省」 と 「軍令部」 の力関係は完全に逆転。<br/>
さらに大角海相による粛清人事は続きました。<br/>
<br/>
昭和９年３月には 左近司政三（中将） と 坂野常善（中将） が予備役へ編入。<br/>
左近司はロンドン会議における首席随員。<br/>
坂野は海軍軍令部に属しながら 「対米避戦」 を主張してた人。<br/>
<br/>
１２月になると 寺島健（中将） と 堀悌吉（中将） も追放。<br/>
寺島は 「軍令部強化案」 が出されたときに反対した軍務局長。<br/>
堀はロンドン条約のときの軍務局長です。<br/>
<br/>
本来ならば海軍を背負っていく人物として、<br/>
<br/>
山本権兵衛 → 加藤友三郎 → 岡田啓介 → 山梨勝之進 → 堀悌吉<br/>
<br/>
こういう流れが出来ていたのに、大角人事によってバッサリやられちゃいます。<br/>
堀悌吉の親友だった山本五十六は堀の追放人事を聞いて激怒。<br/>
<br/>
「巡洋艦１個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか！」<br/>
<br/>
巡洋艦１個戦隊というのは、ロンドン条約で 「対米７割」 に届かなかったトン数。<br/>
たったこれだけのために大事な海軍の頭脳を捨ててしまうなんて・・・。<br/>
このとき山本は海軍を辞めちゃおうとしますが、堀に慰留されてます。<br/>
<br/>
「対米避戦」 を唱える条約派は壊滅しました。<br/>
生き残ったのは米内光政・山本五十六・井上成美の３人だけ。<br/>
海軍における最優秀の人材を次々と追放してしまったのは致命的すぎ。<br/>
この粛清人事で海軍が受けたダメージは図りしれません。<br/>
<br/>
「なぜ日本は対米開戦しちゃったのか？」<br/>
<br/>
その大きな原因の一つに 「大角人事」 があるコトは間違いないと思います。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/21/b0052821_1924554.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>伏見宮博恭王<br/>
軍令部総長。宮様。<br/>
対米開戦の直前まで 「軍令部総長」 を務めた海軍のボス。<br/>
条約派を壊滅させ、艦隊派による海軍を作り上げた。<br/>
皇族でありながら自分でパンツを洗ったりする庶民派。<br/>
漬け物や天ぷらうどんが好きだったみたい。あだ名は 「長面君」
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>脱退のやむなきに至るがごときは敢えて之をとらず</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18279645/"/>  
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    <issued>2012-05-12T17:54:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-13T07:35:08+09:00</modified>  
    <created>2012-05-12T17:39:09+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
国際連盟脱退　（昭和8年2月24日）<br/>
<br/>
「日本は国際連盟脱退によって世界の孤児になってしまった」<br/>
<br/>
よく聞かれるフレーズですが、さすがにこれは言いすぎでしょう。<br/>
日本は連盟脱退によって、他の連盟加盟国と国交を断絶したワケじゃありません。<br/>
<br/>
でもせっかく 「常任理事国」 として美味しいポジションにいたのに、<br/>
ワザワザ国際連盟を脱退する必要もありません。<br/>
<br/>
ジュネーブに派遣されていた松岡洋右は最後まで脱退に反対でしたし、<br/>
連盟脱退の元凶といわれる内田康哉も、もともと脱退するつもりはありませんでした。<br/>
斉藤首相も閣僚たちも宮中も政党も陸海軍も・・・・・<br/>
みんな 「連盟脱退」 なんて夢にも考えてもいませんでした。<br/>
じゃあ何でこんな事態になっちゃったんでしょうか。<br/>
<br/>
昭和７年１２月６日。リットン報告書を審議する 「連盟総会」 が始まります。<br/>
日本の全権代表は 「松岡洋右」。<br/>
<br/>
総会が始まると 「中小国」 が一斉に日本を非難。<br/>
中小国は 「数」 を持っているので、なかなかやっかいでした。<br/>
<br/>
このままでは日本に対して 「非難勧告」 が採択されるのは確実。<br/>
松岡は雄弁を振るうものの、打つ手がなくて困ってしまいます。<br/>
<br/>
そこへ手を差し伸べてくれたのがイギリス。<br/>
イギリスは非難勧告が回避されるように妥協案を提示してくれます。<br/>
<br/>
「ありがたい。これで事態は進展する」<br/>
松岡はさっそく本国に打電。<br/>
「イギリスが妥協案を提示してくれました。これで行きましょう」<br/>
<br/>
しかし電報を受け取った外相の内田康哉はイギリスの提案を拒絶。<br/>
「イギリスの妥協案を拒絶せよ」<br/>
<br/>
「は？」<br/>
松岡全権は (　ﾟдﾟ) ﾎﾟｶｰﾝ 状態。<br/>
「えっ・・何？ このままじゃ非難勧告が採択されちゃうよ？」<br/>
<br/>
松岡は必死で内田外相へ電報を打ちます。<br/>
<br/>
「むしろ提案を快諾するべきであると確信する。<br/>
些細なコトにこだわって、脱退のやむなきに至るがごときは、<br/>
遺憾ながら敢えてこれをとらず」<br/>
<br/>
内田外相からの返答は相変わらずでした。<br/>
「いいじゃん。非難勧告ぐらい食らったって・・・・」<br/>
どうも内田外相は軽く考えていたみたい。<br/>
たしかに 「非難勧告」 には強制力はありませんので、<br/>
そのまま連盟に居座り続けるコトは可能です。<br/>
<br/>
ところがここで思いがけない事態が重なっちゃいます。<br/>
<br/>
陸軍が 「熱河作戦」 を要請し、軽い気持ちで斉藤内閣が閣議決定。<br/>
これは熱河省にいる中国軍を叩く作戦ですが、<br/>
熱河省は満州国の一部であり、いわば国内の掃討戦。<br/>
昭和天皇もこの閣議決定を裁可。<br/>
「あくまでも国内問題だから」<br/>
と、誰もあまり深く考えてませんでした。<br/>
<br/>
しかし斉藤首相と内田外相は後から気付きます。<br/>
<br/>
「熱河作戦は中国に対する新たな戦争・・・と見なされないだろうか？」<br/>
<br/>
連盟規約によれば、<br/>
もし紛争調停中に新たな戦争を起こした国には 「経済制裁」 が科せらせます。<br/>
<br/>
こうなると話は変わってきます。<br/>
斉藤首相は昭和天皇に 「熱河作戦」 の裁可取り消しを求めました。<br/>
昭和天皇も裁可の取り消しを考えたそうです。<br/>
しかし西園寺を始めとする宮中勢力が猛反対。<br/>
<br/>
「綸言汗の如し。一度下した裁可を取り消せば天皇の威信に関わる」<br/>
<br/>
こうして 「熱河作戦」 は発動。<br/>
これで連盟の態度は決まりました。<br/>
<br/>
内田外相はさっさと諦めていたみたい。<br/>
「どうせ経済制裁なんだから、そうなる前にこっちから脱退してしまえ」<br/>
そしてジュネーブの松岡に指令を出します。<br/>
「連盟が対日非難勧告を可決したら、席を蹴って脱退して来い」<br/>
<br/>
松岡は本国からの指令にかなり面喰ってます。<br/>
<br/>
「日本政府が何を考えているのか、私には全く理解できない・・・・」<br/>
<br/>
昭和８年２月２４日。「対日非難勧告」 が可決。<br/>
賛成４２、反対１、棄権１<br/>
これで次は日本に対する 「経済制裁」 の審議に入るコトになります。<br/>
すぐに松岡は議長に発言を求めて登壇。<br/>
<br/>
「今や連盟との協力に限界を感じざるを得ません。さようなら」<br/>
<br/>
松岡は演壇から降りると自席に戻ることなく、<br/>
日本代表団たちを促し、一緒に退場してしまいます。<br/>
まだ通訳が終わってない各国代表団は、何が起こっているのか解からず呆然。<br/>
松岡は内田外相の指示どおりに演じ切ったのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/12/21/b0052821_17433525.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>退場した後で松岡がずっとつぶやいていた話は有名です。<br/>
「失敗した。失敗した・・・・・」<br/>
<br/>
松岡は脱退回避のために最大限の努力をしました。<br/>
あまりに能天気な内田外相ですが、彼の考えにも一理あります。<br/>
それよりなんでこのタイミングで 「熱河作戦」 だったんでしょうか？<br/>
陸軍も連盟脱退には反対だったのに・・・・。<br/>
間が悪かったとしか言いようがありません。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/12/21/b0052821_17441381.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>内田康哉<br/>
斉藤内閣の外相。<br/>
明治・大正・昭和の全てで外相を経験したベテラン。<br/>
判断ミスで日本を連盟脱退に追い込んだ元凶。<br/>
外務官僚たちの間で 「史上最悪の外相」 について議論になったとき、<br/>
ワースト１を争ったのが田中真紀子とこの人だったらしい。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>話せばわかる</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18265687/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18265687/</id>  
    <issued>2012-05-09T21:27:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-20T06:18:15+09:00</modified>  
    <created>2012-05-09T21:12:29+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
五・一五事件　（昭和7年5月15日）<br/>
<br/>
犬養首相は組閣当日に 「金解禁」 を停止。<br/>
蔵相になった高橋是清は得意の 「インフレ祭り」 を開催します。<br/>
これで景気が回復し始めると、間髪いれずに衆議院を解散して総選挙で大勝利。<br/>
自信を深める犬養首相。<br/>
「よし。これで軍部を抑え込むことができる」<br/>
しかし犬養内閣はわずか５ヶ月で終焉を迎えてしまいます。<br/>
<br/>
昭和７年５月１５日。海軍の青年将校たち数名が首相官邸を襲撃。<br/>
和服姿のままで現れた犬養首相は彼らを客間に案内します。<br/>
<br/>
「他人の家に上がるのに、靴ぐらい脱ぎたまえ」<br/>
「我々が何をしに来たか解かるだろう。言いたいコトがあれば言え」<br/>
「ま。話ぐらいは聞こうじゃないか」<br/>
「張学良が日本の高官に送った大金の領収書が発見された・・という件は知っているか？」<br/>
「ああ」<br/>
「その中には犬養首相のモノもまじっていたという。事実はどうか」<br/>
「なんだそのコトか」<br/>
「・・・・・」<br/>
「話せばわかる」<br/>
「問答無用、撃て！」<br/>
<br/>
犬養首相の頭部に２発の銃弾を浴びせ、襲撃者たちは去りました。<br/>
まだ息があった犬養首相は駆け付けた女中に言います。<br/>
<br/>
「今の若い者をもう一度呼んで来い。よく話して聞かせる・・・・」<br/>
<br/>
その日の深夜。出血多量によって犬養首相は死亡したのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/09/21/b0052821_2055768.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/> 犬養首相の暗殺は多くの国民を悲しませました。<br/>
首相官邸には２万人を越える弔問客が訪れたそうです。<br/>
しかしそれ以上に同情を集めたのは、むしろ襲撃した青年将校たちの方でした。<br/>
青年将校たちには全国から１００万通を越える 「減刑嘆願書」 が送られます。<br/>
<br/>
浜口首相が 「金解禁」 を始めたとき、円は急激に高騰し、<br/>
逆に犬養首相が 「金解禁」 を止めたとき、円は大暴落しました。<br/>
これらの情報は事前に政党から財閥へとリークされ、<br/>
財閥たちはこのときの円高・円安を利用してマネーゲームに走り、巨万の富を得ています。<br/>
そしてその見返りとして、三井財閥は政友会に。三菱財閥は民政党に。<br/>
それぞれ莫大な資金援助を行なっていました。<br/>
<br/>
日本全体は大不況。農村では娘の身売りまで行われているのに・・・・。<br/>
これじゃあ青年将校たちに同情が集まるのも解かる気がします。<br/>
多くの人々は襲撃者たちの主張に共感していたのでした。<br/>
<br/>
「国民の敵たる腐敗した既成政党と財閥を倒すのだ」<br/>
<br/>
次の首相を誰にするか。西園寺公望は悩みます。<br/>
これまでの 「西園寺ルール」 でいくと、<br/>
次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。<br/>
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。<br/>
<br/>
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。<br/>
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。<br/>
<br/>
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。<br/>
<br/>
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。<br/>
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。<br/>
帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、<br/>
日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。<br/>
こうなったら政友会・民政党による 「大連立」 しかない。<br/>
首相はどちらでもない第三者にやらせないと、両党とも収まりがつかないだろう・・・・。<br/>
こんな判断に至ったのだろうと考えられます。<br/>
<br/>
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。<br/>
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、<br/>
党内のこうした勢力を抑えていたのですが、<br/>
鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。<br/>
西園寺が大キライな右翼のボス 「平沼騏一郎」 の子分だったコトも大きかったでしょう。<br/>
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」<br/>
<br/>
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。<br/>
「政党は平和で、海軍は戦争」<br/>
決してそんなコトはありません。<br/>
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。<br/>
<br/>
そして西園寺の望んだとおり、斉藤内閣は安定した政局運営を行います。<br/>
たしかに 「国際連盟」 を脱退する羽目にはなりましたが、<br/>
「塘沽協定（タンクー）」 を結ぶコトによって、みごと満州事変を終わらせてます。<br/>
何気にこれはデカいでしょう。<br/>
実は斉藤内閣の時代って満州事変と支那事変の間の 「平和」 な時代だったのでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/09/21/b0052821_2194710.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>犬養毅<br/>
第２９代首相。<br/>
議会政治の申し子のような人物で毒舌家。<br/>
毒舌すぎてやたらと政敵を増やしてしまう損な性格。<br/>
正義感が強く 「憲政の神様」 の名に相応しい人物だけに、<br/>
党利党略で 「統帥権干犯」 を問題化させたのは悔やまれる。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>荒木中将ならば衆望の点は大丈夫に候</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18261089/"/>  
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    <issued>2012-05-08T22:42:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-08T22:29:49+09:00</modified>  
    <created>2012-05-08T22:27:20+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
皇道派台頭　　（昭和6年12月13日）<br/>
<br/>
満州事変を追認してしまった若槻内閣。<br/>
これで調子ブッコいた関東軍はますます暴走しちゃいます。<br/>
「どうしたらヤツらを止められるのか？」<br/>
<br/>
安達内相は 「政友会」 との大連立を唱え、<br/>
幣原外相と井上蔵相がこれに猛反発。<br/>
閣内不一致となり若槻内閣は総辞職に追い込まれました。<br/>
<br/>
西園寺公望は 「憲政の常道」 に従って、政友会の犬養毅を次期首相に奏薦。<br/>
犬養内閣が誕生します。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/08/21/b0052821_22355227.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>犬養内閣と言えば 「最後の政党内閣」 というフレーズがあまりに有名ですが、<br/>
私はこれに関してはそれほど重要とは思いません。<br/>
犬養以後の斉藤内閣・岡田内閣でも政党勢力は入閣して、権力を維持しているからです。<br/>
<br/>
やっぱり犬養内閣で最も重要なのは、陸相に 「荒木貞夫」 が任命されたコトでしょう。<br/>
<br/>
大正時代からずっとこれまで陸軍の中枢ポストを独占していたのは、<br/>
宇垣一成が率いる 「宇垣派」 でした。<br/>
<br/>
「宇垣派」 は政党内閣に対して協力的であり、意外と良心的な一面がありました。<br/>
西園寺公望などの宮中勢力は宇垣一成を信頼していたようですが、<br/>
若い中堅エリート将校はそんな 「宇垣派」 を嫌っていまして、<br/>
宇垣派の打倒を目的としたサークル 「一夕会」（いっせきかい） を結成。<br/>
一夕会は 「反宇垣派」 と呼ばれる将軍たち。<br/>
荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の３人を擁立しようとします。<br/>
<br/>
そして一夕会は密かに 「政友会」 に接近しました。<br/>
政友会としても若い将来の有望株と手を組むのは、悪い話じゃありません。<br/>
<br/>
犬養内閣が誕生したとき。<br/>
これは一夕会にとってチャンスでした。<br/>
一夕会のリーダー格である 「永田鉄山」 は政友会に手紙を送っています。<br/>
<br/>
「陸軍のおエライさんたちは阿部信行（宇垣派）を陸相に推薦するでしょうけど、<br/>
阿部中将では絶対に陸軍をまとめるコトはできません。不適格です。<br/>
しかし荒木中将ならば衆望の点は大丈夫に候」<br/>
<br/>
こうした一夕会の工作が実りまして、みごと 「荒木陸相」 が誕生したのでした。<br/>
<br/>
一方。宇垣一成は犬養毅と仲良しだったので、<br/>
「ちゃんと私が推薦する阿部中将を陸相に任命してくれるだろう」<br/>
と、余裕をかましていたら、<br/>
新聞で 「荒木陸相就任」 のニュースを知ります。<br/>
「しまった。せめて荒木と真崎だけは絶対に不可。と犬養首相に言っとくべきだった・・・・」<br/>
宇垣は後悔しますが、すでに後の祭り。<br/>
荒木陸相による凄まじい報復人事が始まったのでした。<br/>
<br/>
荒木陸相は露骨な人事を展開します。<br/>
まず 「宇垣派」 を全ての中枢ポストから一掃。<br/>
自分のお友達だけで上層部を固めてしまいます。<br/>
それがあまりにも露骨すぎたため 「まるで平清盛みたいだ」 と呼ばれたほど。<br/>
<br/>
こうして 「宇垣派」 に代わって 「荒木派」 が陸軍を支配。<br/>
彼らがいわゆる 「皇道派」 です。<br/>
<br/>
荒木陸相の人事は 「一夕会」 の結束にもヒビを入れました。<br/>
一夕会には 「永田鉄山」 と 「小畑敏四郎」 という２人のリーダー格がいましたが、<br/>
このとき荒木に優遇されたのが 「小畑」 で、逆に干されたのが 「永田」。<br/>
これは小畑が自分と同じく 「対ソ戦主義者」 だったから・・・・。<br/>
という説が強いみたいですが、永田からすればトンでもない話。<br/>
<br/>
さらに荒木は盟友の 「真崎甚三郎」 を参謀次長に任命。<br/>
本当は 「参謀総長」 にしたかったみたいですが、これはさすがに露骨すぎ。<br/>
そこで皇族の 「閑院宮」 を参謀総長に擁立し、<br/>
参謀本部の実権は次長の真崎が握ったのでした。<br/>
「仕事は次長の真崎がやりますので、宮様は何もしないで座ってて下さい」<br/>
<br/>
さらに 「皇道派」 には 「隊付将校」（青年将校） が味方しました。<br/>
隊付将校というのは現場を指揮する部隊長。<br/>
彼らには荒木陸相が 「改革派」 として写っていたようです。<br/>
「荒木陸相ならば、この閉塞感を打開してくれるだろう」<br/>
<br/>
こうして 「皇道派」 は全盛期を迎えます。<br/>
しかし荒木陸相の人事はあまりに露骨すぎました。<br/>
そして過激な青年将校たちを煽りすぎました。<br/>
<br/>
荒木に反感を持つ人たちは、やがて永田鉄山をリーダーとして結束を固めていったのでした。<br/>
<br/>
陸軍が 「宇垣派」 から 「皇道派」 へと権力が移る原因を作ったのは犬養内閣。<br/>
政党政治を維持するには、宇垣派が権力を握ってた方がやりやすかったハズ。<br/>
しかし政党はこうした陸軍の派閥抗争には、あまり興味がなかったみたいです。<br/>
この時点ではまだ甘く考えていたんでしょうねー。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/08/21/b0052821_22361833.jpg" border="0" width="84" height="110" align="left"/>荒木貞夫<br/>
皇道派のボス。陸相。<br/>
露骨な派閥人事で 「皇道派」 の天下を作り上げる。<br/>
過激な青年将校を煽動して利用してきたが、<br/>
彼らが過激になりすぎたため、制御できなくなって支持を失う。<br/>
演説が長すぎるので 「牛のよだれ」 とあだ名された。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>すでに出動せる以上は致し方なきにあらずや</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18255300/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18255300/</id>  
    <issued>2012-05-07T20:38:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-07T20:38:28+09:00</modified>  
    <created>2012-05-07T20:22:31+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
満州事変　（昭和6年9月18日）<br/>
<br/>
昭和６年４月。銃撃を受けた浜口首相は職務を続行できないと判断して総辞職。<br/>
西園寺公望は同じ 「民政党」 の若槻礼次郎を次期首相に奏薦します。<br/>
首相がテロで倒れた場合は政権交代させません。<br/>
さもないと暗殺合戦が始まっちゃうから。<br/>
<br/>
こうして再び首相となった若槻礼次郎にさっそく大事件が襲いかかります。<br/>
満州事変が勃発したのでした。<br/>
<br/>
満州事変の首謀者は板垣征四郎 （関東軍高級参謀） と石原莞爾 （関東軍参謀）。<br/>
内閣や陸軍省・参謀本部はもちろん<br/>
関東軍の幕僚たちですらこの計画を知りません。<br/>
<br/>
板垣・石原にとって問題だったのは張学良よりもむしろ本国。<br/>
石原たちの勝手な行動に対して、どのような判断をしてくるのか？<br/>
真の勝負は事変勃発から５日間でした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/07/21/b0052821_17201453.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>まず関東軍司令官に関東軍を動かしてもらわねばならない。<br/>
本国にこの行動を承諾してもらわねばならない。<br/>
増援も受けなければならない。<br/>
<br/>
そこで初っ端の５日間についてドキュメント風に。<br/>
<br/>
「事変は会議室でも起きてるんだっ！」<br/>
<br/>
9月18日<br/>
<br/>
22:20<br/>
柳条湖事件発生。<br/>
板垣征四郎は戦闘開始を命令。<br/>
「張学良軍の攻撃だ。奉天城、北大営を占拠せよ」<br/>
<br/>
本庄繁 （関東軍司令官） が石原莞爾の説得によって関東軍に出動命令。<br/>
「よろしい。行動は本職の責任において行う」<br/>
関東軍は翌朝までに奉天・長春・営口を占領。<br/>
<br/>
9月19日　<br/>
<br/>
01:00<br/>
事変発生の第一報が本国に入電。<br/>
「暴戻なる支那軍が満鉄線を破壊せり」<br/>
<br/>
10:00　<br/>
臨時閣議。<br/>
幣原外相が関東軍の謀略の可能性について示唆。<br/>
南陸相は閣議の雰囲気にくじけて、増援を提示できず。<br/>
「事態の不拡大方針」 が閣議決定。<br/>
<br/>
13:30　<br/>
若槻首相が 「不拡大方針」 を昭和天皇に上奏。<br/>
<br/>
14:00　<br/>
陸軍省・参謀本部が本庄関東軍司令官に訓電。<br/>
「事態を拡大せぬよう努力せよ」<br/>
これを受けた本庄は関東軍に対して行動停止命令。<br/>
ショックを受けた石原はフテ寝してまう。<br/>
「これで作戦は失敗だあ～」<br/>
<br/>
9月20日　<br/>
<br/>
10:00<br/>
閣議。南陸相が事実関係について説明。<br/>
<br/>
14:00　<br/>
金谷参謀総長が上奏。<br/>
「将来については閣議決定に基づき行動致します」<br/>
<br/>
9月21日　<br/>
<br/>
03:00<br/>
板垣が本庄関東軍司令官を説得。<br/>
関東軍は中央の 「不拡大方針」 に背くコトを決意。吉林省を占領。<br/>
<br/>
10:00　<br/>
閣議。南陸相が 「朝鮮軍による増援」 を提議するが、<br/>
若槻首相を除く全閣僚が反対。<br/>
<br/>
13:00<br/>
林銑十郎 （朝鮮軍司令官） が独断で朝鮮軍１万に越境命令。満州へ侵入。<br/>
<br/>
15:00　<br/>
朝鮮軍越境を知らせる電文が閣議に到着。<br/>
しかし具体的な対応策が出されないまま閣議散会。<br/>
<br/>
18:00　<br/>
金谷参謀長が 「朝鮮軍越境」 についての裁可を求めるため参内。<br/>
しかし鈴木侍従長に 「事前に首相の承認を受けよ」 と言われて上奏断念。<br/>
<br/>
20:00　<br/>
杉山陸軍次官が若槻首相を訪ねる。<br/>
「朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認する旨を、今晩中に陛下に上奏して欲しい」<br/>
しかし若槻首相はこの要請を拒否。<br/>
<br/>
9月22日　<br/>
<br/>
09:30　<br/>
若槻首相が参内。昭和天皇より御発言。<br/>
「事態を拡大せぬという政府方針は、自分も妥当と思うから、<br/>
その趣旨を徹底するように努力せよ」<br/>
<br/>
10:00<br/>
閣議。若槻首相は朝鮮軍越境を容認。<br/>
「すでに出動せる以上は、致し方なきにあらずや」<br/>
朝鮮軍越境と経費支出を閣議決定。<br/>
<br/>
１．すでに出動せるなるをもって、閣僚全員その事実を認む。<br/>
２．右事実を認めたる以上、これに要する経費６５０万円を支出す。<br/>
<br/>
16:00<br/>
若槻首相が上奏。閣議決定の裁可を求める。<br/>
昭和天皇は閣議決定を裁可。<br/>
<br/>
うーん・・・こうやって見てみますと、<br/>
本国から 「不拡大方針」 が通達されて、板垣や石原もかなりアセってますな。w<br/>
特に本庄司令官が 「ひきこもり」 になっちゃったときは、<br/>
さすがの石原莞爾も半分あきらめたみたい。<br/>
<br/>
最大のターニングポイントとなったのは、<br/>
９月２２日に行われた閣議決定でしょう。<br/>
これまで 「不拡大方針」 だった若槻首相が、関東軍や朝鮮軍の行動を容認。<br/>
これで政府のお墨付きを得た関東軍は、ますます暴走していきます。<br/>
<br/>
「既成事実さえ作ってしまえば、こっちのものだな」<br/>
<br/>
政党政府はイメージ以上に強固な存在でした。<br/>
しかし石原らに散々引きずり回された挙句、その威信を失墜させてしまいます。<br/>
<br/>
もしこれが頑固一徹の浜口首相だったら、どうなっていたか？<br/>
おそらく彼らの行動を最後まで許さなかったでしょう。<br/>
でもこれは関東軍や朝鮮軍。満州の居留民をも見捨てるコトになるので、<br/>
その結果がどうなったのかは判りません。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/07/21/b0052821_17272263.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>林銑十郎<br/>
朝鮮軍司令官。のちに陸相。首相。<br/>
何気に満州事変の最大のキーパーソン。越境将軍。<br/>
勝手に軍を動かした行為は、処刑されても文句は言えない。<br/>
とにかく強硬な意見を鵜呑みにする困った性格。<br/>
しかし人柄は温厚で、ヘレンケラーの歓迎会を催したりしている。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>軍令部を無視した条約調印は統帥権の干犯である</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18246952/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18246952/</id>  
    <issued>2012-05-06T17:09:25+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-06T16:53:59+09:00</modified>  
    <created>2012-05-06T07:28:39+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
ロンドン海軍軍縮条約　（昭和5年10月2日）<br/>
<br/>
昭和５年１月２１日。ロンドン海軍軍縮会議が始まります。<br/>
８年前の 「ワシントン条約」 では主力艦（戦艦・空母）の保有制限が決められたのですが、<br/>
今度は巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの保有制限を決めましょう。<br/>
こういう会議です。<br/>
<br/>
「ケチケチ財政」 と 「仲良し外交」 をモットーとする民政党にとっては、<br/>
財政を圧迫する軍備を減らし、英米と仲良くするためにもグッドな会議。<br/>
「ぜひとも会議をまとめたいよねー」<br/>
<br/>
しかし 「海軍軍令部」 はワシントン条約で<br/>
主力艦の保有量を 「対米６割」 にされたコトが不満。<br/>
「今度こそ対米７割を勝ち取ってきて欲しい」<br/>
<br/>
日本全権代表となったのは若槻礼次郎。<br/>
若槻は 「対米７割」 を勝ち取るために交渉を続けたのですが、<br/>
アメリカ側の態度も強硬で交渉は難航。<br/>
それでもなんとか 「対米６．９７５割」 の線を引きだします。<br/>
「これが限界だ。この辺でまとめないと交渉が決裂してしまう」<br/>
若槻は本国に打電します。<br/>
「対米６．９７５割での条約調印を許可願いたい」<br/>
<br/>
電報を受けた浜口首相は言います。<br/>
「オッケ～。６．９７５割ってほぼ７割じゃん。さすが若槻さん」<br/>
<br/>
さっそく浜口首相は 「海軍省」 にこの件を相談。<br/>
山梨勝之進や堀悌吉などの海軍省トップの連中は言います。<br/>
「いいんじゃないっすか。政府の方針に従いますよ」<br/>
「さすが海軍はジェントルマンだねー。感謝する」<br/>
<br/>
しかしそこへ 「海軍軍令部」 の加藤寛治がやってきます。<br/>
「対米６．９７５割での調印なんて認められませんっ！」<br/>
<br/>
ここで浜口首相の頑固一徹な性格が爆発。<br/>
加藤軍令部長の話をほとんど聞かず、一歩も引きさがりません。<br/>
<br/>
これに怒った加藤軍令部長は昭和天皇に上奏するため、<br/>
侍従長（鈴木貫太郎）に取り次ぎを求めます。<br/>
しかし鈴木侍従長は 「加藤に上奏させると面倒臭いコトになる」 と判断。<br/>
「今日は陛下はお忙しいですから、明日来てください」<br/>
<br/>
翌日。浜口首相が先に来て、昭和天皇に上奏しちゃいます。<br/>
「内閣は条約調印を認める旨決定しました」<br/>
「条約調印を裁可する」<br/>
「ははっ」<br/>
<br/>
この後で加藤軍令部長が上奏するのですが後の祭り。<br/>
すでに裁可は終わってました。<br/>
「な・・・これは統帥権の干犯ではないのか？」<br/>
怒る加藤でしたがどうしようもありません。<br/>
こうして無事に 「ロンドン海軍軍縮条約」 は調印。<br/>
これでこの話は終わるハズでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/06/21/b0052821_7331163.jpg" border="0" width="302" height="193" align="left"/> しかしこの問題に火を付けたのが野党の 「政友会」。<br/>
政友会は金解禁直後に行われた総選挙で惨敗しており、<br/>
なんとか 「民政党」 を攻撃する材料を探していたのでした。<br/>
<br/>
政友会総裁の犬養毅は 「加藤軍令部長」 の問題を取り上げ、<br/>
浜口首相を厳しく追及します。<br/>
<br/>
「軍令部を無視した条約調印は統帥権の干犯である！」<br/>
<br/>
これはやっちゃった・・・・って感じがしますね。<br/>
<br/>
よく 「戦前は軍部が暴走して国を滅ぼした」 と言われます。<br/>
そして彼らが暴走した根拠は 「統帥権の独立」 という考え方にあったとされます。 <br/>
<br/>
「参謀本部と軍令部は、天皇に対してのみ責任を取ればいいのです」<br/>
「だから軍部は政府の言うコトなんて聞かなくてもＯＫ」<br/>
<br/>
政党政府にとって危険極まりない考え方なのですが、何てコトありません。<br/>
これを最初に言い出したのは 「政友会」。<br/>
<br/>
あまりにも 「民政党」 を倒すコトばかりに夢中になったせいで、<br/>
政友会は 「政党政治」 そのものを崩壊させるトリガーを自ら引いたのでした。<br/>
どうも党利党略に走りすぎるのが 「政党政治」 の弱点でしょうかねー。<br/>
<br/>
しかし浜口首相にも問題がないワケじやありません。<br/>
こんな重要案件なのに、政友会に対して何も根回しをせず、<br/>
議論もそこそこに強行採決で一蹴。<br/>
たしかに民政党は帝国議会において 「絶対多数」 を取っていましたが、<br/>
これじゃあ政友会が反発するのも当然。<br/>
ここは上手に政友会をクールダウンさせなきゃいけないのに、<br/>
むしろ煽ってヒートアップさせた感があります。<br/>
<br/>
条約は帝国議会・枢密院を通過。１０月２日に批准されました。<br/>
<br/>
「政党政府が軍部を抑えて条約批准を勝ち取った」<br/>
たしかにこの条約の意味は大きいです。<br/>
しかし強引すぎる浜口首相と、何でもありの政友会。<br/>
彼らが引き起こした対立は大きな禍根を残しましたね。<br/>
<br/>
それから１ヶ月後。浜口首相が東京駅で狙撃されます。<br/>
取り調べにおいて犯人は犯行理由について答えています。<br/>
<br/>
「浜口が統帥権を干犯したからだ」<br/>
<br/>
しかし犯人は 「統帥権干犯とは何か」 という質問には答えられなかったそうです。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/06/21/b0052821_7335847.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>浜口雄幸<br/>
第２７代首相。<br/>
通称「ライオン宰相」。豪胆で正義感も強く人気もあった。<br/>
とにかく頑固一徹で根回しが大嫌い。<br/>
一度決めたらとことんやり抜く・・・という信念の人。<br/>
だけどもうちょっと柔軟性が欲しかったよねー。惜しいです。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>台風が来ているのに窓を全開にしてしまった</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18242474/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18242474/</id>  
    <issued>2012-05-05T09:07:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-05T10:20:20+09:00</modified>  
    <created>2012-05-05T08:51:54+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
金解禁　（昭和5年1月11日）<br/>
<br/>
田中内閣が総辞職した後。<br/>
西園寺公望は次期首相として、民政党総裁の浜口雄幸を薦奏します。<br/>
「政友会と民政党に交互で政権を担当させる」<br/>
これが西園寺の考えていた 「憲政の常道」 でした。<br/>
<br/>
浜口首相は政権に就いてまもなく 「金解禁」 を発表します。<br/>
これは民政党の目玉の公約。<br/>
<br/>
円とドルの為替レートが固定される。<br/>
これが 「金本位制」 の最大のメリット。<br/>
為替が動かなければ今みたいに 「円高だー。円安だー」 と、<br/>
一喜一憂する必要がなくなるので、安心して貿易できます。<br/>
<br/>
日銀が刷れるお札の量に限界がある。<br/>
逆にこれが 「金本位制」 の最大のデメリット。<br/>
兌換紙幣は金（ｇｏｌｄ）との 「引換券」 なワケですから、<br/>
日銀が持っている金（ｇｏｌｄ）の量よりも多くのお札は刷れません。<br/>
<br/>
第１次大戦がはじまると、列強諸国は 「金本位制」 を停止するのですが、<br/>
戦争が終わるとみんな 「金本位制」 に復帰していました。（金解禁）<br/>
当時はアメリカがウハウハの好景気だったので、<br/>
アメリカとの貿易によって景気回復していました。<br/>
<br/>
しかし日本だけは 「金本位制」 に復帰しませんでした。<br/>
高橋是清は 「インフレによって景気を回復させよう」 という考えの持ち主。<br/>
金解禁すると、日銀が持っている金（ｇｏｌｄ）の量よりも多くのお札は刷れなくなります。<br/>
「金解禁なんてバカらしくてやってられない」<br/>
高橋は金融恐慌を鎮静化させるために 「２００円札」 をバンバン刷ってました。<br/>
<br/>
さて。浜口首相によって蔵相に任命されたのは井上準之助。<br/>
<br/>
「とにかく金本位制に復帰して、安心して貿易できるようにするのだっ」<br/>
<br/>
せっかく日本は戦勝国となって 「五大国」 の一角となったのに、<br/>
「金本位制」 に復活できなくて、他国から貿易を嫌がられてるなんて恥だ。<br/>
欧米列強はみんな好景気なのに、日本だけが不景気。<br/>
これは日本だけが国際貿易から取り残されているからだ。<br/>
<br/>
こうして井上蔵相の強い意見によって 「金解禁」 に踏み切ります。<br/>
これは経済界も望んでいたコトでした。<br/>
人々も 「これで日本は長い不況から抜け出せる」 って歓迎しました。<br/>
「金解禁」 直後の総選挙では、民政党が圧勝しています。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/05/21/b0052821_8565938.jpg" border="0" width="301" height="198" align="left"/>しかし 「金解禁」 は大失敗でした。<br/>
<br/>
国際貿易に復帰するために行った金解禁でしたが、<br/>
ちゃんと交換レートを設定しなかったため、<br/>
「ハイエナファンド」 たちによるマネーゲームの餌食にされてしまいます。<br/>
<br/>
また何ともタイミングが悪い話で、<br/>
ちょうどニューヨークのウォール街で株価が大暴落して、<br/>
頼みのアメリカ経済が大パニック。<br/>
<br/>
とにかく日本の輸出品である 「シルク」 が、アメリカで全く売れません。<br/>
アメリカ人としても、こんな高級品を履いてる場合じゃないでしょう。<br/>
期待に反して輸出が全く伸びず、<br/>
マネーゲームの餌食にされているため、日本から金（ｇｏｌｄ）の流出が止まりません。<br/>
国内から金（ｇｏｌｄ）が減ると、紙幣の流通量も減ってデフレになります。<br/>
しかも 「金本位制」 を採っているため、本格的なデフレ対策も打てません。<br/>
<br/>
早くも 「金解禁」 の失敗は明らかになったのですから、<br/>
民政党は失敗を認めて、政策を修正すべきでした。<br/>
しかし浜口首相も井上蔵相も失敗を認めません。<br/>
<br/>
「いまにアメリカは不況から脱する。ここさえ凌げば・・・・」<br/>
「企業が倒産しても大丈夫だ。強い企業が生き残ればむしろ国際競争力は増す」<br/>
<br/>
そうこうしているうちに、企業倒産、リストラが相次ぎ、株価は大暴落。<br/>
物価も賃金も下がり続けて、失業率は急上昇。<br/>
日本を恐慌のドン底に叩き込み、<br/>
農村では娘を身売りしなければならない状況に・・・。<br/>
<br/>
「東洋経済新報」 は金解禁についてこのように表現しています。<br/>
「台風が来ているのに、窓を全開にしてしまった」<br/>
<br/>
浜口雄幸は 「ライオン宰相」 と呼ばれ、<br/>
有言実行で正義感も強く、強烈な個性によって人気もありました。<br/>
とにかく一度決めたら頑固一徹。<br/>
軍部や右翼からの圧力にも決して屈しない人物。<br/>
<br/>
「もし浜口内閣が続いていれば、日本は戦争を避けられた」<br/>
<br/>
浜口は現在でも高い評価を受けている人です。<br/>
たしかに私もそう思います。<br/>
もし満州事変のときの首相が 「若槻」 じゃなくて 「浜口」 だったら、<br/>
歴史が大きく変わっていたコトは間違いありません。<br/>
<br/>
それでもなお、この 「金解禁」 による失政は罪がデカすぎ。<br/>
頑固なのは良いのですが、あまりにも柔軟性に欠けてました。<br/>
浜口内閣が日本に与えたダメージは計り知れません。<br/>
<br/>
もし浜口内閣が続いていれば、日本経済が詰んだコトだけは確実でしょう。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/05/21/b0052821_8575880.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>井上準之助<br/>
浜口内閣の蔵相。<br/>
金解禁を実行して大失敗。日本を恐慌の渦へ叩き込んだ。<br/>
民政党に引き抜かれるまでは、高橋是清の側近だったりする。<br/>
金解禁も彼の信念ではなく、党内での権力闘争によるもの<br/>
・・・・という説もある。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>お前が最初に言ったことと違うじゃないか</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18239659/"/>  
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    <issued>2012-05-04T18:40:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-13T07:23:14+09:00</modified>  
    <created>2012-05-04T18:25:22+09:00</created>  
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      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
張作霖爆殺事件　（昭和3年6月4日）<br/>
<br/>
金融恐慌をうまく処理した田中内閣 （政友会）。<br/>
しかし今度は中国大陸から難問が訪れます。<br/>
<br/>
当時の中国では 「奉天派軍閥」 の張作霖が中央政権を掌握していたのですが、<br/>
北伐を進める蒋介石が着々と勢力を伸ばし、ついに北京を射程に収めます。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/04/21/b0052821_18264856.jpg" border="0" width="317" height="207" align="left"/>どうやら状況は蒋介石が優勢。<br/>
もしこのまま蒋介石が張作霖を撃破してしまったら、<br/>
調子こいた蒋介石が満州までも占領してしまうのは確実。<br/>
そうなったら日露戦争以降、満州に築いてきた日本の権益がピンチに・・・。<br/>
<br/>
そこで田中首相は蒋介石と張作霖の停戦を斡旋しました。<br/>
<br/>
「張作霖は大人しく北京を明け渡しなさい。蒋介石は満州への侵攻を止めなさい」<br/>
<br/>
蒋介石はこの勧告に応じ、張作霖も最初は嫌がっていたもののけっきょく受諾。<br/>
北京を放棄して満州へと撤退します。<br/>
ところがその途中。列車が大爆発を起こして張作霖は爆死してしまったのでした。 <br/>
この爆殺を担当したのは関東軍高級参謀の河本大作。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/04/21/b0052821_18271399.jpg" border="0" width="303" height="193" align="left"/>田中首相は激怒します。<br/>
「親の心子知らずとはこのことだ」<br/>
せっかく張作霖を操り人形にして、蒋介石に対抗させようとしていた矢先。<br/>
その大事な人形を現地の出先機関が殺しちゃったのですから、怒るのも当然でしょう。<br/>
<br/>
一方。河本大佐は 「混乱に乗じて満州全域を武力制圧してしまおう」 と考えていたのですが、<br/>
田中首相が断固として出動命令を出さなかったため、関東軍は出動するコトが出来ず、<br/>
さらに後を継いだ張学良が蒋介石に臣従しちゃったので、<br/>
逆に満州に対する影響力を弱める結果に終わったのでした。<br/>
<br/>
けっきょく田中首相の計画も河本大佐の計画も失敗しちゃったワケで、<br/>
この辺しっかりと意志統一して欲しかったと思いますね。<br/>
<br/>
田中首相は事件について昭和天皇に上奏。<br/>
<br/>
「この事件は甚だ遺憾なことで、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処断します」<br/>
<br/>
しかし政友会と陸軍が、田中首相の方針に猛反発。<br/>
<br/>
「田中は陸軍出身のくせに・・・・裏切り者だっ」<br/>
「軍法会議なんてとんでもない。軽い行政処分で済ませるべきだ」<br/>
<br/>
田中首相にとって政友会と陸軍は大事な政権基盤。<br/>
彼らにそっぽを向かれてしまうと政権を運営できません。<br/>
けっきょく彼らに押し切られる形で、うやむやのまま事件は葬られたのでした。<br/>
<br/>
田中首相は事件結果を報告するために昭和天皇に上奏します。<br/>
前回の上奏から半年以上が経っていました。<br/>
<br/>
「関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより行政処分にします」<br/>
「お前が最初に言ったことと違うじゃないか」<br/>
「そ・・・そのことについては、いろいろご説明を・・・」<br/>
「説明を聞く必要はない」<br/>
「・・・・・・」<br/>
「辞表を出したらどうか？」<br/>
<br/>
謁見を打ち切って昭和天皇は奥へと入ってしまいます。<br/>
田中首相は汗びっしょりになりながら、侍従長に再度の謁見を求めます。<br/>
しかし侍従長 （鈴木貫太郎） は言います。<br/>
<br/>
「おそらく陛下はお出ましにならないでしょう」<br/>
「えっ？」<br/>
「田中首相の言うことはちっとも判らぬ。再び聞くことは自分はイヤだ・・・と仰ってました」<br/>
「Σ(ﾟДﾟ) ガーン！」  <br/>
　<br/>
鈴木侍従長の話を聞いて田中首相は涙を流しながら恐懼。<br/>
昭和天皇に対する忠誠心が人一倍高かった彼にとっては辛かったでしょうねー。<br/>
<br/>
「陛下の御信任はすでに去った・・・・」<br/>
<br/>
田中首相は即座に総辞職し、それからわずか３ヶ月後に狭心症で亡くなったのでした。<br/>
<br/>
これは天皇の叱責によって内閣が倒れた唯一の事例。<br/>
昭和天皇は 「独白録」 の中で、この件について書かれています。<br/>
「若気の至りだった」<br/>
そしてさらに続けてこのような反省をされています。<br/>
<br/>
「この事件があって以来、私は内閣の上奏するものは、<br/>
たとえ自分が反対の意見を持っていても、裁可を与える事に決心した」<br/>
<br/>
たしかに立憲君主制においては 「君臨すれども統治せず」 が基本。<br/>
この事件以降。昭和天皇が閣議決定を拒否するコトはなくなります。<br/>
これはこれで正しいコトなのですが、<br/>
以後の歴史を見ると 「もしここで天皇が上奏を拒否してくれたら・・」 って場面が多すぎ。<br/>
昭和天皇が自らの意思を示されるのは 「二・二六事件」 と 「終戦」 のときだけ。<br/>
つまり張作霖爆殺事件における最大のポイントは 「昭和天皇の御反省」 と言えるワケで、<br/>
この辺はなかなか考えさせられますね。<br/>
<br/>
そして張作霖事件について反省した人物がもう一人。<br/>
河本大作と入れ替わりの形で関東軍にやって来た天才。<br/>
その名は 「石原莞爾」。<br/>
彼は河本大佐の失敗を反省した上で計画を練り、<br/>
３年後。自らの作戦を成功へと導きます。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/21/b0052821_738232.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>田中義一<br/>
第２６代首相。<br/>
もともと陸軍 「長州閥」 のボスだったが、<br/>
軍服を背広に着替えて 「政友会総裁」 に迎え入れられる。<br/>
それまで 「自由民権」 がモットーだった政友会を<br/>
親軍・保守的な政党に作り変えた。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>枢密院は若槻内閣の緊急勅令案を否決する</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18230338/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18230338/</id>  
    <issued>2012-05-02T21:30:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-14T21:58:40+09:00</modified>  
    <created>2012-05-02T21:15:08+09:00</created>  
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      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
金融恐慌　（昭和2年3月14日）<br/>
<br/>
１９２６年１２月２５日。昭和元年が始まったとき。<br/>
日本を覆っていた最大の問題は 「震災手形」 でした。<br/>
当時の首相は 「憲政会」 の若槻礼次郎 （第１次）。<br/>
<br/>
震災手形というのは大正１２年に起こった 「関東大震災」 のために、<br/>
支払いが不能になってしまった手形のコト。<br/>
政府は 「震災手形」 を日本銀行に買い取らせます。<br/>
「とにかく震災手形を回収しろっ」<br/>
<br/>
政府の計算では、おそらく日銀には合計１億円の 「震災手形」 が集まる予定でした。<br/>
そこで政府は１億円を日銀に投入し、震災手形を処理しようとします。<br/>
<br/>
ところが関東大震災の被害とは全く関係のない企業。<br/>
単なる経営ミスで不良債権化した手形までが<br/>
大量に日本銀行へ 「震災手形」 として持ち込まれたため、（とくに鈴木商店）<br/>
政府がいくらお金を注ぎ込んでも 「震災手形」 の処理は終わりません。<br/>
<br/>
昭和２年３月の時点でも、まだ２億円が未決済でした。<br/>
当然ウワサも飛び交います。<br/>
<br/>
「どうも震災手形のせいで銀行がヤバイらしい・・・」<br/>
「震災手形の未決済２億円のうち、１億円は台湾銀行が抱えているらしい」<br/>
<br/>
若槻内閣はなんとか台湾銀行の震災手形を処理しようとしていました。<br/>
しかし国会では、野党の 「政友会」 が厳しい質問を浴びせます。<br/>
<br/>
「台湾銀行だけを特別扱いするのか？」<br/>
<br/>
まあ。いつの時代も野党というのは無責任なもの。<br/>
台湾銀行を救済するための法案を通さないと、日本経済が大ダメージを受ける・・・。<br/>
解かってるのに政友会は非協力的でした。<br/>
これに片岡蔵相がブチ切れ。<br/>
<br/>
「この法案が通らないとヤバイんですよ。現に東京渡辺銀行が破綻しちゃったし・・・」<br/>
<br/>
うわさはあっという間に広がります。<br/>
「銀行がツブれるだって？ 今すぐ銀行から預金を引き出さなければ手遅れになるぞ」<br/>
人々は通帳を片手に銀行へ殺到。全国で取付け騒ぎが発生します。<br/>
これが 「金融恐慌」 のはじまりでした。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/14/21/b0052821_22124512.jpg" border="0" width="304" height="193" align="left"/>とにかく台湾銀行を救わなければ話になりません。<br/>
若槻首相は日銀総裁に要請します。<br/>
<br/>
「台湾銀行へ２億円をブチ込んでほしい」<br/>
「そ・・・そんな。何かあったら責任が持てない」<br/>
「今は日本の危機なんだぞ」<br/>
「法律か緊急勅令があれば日銀は要請に従う」<br/>
<br/>
若槻首相は悩みます。<br/>
<br/>
「今。議会は閉会中だし、むりやり議会を開いても政友会がウザいし・・・。<br/>
それならいっそ枢密院に緊急勅令を出してもらった方が話は早い」<br/>
<br/>
しかし枢密院は若槻内閣の 「協調外交」 を嫌っていました。<br/>
北伐を進める蒋介石に対して、何の手も打たないコトに激怒していました。<br/>
<br/>
「枢密院は若槻内閣の緊急勅令案を否決する」<br/>
「正気か？ 金融恐慌が悪化してしまうぞ？」<br/>
「とにかく否決だ。台湾銀行への２億円融資は認めない」<br/>
<br/>
完全に枢密院のイヤがらせ。<br/>
これにガクッときた若槻首相は内閣総辞職してしまったのでした。<br/>
<br/>
次の首相を誰にするか？<br/>
ここで元老・西園寺公望の登場となります。<br/>
西園寺は 「憲政の常道」 に従って、政友会の田中義一を首相にするよう昭和天皇に奏薦。<br/>
こうして政友会の田中内閣が誕生しました。<br/>
<br/>
「まずは金融恐慌を何とかしないと」<br/>
<br/>
田中首相は政友会の秘密兵器を蔵相に任命します。<br/>
その男こそ高橋是清。通称 「チートダルマ」。<br/>
<br/>
「とにかく日銀に紙幣を刷って刷って刷りまくらせるのです」<br/>
「なるほど」<br/>
「でも日銀はまた緊急勅令を求めてきますよ」<br/>
「あ。それなら大丈夫だから」<br/>
<br/>
田中首相が枢密院に緊急勅令を求めると、すぐに返事が返ってきました。<br/>
<br/>
「了承」<br/>
<br/>
枢密院のお墨付きを得た高橋蔵相は、お札の大増刷を命じます。<br/>
日銀は休日なしの２４時間フル稼働。<br/>
ウラが白紙の 「２００円札」 が大量発行されます。<br/>
<br/>
そして日銀は紙幣をトラックに満載させて、銀行の金庫にムリヤリ投げ入れていきます。<br/>
預金者としても銀行に紙幣があるなら一安心。<br/>
こうして 「取付け騒ぎ」 は収まったのでした。<br/>
<br/>
金融恐慌に関しては、経済よりも政治的な話の方が興味ありますね。<br/>
<br/>
国家的危機に陥っているのに、党利党略を優先する 「政友会」。<br/>
外交政策が気に入らないから・・・と言って、内閣をツブしにかかる 「枢密院」。<br/>
苦境に陥るとあっさりと政権を投げ出す 「若槻首相」。<br/>
<br/>
たしかに政府に協力しようとしない野党の 「政友会」 は汚いです。汚すぎます。<br/>
それにいくら憲政会の外交方針が気に入らないからと言って、枢密院の態度はヒドすぎ。<br/>
でも金融恐慌を収束させたのは 「政友会」 なんですよね。<br/>
政治は結果が全て。これが政治の世界なんでしょうなー。<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/14/21/b0052821_22133216.jpg" border="0" width="85" height="110" align="left"/>若槻礼次郎<br/>
第２５・２８代首相。<br/>
大蔵官僚出身で事務能力に長けた秀才。<br/>
優れた知識と見識の持ち主だが、性格の弱さが弱点。<br/>
金融恐慌・満州事変に対応するもいずれも失敗。<br/>
もう少し粘り強さがあればなー。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>戦前昭和史雑感</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hosokawa18.exblog.jp/18225248/"/>  
    <id>http://hosokawa18.exblog.jp/18225248/</id>  
    <issued>2012-05-01T22:05:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-01T23:05:55+09:00</modified>  
    <created>2012-05-01T21:50:45+09:00</created>  
    <author> 
      <name>hosokawa18272</name> 
    </author>  
    <dc:subject>未分類</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
日本史の中でも 「戦前昭和」 は格段に面白いです。<br/>
<br/>
昭和元年は１２月２５日からなので１週間しかありません。<br/>
実質的に 「昭和」 が始まるのは昭和２年から。<br/>
そして対米開戦が昭和１６年なので、<br/>
わずか１５年・・・たった１５年の話です。<br/>
しかしこれほど激動な時代って他にはありません。<br/>
<br/>
ま。最終的にはバッドエンドとなってしまうのですが、<br/>
昭和史に関する本を読んでいると、こんな感想を抱かざるを得ません。<br/>
「どうしてこうなった？」<br/>
<br/>
そこでまあ。戦前昭和史で重要と思われるトピックスについての雑感を。<br/>
けっこう長くなってしまいそうなので、まずは前半として 「二・二六事件」 まで。<br/>
いつも以上に適当にダラダラと自己満足で書いてきます。<br/>
<br/>
で。まずはさっくりと諸機関についての状況から。<br/>
<br/>
内閣<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21521112.jpg" border="0" width="127" height="97" align="left"/>政治の最高権力を掌握するのは 「内閣」。これは今も戦前も変わりません。<br/>
昭和元年から昭和１６年までの歴代内閣は実に１６。<br/>
１年に１回内閣が変わっている計算です。<br/>
<br/>
ターニングポイントとなるのは岡田内閣のときに発生した 「二・二六事件」 でしょう。<br/>
これ以降。政権から 「政党」 の勢力が一掃され 「陸軍」 の影響力が増してきます。<br/>
<br/>
　１　若槻礼次郎 1<br/>
　２　田中義一　<br/>
　３　浜口雄幸　<br/>
　４　若槻礼次郎 2　<br/>
　５　犬養毅<br/>
　６　斎藤実<br/>
　７　岡田啓介<br/>
<br/>
　８　広田弘毅<br/>
　９　林銑十郎<br/>
１０　近衛文麿 1 <br/>
１１　平沼騏一郎<br/>
１２　阿部信行　<br/>
１３　米内光政　<br/>
１４　近衛文麿 2<br/>
１５　近衛文麿 3<br/>
１６　東条英機　<br/>
<br/>
帝国議会<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21524384.jpg" border="0" width="128" height="95" align="left"/>予算案承認・法律制定・条約批准などの権限を持つ 「帝国議会」。<br/>
意外とその権限は強力です。<br/>
<br/>
昭和初期において帝国議会を牛耳っていたのは二大政党。<br/>
「政友会」 と 「憲政会」（のちの民政党）。<br/>
彼らが議場で醜態を晒しながら争っている姿は、まるで自民党と民主党。<br/>
それでもスタンスがハッキリしているだけ戦前の方がまだマシです。<br/>
<br/>
財政も外交もイケイケドンドンな 「政友会」。<br/>
ケチケチ財政と仲良し外交がモットーの 「憲政会」（民政党）。<br/>
<br/>
ま。どっちが良いとは簡単には言えないトコロが難しいですね。<br/>
<br/>
宮中<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21531158.jpg" border="0" width="129" height="97" align="left"/>「次の首相を誰にするか」 を決める。<br/>
これが宮中勢力が持つ最大の権限です。<br/>
特に元老である 「西園寺公望」 の発言力は絶大でして、<br/>
戦前の 「昭和」 における首相は全てこの男一人の手によって決められた<br/>
・・・と言っても過言じゃありません。<br/>
<br/>
他にも宮中ポストとして 「内大臣」 や 「侍従長」 がいますが、<br/>
宮中勢力は 「リベラル」 な志向が強い人物が揃っており、<br/>
側近として昭和天皇にも影響を与えています。<br/>
軍部や右翼はそんな宮中勢力を 「君側の奸」 として敵視しています。<br/>
<br/>
枢密院<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21533671.jpg" border="0" width="129" height="94" align="left"/>枢密院の権限は議会が制定する 「法律」 の代わりに 「緊急勅令」 を出せるコトと、<br/>
重要な法案・条約を審査するコト。<br/>
枢密院に否決されたら、政策はパーになってしまいます。<br/>
<br/>
そんな枢密院を仕切っていたのが副議長の 「平沼騏一郎」。<br/>
彼は右翼団体 「国本社」 のボスで、特に中国に対してはかなり強硬な姿勢の持ち主。<br/>
よって 「協調外交」 をモットーとする 「憲政会」（民政党） を嫌っており、<br/>
元老の西園寺公望とは不倶戴天の敵です。<br/>
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陸軍<br/>
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<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_2154995.jpg" border="0" width="128" height="95" align="left"/>昭和初期の時点で陸軍を掌握していたのは 「宇垣一成」。<br/>
宇垣は明治時代から続く陸軍の最大派閥 「長州閥」 のボスであり、<br/>
また長州人以外にも優秀な人材を配下に加えて 「宇垣閥」 を形成していました。<br/>
「宇垣閥」 は陸相のポストを独占し、絶大なる勢力を誇っていたのですが、<br/>
若い中堅エリート将校たちは 「宇垣は時代遅れ」 と言って嫌い、<br/>
そのため彼らは 「反宇垣派」 と呼ばれる将軍たち。<br/>
荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の３人を盛りたてて、<br/>
宇垣時代を終わらせようと策謀します。<br/>
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海軍<br/>
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<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21543221.jpg" border="0" width="127" height="95" align="left"/>もともと一枚岩で団結しており、内閣にも協力的だった海軍。<br/>
海軍では政治を管轄する 「海軍省」 の方が、<br/>
作戦を担当する 「海軍軍令部」 よりも強い立場にありました。<br/>
この辺が 「陸軍とちがって海軍はジェントルマンだよねー」 と言われてた理由。<br/>
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そんな海軍が分裂するのは大正１０年の 「ワシントン条約」 から。<br/>
この条約では主力艦（戦艦・空母）の所有隻数を 「対米６割」 と決められました。<br/>
これを巡って海軍内部では意見が真っぷたつ。<br/>
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「６割艦隊なんて面白くない。屈辱的だ」<br/>
「いや違う。アメリカが日本の六分の十で我慢していると考えるべきだ」<br/>
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彼らはそれぞれ 「艦隊派」 「条約派」 と呼ばれ、<br/>
条約派が多い 「海軍省」 が主導権を握っていたのですが、<br/>
「艦隊派」 は巻き返しのチャンスを狙っています。<br/>
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マスコミ<br/>
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<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/01/21/b0052821_21545759.jpg" border="0" width="129" height="97" align="left"/>朝日・毎日（東日）・讀賣などの新聞社が世論を煽ってたのは戦前も同じ。<br/>
特に大正１４年に 「普通選挙法」 が制定されてからは、<br/>
新聞の論調が選挙に大きな影響力を及ぼすようになってます。
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