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  <title>関東城岳同窓会　「関東在住の沖縄県立二中・那覇高校OBの親睦・出会いの場」</title>  
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  <modified>2012-01-18T12:32:02+09:00</modified>  
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  <tagline>関東城岳同窓会</tagline>  
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    <title>島唄同好会　新春第一回の集い　　　　　　　　　　　　亀島 博（那覇高2期）</title>  
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    <issued>2012-01-18T11:47:00+09:00</issued>  
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      <name>k-jogaku</name> 
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    <dc:subject>各同好会通信</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201201/18/17/e0040517_11572181.jpg" border="0" width="500" height="318"/></center>関東城岳同窓会員の皆様、明けましておめでとうございます。<br/>
<br/>
昨年は国内もまた海外も「想定外」の激変の事態が起きましたが、今年は明るい平和の年でありますよう祈っています。<br/>
<br/>
さて、私たちの島唄同好会は希望に満ちた新春第一回の集いが、去る1月8日(日)に五反田の「結まーる」で開かれました。<br/>
<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201201/18/17/e0040517_11581994.jpg" border="0" width="250" height="170" align="right"/>まず、島唄ランチから始まる。<br/>
今回は新年にふさわしいメニューである。<br/>
ターンムの煮付、<br/>
ターンムディエンガク<br/>
またアーサのおすまし、<br/>
それに赤飯と盛り沢山!!　<br/>
オリオンビールと泡盛も並んでいます。<br/>
<br/>
<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201201/18/17/e0040517_121966.jpg" border="0" width="168" height="278" align="left"/>ご馳走の後には、<br/>
お正月のおめでたい日にふさわしい<br/>
<br/>
祝儀舞踊「かじゃでぃ風」、「鷲ぬ鳥節」<br/>
<br/>
竹内栄子さん(16期)<br/>
<br/>
五ノ坪すえ子さん(19期)<br/>
<br/>
お二人の華麗な舞踊に一同うっとりと見入っていました。<br/>
<br/>
緊張したひと時の後は賑やかな合唱と懇談が始まりました。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201201/18/17/e0040517_12312065.jpg" border="0" width="478" height="180"/></center><br/>
この様に城岳の島唄会は、<br/>
１．評判の島唄ランチ<br/>
２．賑やかな島唄と踊り<br/>
３．楽しい懇談（ムヌガタイ）<br/>
と、三拍子そろっています。まだ参加されていない方は是非一度<br/>
「体験入会」して見てください。メンバー一同お待ちしています。<br/>
<br/>
（那覇高2期　亀島　博）
        ]]></content> 
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  <entry> 
    <title>二中・那覇高 創立百周年記念誌『城岳讃歌』発行のお知らせ</title>  
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    <issued>2011-11-02T09:24:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-11-02T09:27:17+09:00</modified>  
    <created>2011-11-02T09:24:02+09:00</created>  
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      <name>k-jogaku</name> 
    </author>  
    <dc:subject>TOP NEWS</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
関東城岳同窓会では今春来、会員の皆様のご協力のもとに母校の創立百周年と関東城岳同窓会設立60周年を祝して、記念誌『城岳讃歌』の発行に取組んできましたが、この度、無事発行することが出来ました。これも偏に会員の皆様の熱いご支援の賜物と記念事業実行委員一同心より感謝すると共にお礼を申し上げます。<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201111/02/17/e0040517_9204362.jpg" border="0" width="321" height="432" align="left"/>記念誌『城岳讃歌』の内容は、第一部・「関東城岳同窓会の歩み」、第二部「思い出の記」、第三部「校史探訪・語り継ぎたい物語」の三部構成になっており、B5版、234ページの立派な記念誌に仕上がりました。<br/>
同窓会員の皆様には総会案内とともに「記念誌発行のお知らせ」と「500円で頒布」する旨をお知らせしましたが、未だ記念誌の発行をご存知ない方々にも是非ご一読頂きたいものと考えています。<br/>
事務局には在庫がありますので記念誌『城岳讃歌』をご希望の方は、関東城岳同窓会の「郵便振込口座（口座番号：００１６０－１－５５０８９５）」宛に「記念誌購入代金」と通信欄に明記の上、お振込頂ければ、入金が確認出来次第、「着払い」でお届けいたします。（同窓会の財政逼迫の折ですので、着払いの件、ご了解ください）<br/>
二中・那覇高　百周年記念事業実行委員会・2011,11,吉日
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>「総会に向っての幹事会が開催されました」</title>  
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    <issued>2011-09-21T19:00:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-11-02T09:16:47+09:00</modified>  
    <created>2011-09-21T19:00:10+09:00</created>  
    <author> 
      <name>k-jogaku</name> 
    </author>  
    <dc:subject>TOP NEWS</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
   未だ残暑厳しい９月１８日、会長以下各期幹事１９名の出席の下、何時もの大崎コープで幹事会が開催されました。<br/>
 今回の議題は来る１１月１２日に開催される総会に向けての最終準備打合せ。<br/>
事務局長から関東城岳同窓会発足・１００周年記念誌「城岳賛歌」発行募金が目標の１５０万達成が報告ありました。<br/>
 とは言え,5０万円を越える山路会長･旧制中の協賛寄金がある一方、那覇高・若い世代の３０期以降は協賛寄付０が続く格差。ここでも若い世代の参加勧誘の課題が浮き彫りになっています。<br/>
　今期は会長、事務局長はじめ役員の改選期とあり、総会提議の新体制を廻り侃侃諤諤、議論の結果、執行部体制継承案の落着を見ました。新体制は来る１１月１２日に行われる総会で審議、提案されます。<br/>
大勢の皆様の参加をお待ちしています。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201109/21/17/e0040517_18593567.jpg" border="0" width="500" height="256"/></center>
        ]]></content> 
  </entry>  
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    <title type="text"><![CDATA[PR: 違法コピーは犯罪です。黙認しない勇気を！]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/470PFpSraIDm/t52yB_iPdSy7?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/470PFpSraIDm/t52yB_iPdSy7?type=3&ent=1502098aaf49f4f613b97c202b1a9784"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 「組織内違法コピー」は外部からの判断が難しく、問題解決には内部告発が不可欠です。 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-09-21T19:00:10+09:00</created>
    <modified>2011-11-02T09:16:47+09:00</modified>
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  <entry> 
    <title>映画 「想色～オモイ・ノ・イロ～」 オンエア情報</title>  
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    <id>http://kjogaku.exblog.jp/15081682/</id>  
    <issued>2011-07-08T10:47:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-07-08T11:20:01+09:00</modified>  
    <created>2011-07-08T10:47:12+09:00</created>  
    <author> 
      <name>k-jogaku</name> 
    </author>  
    <dc:subject>会員ニュース</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
３５期卒業の映画監督喜屋武靖（沖縄県那覇市出身）の<br/>
2004年劇場公開された若槻千夏さん主演の映画「想色～オモイ・ノ・イロ～」が<br/>
今月のスカイパーフェクＴＶの709ｃｈ「エキサイティンググランプリ」で<br/>
７月の間、放送されることになりました。<br/>
<br/>
人気アイドルの若槻千夏さんのほか、人気グラビアアイドルの太田千晶さん、岩佐真悠子さん、元シブガキ隊の布川敏和さん、男闘呼組の前田耕陽 さんと、ヤングアダルトスターが出演してます。<br/>
<br/>
小田原の観光スポットがさりげなく登場する神奈川ムービーで、青春時代の真ん中で揺れる乙女３人が「あじさい電車」に乗って旅に出る場面はファンに人気のシーンで、公開当時は地元観光協会等がご当地ムービーとして紹介したり、喜屋武監督をご存じの方には想像がつかない「女の子はいつでも傷つきやすくて、可愛く大人になっていく♪」映画で、原作も喜屋武監督が書いたということで、人は見かけによりません（笑）<br/>
<br/>
喜屋武監督は那覇高校在学時代に映画研究会の会長さんをなさっていたそうです。<br/>
だしか１２組だったということをおっしゃっていました。<br/>
<br/>
スカパーにご加入の同期の先輩方、同期の喜屋武監督の作品をどうぞ、ぜひご覧になってみてください！<br/>
那覇高出身者、先輩方の３５期生からアカデミー賞監督が誕生するよう応援をお願い申し上げます。<br/>
<br/>
◆喜屋武靖監督のウィキぺディア<br/>
<br/>
◆放送時間<br/>
2011/07/02　17：00<br/>
2011/07/05　11：00<br/>
2011/07/09　08：15<br/>
2011/07/11　21：30<br/>
2011/07/14　11：00<br/>
2011/07/16　05：30<br/>
2011/07/18　21：30<br/>
2011/07/21　19：45<br/>
2011/07/24　11：00<br/>
2011/07/31　15：45 <br/>
<br/>
◆「想色～オモイ・ノ・イロ～」あらすじ<br/>
杏奈（若槻千夏）は、有名スタイリストの母親にコンプレックスを抱き、ある過去の出来事にやり場のない苛立ちを憶えながら、夜の喧騒で心の隙間を埋める。祐香（太田千晶）は憧れだったスタイリストの職につくが、カメラマンとの恋愛に苦しみ、自分のやりたい事とは、ほど遠い雑用に追われる毎日。亜紀（岩佐真悠子）は小さな編集プロダクションでバイトをするが、約束を断ってまで集めた資料も、企画倒れを繰り替えしてばかり…。そんなある日、祐香が倒れ病院に運ばれる。そこで久々に顔を合わせた３人には、あの頃の輝きはなかった。それぞれが直面した厳しい現実。慣れない新生活の中で、唯一信じられるはずの関係に微妙な距離が生じてしまったことに気づく３人…。 <br/>
<br/>
◆出演者<br/>
若槻千夏 太田千晶 岩佐真悠子 川村亜紀 布川敏和 前田耕陽 <br/>
<br/>
◆作品詳細ページ<br/>
<br/>
◆エキサイティング・グランプリとは・・・<br/>
デジタルCS放送「スカイパーフェクTV!」（709ＣＨ）、「ケーブルテレビ足立」、「ケイキャット」（関西地区のCATV)などで視聴できる有料放送（月480円）です。<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>記念誌『城岳讃歌』発行についてのお願い</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kjogaku.exblog.jp/14546917/"/>  
    <id>http://kjogaku.exblog.jp/14546917/</id>  
    <issued>2011-04-04T13:09:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-04-04T13:32:53+09:00</modified>  
    <created>2011-04-04T13:09:53+09:00</created>  
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      <name>k-jogaku</name> 
    </author>  
    <dc:subject>TOP NEWS</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
～母校の創立100周年と関東城岳同窓会の60周年を祝って～<br/>
昨年（2010年）は、我々の母校（県立第二中学校・県立那覇高等学校）が首里城北殿で誕生して、ちょうど百年の記念の年でした。<br/>
一方、関東城岳同窓会も1950年（昭和25）、故郷の情報を求めて有志によって立ち上げられて以来、60年を迎えたところであります。<br/>
　<br/>
この機に関東城岳同窓会でも、母校の創立100周年と、関東城岳同窓会の60周年を祝して、下記のように、記念誌『城岳讃歌』の発行を企画しました。<br/>
つきましては、卒業生の皆様に記念誌への「寄稿」と、制作費の財源のための「寄付」について、ご協力を賜りたく、ご案内申し上げます。是非ともご検討いただき、この記念事業にご参加くださいますよう、衷心よりお願い申し上げます。<br/>
<br/>
　皆様ご自身の記念のためにも、文章の寄稿と名刺広告（5,000円）か、もしくは賛助金（3,000円）にご協力くださいますよう、切に願っております。<br/>
<br/>
同期の幹事のから名刺広告や賛助金の依頼や記念誌への寄稿の依頼がありました折には、是非ご協力のほどお願い申し上げます。<br/>
<br/>
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;2011年3月吉日<br/>
<br/>
関東城岳同窓会&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;会&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;長&nbsp;&nbsp;山路 安清（二中・34期、旧姓・徳田）&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;副&nbsp;会&nbsp;長&nbsp;&nbsp;真栄田 修（記念誌編集責任者／那覇高・8期）監&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;事&nbsp;&nbsp;福永 忠彦（募金活動責任者／那覇高・8期）&nbsp;&nbsp;&nbsp;事務局長&nbsp;&nbsp;比嘉 良智（那覇高・13期）&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<br/>
<br/>
１．記念誌『城岳讃歌』制作のための寄付のお願い<br/>
<br/>
①名刺広告（縦組み、横組み）　･････････････････････････････　5,000円　<br/>
掲載の必須項目は、氏名・卒業期。それ以外は各自の自由とします。<br/>
<br/>
②賛助金　････････････････････････････････････････････････　3,000円<br/>
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br/>
③企業広告：1頁の4分の1（縦50ミリ×横140ミリ） ･･･････････　10,000円<br/>
　　　　　　　　1頁の2分の1（縦100ミリ×横150ミリ） ･･････････　20,000円<br/>
　　　　　　　　1頁　　　　　　（縦205ミリ×横150ミリ）　･･････････　40,000円<br/>
　　　　　　　　表3・表4　　　（縦205ミリ×横150ミリ）　･･････････　50,000円<br/>
<br/>
④目標額：150万円<br/>
<br/>
⑤発行部数：2,000部　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br/>
<br/>
２．記念誌『城岳讃歌』の内容について<br/>
<br/>
①体裁：B5判並製　総120頁（予定）<br/>
<br/>
②内容：第一部　関東城岳同窓会の歩み　･･･････････････････････････　（15頁）<br/>
　　　　　第二部　母校・恩師・先輩・朋友の思い出など（寄稿で構成）　･･･　（55頁）<br/>
　　　　　第三部　母校百年・語り継ぎたい物語（会報より抜粋）　･････････　（35頁）<br/>
　　　　　広告頁　企業広告＆名刺広告　･･････････････････････････････　（15頁）<br/>
<br/>
③発行時期：2011年10月中旬<br/>
<br/>
④頒価：500円<br/>
<br/>
３．記念誌『城岳讃歌』への寄稿のお願い<br/>
<br/>
①テーマ：自由<br/>
母校にまつわる話題であれば自由です。例えば同窓会で出会った先輩や旧友、または恩師や部活動・部活仲間などについての思い出など。<br/>
<br/>
②原稿枚数： 800字以内（1人1頁のレイアウトのため）<br/>
どうしても800字に収まりそうにない場合は1600字まで認めますが、調整は編集部に一任とさせていただきます。<br/>
なお、思い出の写真などありましたら、簡単な説明文とともに添付してください（写真スペース等の調整も編集部でいたしますので、ご了承ください）。<br/>
<br/>
③原稿締切：2011年4月30日厳守
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry>
    <title type="text"><![CDATA[PR: スリッページなし、即約定！約定力No.1のマネパ！]]></title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/470PFpSraIDm/zqYgXngnx60l?type=2&amp;ent=f007229cec76202defe1374d2c3c7ceb"/>
    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="center" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/470PFpSraIDm/zqYgXngnx60l?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/470PFpSraIDm/zqYgXngnx60l?type=3&ent=f007229cec76202defe1374d2c3c7ceb"/></a></td><td> &nbsp; </td><td valign="top" > ドル円スプが1.2pips！マネーパートナーズ、スプレッド縮小恒常化決定！ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-04-04T13:09:53+09:00</created>
    <modified>2011-04-04T13:32:53+09:00</modified>
    <issued>2011-04-04T13:09:00+09:00</issued>
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  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　同窓会の一層の繁栄を願って</title>  
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kjogaku.exblog.jp/14341406/"/>  
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    <issued>2011-03-01T14:06:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:20:18+09:00</modified>  
    <created>2011-03-01T14:06:35+09:00</created>  
    <author> 
      <name>k-jogaku</name> 
    </author>  
    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
同窓会の一層の繁栄を願って関東城岳同窓会監査 福永忠彦(那覇高8期)<br/>
　同窓会の繁栄と存続はひとえに参加者の増加にあります。<br/>
私が関東城岳同窓会の役員として関わりを持つようになって、常に課題となっているのは、いかに出席者を増やしていくかということです。<br/>
<br/>
　特に若い世代の同窓生に来てもらうには、魅力ある会合にしなければ、と幹部会では会場の選択、プログラムの内容、お料理の選定等々、頭を悩ませます。<br/>
<br/>
　会員の勧誘には直接攻撃のほか手はありません。10年以上も前のことですが、或る期のパーティーが開かれると言う噂を聞きつけると会長のお供で出掛けて行って売り込みに成功したこともあり、また、他の会合、那覇会や県人会で同窓生らしき人にアプローチして獲得したこともあります。しかし、幸運に恵まれないとなかなか難しいものです。<br/>
<br/>
　20期以降の皆様、年に一度の同窓会に出席して校歌を歌いませんか。これからも首都圏に住む若い皆様に働きかけ一人でも多く参加者が増えればと言うのが切なる願いです。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry>
    <title type="text"><![CDATA[PR: 乳幼児の誤飲防止機能を備えた、ミルトン新ボトルが登場]]></title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/470PFpSraIDm/Okm0gYfAUlKo?type=2&amp;ent=bb79e01d7b55c014a0d0d6a025e89642"/>
    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="center" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/470PFpSraIDm/Okm0gYfAUlKo?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/470PFpSraIDm/Okm0gYfAUlKo?type=3&ent=bb79e01d7b55c014a0d0d6a025e89642"/></a></td><td> &nbsp; </td><td valign="top" > 赤ちゃんとママを思って考えた工夫がいっぱいの新ボトルの紹介はコチラ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-03-01T14:06:35+09:00</created>
    <modified>2011-03-01T14:20:18+09:00</modified>
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    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　沖縄にも『結縄』があった！</title>  
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    <issued>2011-03-01T14:00:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:20:33+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
沖縄にも『結縄』があった！<br/>
　皆さん『結縄(けつじょう)』とは何のことかご存知でずか。広辞苑によると籍羅とは「太古、文字のなかった時代に縄の結び方でいろいろな意味を表し、お互いに意思を通じ、物事の記憶に役立てた。エジプト、中国、チベット、インカ、太平洋地域で人口統計、租税の記録等にも用いられ、このうちペルー、沖縄には近代まで存在した」とあります。世界的に有名な古代ペルーの結縄は「キープ」と呼ばれますが、沖縄のそれは藁算(ばらざん)と言われており昭和初期まで民具として伝承されていました。<br/>
<br/>
　この藁算を紹介する「沖縄の結縄展」が去る6月、杉並区にある女子美術大学付属高等学校・中学校で開催されました。沖縄の貴重な文化財である藁算を多くの人に知ってもらいたいと校長・継岡リツ先生が企画されました。<br/>
<br/>
　藁算の主な用途は収穫算、領収算、金銭算、戸数算などですが、結び目で会話も出来たと伝えられています。沖縄で藁算が盛んになったのは1637年の人頭税制度が導入されてからだといわれています(「琉球における算術の研究」琉大、金城松榮、小田切忠人)が、その藁算の存在が一般に紹介されたのは1885年(明治18年)植物学者の田代安定が単身、八重山諸島の博物調査をする過程で発見し「沖縄結縄考」として発刊したのが始まりでした。当時、人頭税に苦しんでいた文字や数字による記録を知らない百姓たちが役人の不正にごまかされないよう、いわゆる“生きる知恵”として生み出したものが藁算だったと、「沖縄結縄考」の著者、田代安定は指摘しています。<br/>
<br/>
　一般に藁算が廃れたのは人頭税が廃止になったからと言われていますが実際は教育の普及が原因だったといえましょう。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　初代校長高良隣徳先生とストライキ事件［１］</title>  
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    <issued>2011-03-01T13:57:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:20:50+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
初代校長高良隣徳先生とストライキ事件～母校百年の礎を築いた人々～<br/>
　二中廃校の危機に際しては職を賭して当局に立ち向かい、校長を辞した後は県会議員となって二中の那覇移転実現に文字通り命を賭けた初代校長・高良隣徳先生。“教育”に沖縄の未来を託し、その為に渾身の努力を惜しまなかった先生の足跡を辿り、その偉大なる功績に対する感謝と敬慕の証として、この拙文を捧げます。<br/>
<br/>
＊本校は新沖縄の記念物である<br/>
<br/>
　沖縄県立第二中学校の前身である「沖縄県立中学校・分校」が首里城北殿で狐々の声を上げたのは今から100年前の1910年(明治43年)のことです。<br/>
<br/>
　前年の明治42年は沖縄県に初めて他府県並みの県制が施行された年であり、その記念すべき第一回通常県議会(1909年11月)に提出された「中学校分校設置計画」に基づいて設立されたのが「沖縄県立中学校・分校」であります。<br/>
<br/>
　当時は名護に県立農学校、首里に県立中学校があったので、県会は当初から明治44年度には中頭郡内に本格的な校舎を建築し、首里城内に開校した「沖縄中学分校」を首里城内から中頭郡に移転するよう建議していました。<br/>
<br/>
　文部省告示により明治44年1月には県立中学校を沖縄県立第一中学校と改称し、同時に分校を「沖縄県立第二中学校」と命名、初代校長には分校長の高良隣徳先生が任命されました。高良校長は1872年(明治5年)、小禄村に生まれ沖縄師範、東京高等師範(現筑波大)卒業、滋賀県尋常師範学校教諭等を経て1899年(明治32年)沖縄県立中学校に転任されました。<br/>
<br/>
　県立第二中学校長になった高良先生は生徒に対して「本校は沖縄県に自治制が布かれた新沖縄の記念物である。故に本校の生徒は将来新沖縄の代表者を以て任ずる覚悟がなくてはならぬ、その責任は重かつ大なり」(『沖縄県政五十年』太田朝敷著)と常に訓戒したといいます。<br/>
<br/>
　1910(明治43)年3月に実施された第1回の入学試験は100名の募集に対し志願者557名という順風満帆の船出でした。<br/>
<br/>
　新しい中学校の敷地が中頭郡内ということは県会が当初で決定していたことでもあり、問題はありませんでしたが具体的な位置となると、首里・那覇から通学可能な浦添村の安謝橋付近というのが大方の教育関係者の予想でした。<br/>
しかし時間の経過とともに第二中学校は中頭郡の中央部にとの声が高まります。<br/>
驚いた高良校長は県当局や各地域の有力者に対し条理を尽くして安謝橋付近の正当性を訴えまずが、選定の段階になると政治的な駆け引きが介入し北谷村嘉手納に決定してしまいました。<br/>
<br/>
　この決定を聴くや、高良校長はすぐに反対運動に立ち上がります。辞表を懐に県首脳に対し、嘉手納の不適なることを執拗に訴え続けます。しかし、決定は覆ることなく、1912年(明治45年)4月、二中は首里城内の仮校舎から新築なった嘉手納に移転することになりました。<br/>
<br/>
＊打ち寄せる悲運と高良校長の辞職<br/>
<br/>
　嘉手納への移転は二中にとって決定的な打撃となり、悲運が次々と襲い掛かります。<br/>
その第1は、応募者の激減です。557名であった1年目の受験生が2年目には418名、3年目は257名となり、4年目の1913年(大正2年)嘉手納での最初の受験者はたったの105名となったのです。<br/>
<br/>
　第2は、中途退学者が急増したことです。1915年(大正4年)の第1回卒業生は入学時の100名が30人に減り、2期生は100人が13人、3期生は97人が28人、4期生は84人が19人という惨憺たる状況を呈します。<br/>
<br/>
　高良校長の危惧した事態が不幸にして的中したのです。<br/>
校長は受験生勧誘のために教職員の先頭に立って全県下を駆けずり回らなければなりませんでした。<br/>
厳しい状況が続く中で、激務と心労のため出張先の国頭で遂に病に倒れます。医師からは厳しい診断が下されました。<br/>
<br/>
　遠い国頭郡本部の病床から高良校長は生徒に対し「予は病躯を押して常娥平(※)を越え今本部にいる。発熱甚だしく、或は再び諸君に会えぬかも知れぬ。諸子は予の衷情を察し、奮励努力校名を辱しむる笏れ」(創立25周年記念誌)と悲痛なる電報を発信しています。<br/>
<br/>
(※)常娥平(じょうがひら)とは名護から本部にいたる街道(ほぼ現在の県道244号線、常娥道、門川道とも言う)にある嶮しい坂道で旅人を悩ました険路として有名、大正中期までは名護・本部間の主要道路だったといわれています。(本部町史)<br/>
<br/>
　敷地の選定など県当局の教育行政に対する強い不信と失望、更には襲い来る病への不安、心身ともに疲労困憊の高良校長は大正4年6月とうとう依願退職します。後任は大木俊九郎教諭が校長事務取り扱に任命されました。<br/>
<br/>
＊廃校問題に高良前校長立ち上がる<br/>
<br/>
　高良校長退職2ヵ月後の1915年(大正4年)8月、突如、県当局に「中等学校整理案」なる計画があり、その中身は「二中の廃校と農学校の整理」との噂がひろがります。<br/>
<br/>
二中廃校の理由と整理の中身は<br/>
(1)二中は中途退学者が多く発展の見込みがない<br/>
(2)県財政救済の一環として二中を廃校処分とする<br/>
(3)郡立(組合立)の中頭農学校と島尻農学校を廃止し、国頭(名護)の県立農学校を嘉手納の二中跡に移す<br/>
(4)二中を廃校とする代りに一中を拡充する、等々でありました。<br/>
<br/>
　激昂した高良前校長は憤然として「廃校阻止」運動を展開します。「二中不可廃諭」なる小冊子を作成して県当局の暴挙を批判し、その事を世論に訴えます。<br/>
<br/>
その諭点は<br/>
(1)各県の入口に対する中学校の数を全国平均で見ると173,000余人に1校の比率であるが、わが県は267,000人に1校の割合、仮に3校にしても178,000余人で、尚全国平均を下回っている。中学校はまだ不足であって廃止などもってのほかである。<br/>
(2)沖縄県の社会は上流と下流に二極分化しているのが現状で、特に郡部の教育水準は極端に低い状態にある。県の改革、発展のためには中流階層の構築が急務である。各字(村)に数名の中学卒業生が必要である。そのためにも第二中学校の廃止は到底是認出来ない。<br/>
<br/>
そして、小冊子は「教育は本県の未来である。我々は現在にその苦しい思いをして、望み多き未来を有したいのである」という言葉で結ばれています。<br/>
<br/>
　高良前校長の勇気ある行動が呼び水になり連日生徒大会、父兄大会、有志大会が開かれます。一方、新聞も味方し、反対の論陣を展開します。<br/>
<br/>
　琉球新報(以下、新報と表記)は、「前知事日比重明氏が平身低頭して文部大臣に二中設立を乞い、許可後2～3年して又当局者がこれを破壊するとは何の顔あって後年二中設立を乞う事が出来ようか」(大正4年9月2日)と当局者の再考を促しています。<br/>
<br/>
　高良前校長は各地の反対集会に馳せ参じて、「二中廃止不可」の諭陣を張ります。9月5日の中頭郡民大会では300余名の参加者を前に2時間余にわたって熱弁を揮います。<br/>
<br/>
　その様子を新聞は「二中前校長高良隣徳氏は先に印刷せし二中不可廃論を敷衍し二中廃止の不可を熱叫し、更に該問題に対する県会議員の大多数は廃止に反対の意向にて吾人に切実なる同情を寄せ居れば我々の運動は必勝なりと報告して拍手を浴びせられ、尚、氏は論鋒を転じて大味知事の政策を攻撃し、知事は時世後れの政治家にして且つ本県を全く植民地扱いせんとしつつあり」(新報、9月7日)と先生の獅子奮迅の活躍をつぶさに伝えています。<br/>
<br/>
＊廃止諭消えて併置論浮上す<br/>
<br/>
　圧倒的な世諭の反対に会い、県当局は二中の廃校案は引っ込めますが、一転して“二中の縮小と中農併置”を「中学校整理案」に盛り込み、1915年(大正4年)9月11日の県議会に上程しました。<br/>
<br/>
その内容は<br/>
(1)二中の定員400名を250名に減じ、代わりに一中の定員600名を800名に増加する<br/>
(2)農学校については島尻、中頭の組合立(群立)を廃止して県立1校にまとめる。そして定員200名を300名に増加し、名護から嘉手納の二中の構内に移す、と言うもので、いわゆる「中農併置案」の登場でした。<br/>
<br/>
　廃校の危機は脱したものの、「生徒の定員及び教諭の削減」その上「中農併置」という二中にとって屈辱的なこの「整理案」は到底受入れ難いものでした。<br/>
<br/>
　二中間題が討議される県議会の当日(9月20日)、高良前校長は定刻の2時間も前から傍聴席に陣取り、議会の成り行きを注視していました。<br/>
しかし、「中学校整理案」は紛糾するどころか、ほとんど議諭らしい議諭もなく当局原案のまま通過してしまいます。<br/>
<br/>
　当局案に対する各郡の議員の意見は以下の通りでした。<br/>
島尻都は、二中を那覇に移転し、農学校を嘉手納に移した後、時機を見て国頭に中学の分校を設立する、という“中農分離説”。<br/>
中頭郡は農学校を名護から嘉手納に移し、二中もそのまま嘉手納に残すという“中農併置説”。<br/>
一方、どうしても中学校を誘致したい国頭郡は当初、島尻案に賛同する構えでしたが、それを見た中頭郡が急遽「早い時期に国頭に中学の分校を設立する」という条項を付加した為、国頭が島尻案から中頭案に乗り換えてしまいます。<br/>
蓋を開けてみると大味知事の個別切り崩しに会い、結局全会一致で可決されたのです。<br/>
二中の敷地が嘉手納に決定したとき同様、純粋に教育的見地からの議論はほとんどなされず、政治的駆引きと地域エゴが優先される結果となりました。
        ]]></content> 
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  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　初代校長高良隣徳先生とストライキ事件［２］</title>  
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    <issued>2011-03-01T13:45:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:21:03+09:00</modified>  
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      <name>k-jogaku</name> 
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
＊中農併置で爆発した二中生の怒り<br/>
<br/>
　あれほど全県下の注目を集めた「中学校整理案」でしたが大きな波乱もなく県議会を通過し、翌1916年(大正5年)4月より 「中農併置」が実現することになりました。<br/>
<br/>
　校長には沖縄県の事情に疎い山梨県立都留中学校長寺尾熊三が沖縄県立農学校長兼第二中学校長として赴任して来ました。<br/>
新学期を迎え、いざ中農併置がスタートすると二中にとって耐え難い事態が続発します。同一敷地内に二つの学校が存在するという単純なものではありませんでした。<br/>
<br/>
　創立25周年記念誌は「かくて二中は廃校の悲運を免れたが昔日の面影なく、農学校に庇を貸して母屋をとられた形となり、専任の校長を置かれずして農学校より兼務の校長を戴き、その他職員も多数農学校より兼務せしため授業意の如くならず、二中の職員生徒は孤城落日の感に打たれた」と憤懣やる方ない思いを吐露しています。<br/>
削減された二中の教諭の替わりを農学校教諭が兼務したのですが、地歴の先生が国漢を教え、図画の先生が地理を受持つという酷いものだったと言います。<br/>
<br/>
　当時3年生だった松田昌嘉氏(5期)は創立55周年記念誌に「広かったグラウンドは見る間に開墾され農場に変わった。歯ぎしりした私たちは夜中に寄宿舎を抜け出て開墾したこの畑を靴で散々踏みならし、石で固めて元のグラウンドにした。翌日は農学校側が固めたグラウンドをまた掘り返して農場にした。開墾と地ならしのシーソーゲームだった」と述懐しています。<br/>
<br/>
　中学校と農学校とでは教育目的、学科、訓練の仕方など異質な面が多く、些細なことから感情的もつれが起きることは予想されたことで、両校生徒の間には、すでに一触即発の危機が迫っていました。<br/>
<br/>
　果たせるかな、中農併置から1ヶ月後の1916年(大正5年)5月12日、二中の全校生徒が農学校の寄宿舎を襲撃するという事件が勃発します。<br/>
<br/>
＊ストライキの勃発とその背景<br/>
<br/>
　襲撃の直接の原因は特定できませんが、中農併置以来の農校生に対する憤懣が蓄積されていたこと、加えて、これまで寺尾校長に対し舎監を通じて4月上旬と5月5日の2度に亘り要望書を提出、その改善を請願したにも拘らず、その都度、体よくあしらわれたことが二中生にとって、校長は権力側であり、最早当てには出来ない、斯くなる上は実力行使に訴えるほか問題解決の道は無いとの思いに追い込まれていたのです。<br/>
<br/>
　4月上旬の校長に対する最初の要望は、農校生が「煙草を吸う」「俗歌を唄う」「土足で寮に入る」「下着姿で食堂にくる」など、ほとんどが規律に関するものでした。<br/>
これに対する校長の答えは「諸君の満足行く解決はすぐには無理だが、漸次農校生の習慣及び風紀を正すように極力意を尽くすから、事を荒立てないでくれ」と言うものでした。<br/>
<br/>
　問題改善に具体的な動きの無いのを見た二中生の要望は次第に問題の根幹にふれるもの、つまり「中農分離」の方向に傾斜していきます。そして5月5日、再び校長に要望書を突きっけます。<br/>
その要望事項は<br/>
①農校生徒と炊事を別にする、同時に寮の会計も別々にする<br/>
②二中生の寮室を広くする、そのために農具置き場に使用している寮室を二中生に開放する<br/>
③農学校兼務の教諭を廃し、専任教諭を当てる、と言うものです。<br/>
<br/>
　①の背景には、中農併置以前は寮の残飯を売却して月約7円の収入があり、その積立金が80円余になっていたのが、農学校と炊事を共同にしてからは、その残飯収入がなくなったのです。それは農校生が二中生より大食漢で残飯が出なくなったからで、同額の食費を払っている二中生にとっては大きな不満でした。<br/>
<br/>
　②の寮の部屋を広くすること、とは、これまで寮の10畳の部屋32室を二中が独占していましたが、農学校との併置でその中の20室(内4室が農具置場、1室は舎監室)を農学校に明け渡したため、二中生が使用できるのは12室に減り、しかも1室当たりの人数は農学校の3～4人に対し二中は5人、それでは狭すぎで勉強が出来ない故、農具置場に使用している部屋を返してもらいたい、と言うものです。<br/>
<br/>
＊騒乱を誘発した校長の対応<br/>
<br/>
　これに対する寺尾校長の答えは「農具室の件は追々適当の方法を講ずべきも、その他の希望条件に就いては今の所容認あたする能わず」(琉球新報、5月18日)と冷たいものでした。<br/>
<br/>
　校長の態度に業を煮やした寮生は9名の室長を代表に選び「中農併置」についての校長の意見を直接糺さんものと校長室を訪れたのが暴動の起きた5月12日のことでした。<br/>
<br/>
　丁度そこに、二中生に不穏な動きがあるとの情執を得て県学務課の渡辺視学官が駆けつけ、校長と二人で生徒代表の説得にかかりますが、彼等は聞き入れません。校長の返事次第では退学をも辞さずと全二中生が校庭で待機しているからです。<br/>
<br/>
　校長は「併置の是非にかかわる問題は二校の根本の間題であるから、今騒ぐのは徒労である。今しばらく時機を待て」と明確な回答をさけ、引き伸ばしにかかります。<br/>
渡辺視学官は「校長も既に適当の方法を講じていると言っているのだから、生徒である君達は大人しく引下るのが筋ではないか」との高圧的態度に生徒が激昂し全く収拾がっきません。<br/>
<br/>
　延々と続く校長室の談判に我慢できず、校庭で待機していた二中生が校長室の9名の代表を引き上げさせ、農学校の寄宿舎を襲撃、硝子窓や机などを壊し、一部の農校生を襲うという暴挙に出ます。<br/>
暴動が収まったのは渡辺視学官が「中農併置問題に関する二中生の意見(分離論)を新任の鈴木知事に伝える」ことを約束した午後11時過ぎのことでした。<br/>
これが所謂、二中ストライキ事件、直接の原因でした。<br/>
<br/>
＊全寮生、荷物を纏めて帰郷す<br/>
<br/>
　5月15日の新報は「二中騒擾事件」と題する社説で二中生の心情を的確に言い当てています。<br/>
「尤も二中生より見れば、この学校は自家の創設したる学校なり、校内の一木一草にも愛着の念を注ぎ、職員生徒こころを合わせて外観内容の完成を期したるならん。然かも昨秋に至りて突然一大動揺を余儀なくせられ、爾来、校長去り、同輩減じ、校舎と寄宿舎は農学校に割かれ、主客殆ど転倒の状を呈するに至りては青年の活気尋常の忍耐を以て忍ぶ能はざるものあらん」(5月15日)と。<br/>
<br/>
　二中生の暴発に対し一部には批判の声も上がりますが、これに対しても新報は5月16日の社説で「種々の点において或は農学校が主にして二中がこれに寄生せる観なきか、理屈を言えば如何様にも申訳は立つべけれども生徒の脳底に潜める不満の感情は到底百の理屈、千の条理を以てするも之を緩和するの道はなかるべし」と、県当局の重農軽中の政策が紛争の最大原因であることを指摘しています。<br/>
<br/>
　就任間もない寺尾校長は事の成り行きに動転し、父兄会に対して生徒の説得を要請します。父兄会は収拾策として<br/>
①「専任教諭」を配置し満足できる教育をする<br/>
②臨時の県議会の開催を促し「中農分離」についての検討を要請する<br/>
③当事件に関する生徒の処分は行わない<br/>
④父兄は、登校ずるよう生徒を説得する<br/>
等を決め、①～③については校長に善処するよう要請し、父兄は生徒の説得を約束しました。<br/>
騒乱の発生と同時に両校生徒は荷物をまとめて寄宿舎を引き上げたため、学校は自然休校の形に襟っていたからです。<br/>
<br/>
＊突如罷免された大味知事<br/>
<br/>
　一部の父兄はこれだけでは治まらず更に以下のような質問状を校長に突きつけます。<br/>
<br/>
①大味知事が3月下旬、落第の可能性のある生徒に対し「農学校への転校を受け入れれば及第証明を与える」とし、その勧誘を青木教頭にさせたというのは事実か。<br/>
②寺尾校長が沖縄赴任の途中、文部省で見た「沖縄県が提出した設計図と現実とが異なっている」と言うのは事実か。(提出書類には同一校舎、同一寄宿舎は使用しないと明記していたと言う)。<br/>
<br/>
　何故、大味知事はこのような無謀とも言える「中農併置」を実行したのか判然としませんが、前掲の『沖縄県攻五十年』は「当時誇大妄想狂といわれた大味知事の、県の実情を無視した独断的の植民地政策を夢想した結果たるに過ぎない」と厳しく批判しています。<br/>
<br/>
　大味知事は中農併置がスタートした直後の大正5年4月28日突如、罷免されます。彼の無鉄砲ぶりがよほど目に余る<br/>
ものだったからだと言われています。<br/>
<br/>
　二中生の騒乱は大味知事更迭直後に起きました。問題の種をまいた張本人は既に去り、事情を知らない新しい知事の赴任がこの間題を一層、混乱させたのです。<br/>
<br/>
＊勢い増す中農分離論とストの終息<br/>
<br/>
　ストライキを契機に世上では「中農分離諭」が俄かに勢いを増すことになります。<br/>
新報も5月15日のコラム欄で中農問題を取り上げ「当局はどう始末をつけるか。鈴木知事新任早々の難題で誠にお気の毒だが、仕方ない。しかし、これが始末は極めて簡単なもので中農を分離するか、どちらか一方を潰すか、の二つに一つだ。ところが、今の情勢上、中学を減ずると言うのは決して許さない。そうかと言って一つしかない農学校も廃する訳にいかないとあれば、残るは分離間題だが、中学をそのままにして、農学校を移すか、農学校を嘉手納において中学を移すか。県の経済上より言えば農学校を移すのが至当だし、中学志望者の状況より考えれば中学校を移すのが利益だ」と問題の要点を的確に指摘しています。<br/>
<br/>
　これまで高良前校長や父兄会が訴え続けてきた「分離」こそが、紛糾した中農問題を解決する鍵であるという認識が一般にも浸透していきます。<br/>
<br/>
　学校(寺尾校長)と県当局は終始二中生に厳しい態度で臨みます。5月20日学校と県当局が出した収拾案は<br/>
①二中の全生徒を5日間の停学処分とし5月25日より授業を開始する<br/>
②二中生は農校生に謝罪する<br/>
③中農分離間題は父兄会が県当局と県会に働きかける、従って、この間題は父兄に任せて生徒は学業に専念せよ、と言うものです。<br/>
<br/>
　二中生はその条件を受け入れ5月12日以降休校中だった学校は農学校が20日より、二中は5日間停学のため25日より授業が再開されることになりました。
        ]]></content> 
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    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　初代校長高良隣徳先生とストライキ事件［３］</title>  
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    <issued>2011-03-01T13:24:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:21:15+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
＊再び起きたストライキとその原因<br/>
<br/>
　しかし、学園の平穏は一月と続きませんでした。<br/>
6月25日には再び問題が起きます。夜9時50分頃、二中の寄宿舎に何者かが投石すると言う事件が発生したのです。二中生が農校生だと騒ぎ出したのを舎監が鎮めようと努めますが、激昂した生徒は納得せず校長宅にまで押しかけたのです。そこで学校は26日、室長17名に退舎を命じ、27目には主謀者と目される9名に無期停学を命じました。<br/>
<br/>
　9名の無期停学処分を不服とした二中生は彼らが復学するまではと同盟休校を決議し、再びストライキに突入します。これが第二次ストライキ事件の発端でした。<br/>
<br/>
　第二次ストライキの直接の原因は投石事件ですが、その背景には「中農分離間題」の継続審議を約束した県当局や県議会がお互い責任の擦り合いをするばかりで、生徒や父兄の要望に真剣に取り組む姿勢が見えなかったからです。<br/>
<br/>
　県議会側は「中農併置問題」は元来、県庁が議会に上程したものであり、これに議会が協賛したまでの話で、責任はあくまでも県当局にある。だから、対応策を県当局が策定し議会に提案すれば、議会はそれに協賛するまでの話だと言い、県当局は「中農併置」は県当局が上程したとはいえ議会が議決した事案であり、県当局としては、別に分離案を提出する必要は認めない。必要であれば県議会が議案を上程して審議すればよい、と全く平行線をたどります。<br/>
一方、鈴木知事は着任早々で事情が良く分らないと言うこともありますが、前任者の施策を掌返すように扱うのには聊か抵抗があり動きづらい云々、と三者三様、お互い面子に拘り、三竦み状態のまま解決の目途が全く立たない事への苛立ちが第二次騒乱事件の本当の原因でした。<br/>
<br/>
　8月下旬、校長は父兄に対し「生徒が非を悔改め、今後、学園内の平和を乱さないと約束するなら特に停学処分を解除するから来る9月10日に生徒同伴で登校するよう」通告を出します。<br/>
<br/>
　ところが、父兄会は中農分離間題が何の進展もない「現状のままで強いて登校させると将来再び騒乱を起こす可能性がる。善後策がまとまるまで登校を見合わせことにする」と登校拒否の回答を学校(校長)に送り、「善後策」の模索に取り掛かります。新聞は「今や二中は父兄のストライキに逢えるの観を呈するに至れり」(新報9月6日)と揶揄したほどでした。<br/>
<br/>
　学校当局は同盟休校で帰静した生徒のうち病気や休学中で騒乱事件に参加しなかった15人を除く198人全員を無期停学処分とし、県当局は二中を臨時休校という名目で閉鎖していました。<br/>
<br/>
＊事態収拾についての議論高まる<br/>
<br/>
　新報は9月6日 「二中の善後策」と題する社説で、父兄が子弟を説得するどころか、一緒になって分離論を主張する事態に至った今日、いたずらに解決を引き延ばすのは得策ではないと述べ、目先の救済策として先ず校長と教諭を専任にし、寄宿舎を完全に分離し、当分の間は嘉手納での分離運営を提案したあとに 「尤も上述の如き応急手当なるものは一種の彌縫策に過ぎずして単にこれを以て本間題の解決を根本的に円満ならしむることは無諭不可能の事に属すれど、現に逆境に陥りつつ、且つ永遠に取り返す可からざる多大なる損失を蒙らんとする230余の生徒を救う上より考うれば、たとえ一時的にせよその効果決して小なりと言う可からず」と応急措置の重要性を強調しています。<br/>
<br/>
　こうした世論の後押しを受け父兄会の活動も活発になります。1916年(大正5年)9月17日、奥武山で父兄会主催の有志大会を開催し以下のことを決議します。「将来の分離が前提であるが、応急措置として、校長および教諭を専任とする、更に寄宿舎を独立して、会計も別にする」という、「妥協案」をまとめ、その足で父兄代表が県庁を訪れ当間題の責任者である島内内務部長に面会を求め、上記の案を12月の通常県会に上程するよう要請します。内務部長からは「この案で纏めるべく早速、県議会や学校(長)と話し合う」との約束を取り付け、父兄側は子弟を速やかに登校させることを約束しました。<br/>
<br/>
　泥沼状態のストライキ事件もこれで1件落着と安堵し、学校からの連絡を待ったのですが、一向に通知が届きません。原因は父兄の一人が勝手に父兄代表を自称し、校長に面会を求めて、①兼任の校長と教諭を廃止し、専任とする、②寄宿舎を分離する、の二点を父兄会と県当局で決定したので、しかるべく手続きを願いたい、と申し入れていたことが判明しました。<br/>
校長が「私は県当局から未だ何の相談にも預かっていない。これまでの経緯から見て簡単に登校通知を出すことは考えられない」と態度を硬化させたのです。問題解決までになお3週間もの時間を要することになりました。<br/>
<br/>
　紆余曲折を経て10月9日、全員停学処分を解かれ6ヶ月に及んだストライキも漸く解決に至りました。<br/>
大味知事が去った後、県との関係がギクシャクした寺尾熊三校長はIO月5日依願退職し、10日には帰郷の途につきます。僅か7ヶ月の在職でした。<br/>
後任は県の学務課長川部佑吉が校長事務取扱を命じられ、翌1917年(大正6年)4月からは一中教諭清水駿太郎が二中の専任校長となったのでした。<br/>
<br/>
＊前校長県議会で完全分離訴える<br/>
<br/>
　高良前校長は大正5年6月の県会議員の島尻郡補欠選挙に立侯補して見事当選を果たしますが「その転身が実は志喜屋先生の嘆願と説得が動機だった」と“写真が語る88年”は伝えています。<br/>
<br/>
　県会議員となった高良前校長は12月の通常県議会で早速、県当局に質間の矢を放ちます。「当局は大正7年度より中農を分離する意思があるのか」と糾し、返す刀で中農併置の不合難について約50分にわたる演説を行います。<br/>
<br/>
　12月5日の新報に掲載された高良議員の発言内容は「中農学校紛擾については当時の県会議長及び議員等も少なからず憂慮し、嘗て議員等は集会をなして善後策を講ぜしことありと雖も何ら纏らず、新知事赴任後に至りて父兄及び有志の意見を建議せしも遂に不得要領に了れり。果然(予想通り)二度目の紛擾となり10月9日まで休校の巳むなきに至れり。しかも予は生徒にのみ同情せず、生徒の本分を忘れし者は断固たる処置を執るべきなるも、鈴木知事が中農問題に対する演説の極めて判然せざりし為、予は私に迷い居るなり。されば茲に所信を述べて判然たる返答を求めたし」と、これまでの県当局、県議会を痛烈に批判し、中農併置が教育上不合理であることを詳細に説いたのです。<br/>
その様子を「流石に多年教育界に携わりし入だけに其の説くところ一々事実を根拠として少しの駄弁を交えず、よく長時間の演説に聴衆を議かしめざりき」と熱弁振りを紹介しています。<br/>
<br/>
＊那覇移転案・遂に可決される<br/>
<br/>
　5ケ月に亘るストライキも嘉手納における中農分離で一先ず収束しましたが、究極の解決策である完全分離に向けて高良前校長の活動はなお続きます。<br/>
先生は「一県の首都でありながら中学校が一校もないとは、決して文化都市とは言えない」と那覇の有力なオピニオンリーダーや主だった県会議員に二中の那覇移転に賛同するよう強力に働きかけます。その一方で生徒とも共同作戦を展開し多数派工作を着々と進めて行ったのです。<br/>
<br/>
　事件当時、最上級生で無期停学処分にもなった幸地新松さん(3期)は先生に励まされながら有力者の署名をもらいに奔走したことを創立55周年記念誌に披露しています。<br/>
<br/>
　県当局も中農併置の弊害と二中の位置の不適切であることを認め1917年(大正6年)12月の通常県会に「中農分離と二中の那覇移転案」を提出します。結果は15対13の僅差での可決でした。<br/>
<br/>
　この「二中那覇移転案」が可決された県議会の議長が高良前校長だったという事実に我々は運命的な感動を覚えずには居れません。<br/>
<br/>
　2年後の1919年(大正8年)3月、新校舎の一部落成と同時に念願の那覇市郊外の城岳山麓への移転が実現します。高良隣徳前校長は二中の移転を見届け、安心したかのように1月後の4月24日、47歳の若さで黄泉の国に旅立たれました。文字通り二中に捧げた生涯だったと言えましょう。<br/>
<br/>
(文責：那高8期、真栄田修)<br/>
<参考資料><br/>
「琉球新報記事(大正4～5年)」<br/>
「創立25周年記念誌」創立55周年記念誌<br/>
「写真が語る88年“城岳”」<br/>
「沖縄県政五十年」太田朝敷著<br/>
「近代沖縄の歩み・歴史編」琉球新報社編
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　☆母校便り☆</title>  
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    <issued>2011-02-28T17:32:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:21:29+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
☆☆☆母校便り☆☆☆<br/>
今年の卒業生（482名63期）は昨年の実績とほぼ同等の成績を収め、多くの生徒が国公立大学現役合格を果たしている。100周年記念事業での人材育成事業の取り組みや、進路部を中心とした指導体制が整いつつあることが功を奏していると考えられる。<br/>
<br/>
＜大学合格＞　※現役合格率 74.4%<br/>
国公立大学　　78名（県内：68名）<br/>
私立大学　　244名（県内：157名）<br/>
短期大学　　16名（県内：12名）<br/>
専門学校　　92名（県内：73名）<br/>
文部省管轄外大学校　　4名<br/>
国外大学　1名<br/>
その他　　6名（高校専攻科等）<br/>
<br/>
＜就職状況＞　※就職率 100%<br/>
県内　3名　 県外　2名  
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第11号】　☆同窓会が運営する人材育成事業☆</title>  
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    <issued>2011-02-28T17:21:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-03-01T14:21:40+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
☆☆☆同窓会が運営する人材育成事業☆☆☆<br/>
城岳同窓会では、在校生の国際感覚を養う教育事業を支援する海外留学制度を設けています、毎年1名1年間の留学をサポートしています。<br/>
<br/>
平成22年皮の受給者は 伊良皆潤さん（3年）（アメリカ留学）<br/>
<br/>
＜A氏奨学金制度＞<br/>
平成19年12月に、ある同窓生から1億円の奨学金寄付の申し込みがあり、理事会において奨学金規定を定め平成21年3月より募集を開始した。その方の希望により名前を公表せず匿名を表す「A氏」を冠するものとなった。<br/>
<br/>
＊奨学金は一人当たり、県内は月額20,000円（年額240,000円）<br/>
　　　　　　　　　　　　　　　県外は月額40,000円（年額480,000円）<br/>
＊給与期間は、奨学金を受けて1年とする。<br/>
＊奨学生の人数は、予算の範囲内で決める。（3～4名）<br/>
<br/>
平成22年度の受給者は上原千恵さん（日本大学芸術学部放送学科）<br/>
　　　　　　　　　　　　　　　金城裕司さん（沖縄国際大学総合文化学部英米言語文化學科）
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第９号】　島唄･城岳旅行会　島唄同好会世話役　那覇高8期　長嶺紀晃</title>  
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    <issued>2011-02-09T14:33:30+09:00</issued>  
    <modified>2011-02-09T14:33:29+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
　島唄同好会が活動を開始して、早や6年が経ちました。<br/>
<br/>
　五反田の“結いま一る”を会場に沖縄式ランチフルコース付の“大いに語り、かつ歌う集い”として定着し、奇数月の第2目曜日に例会を開催しています。<br/>
<br/>
　回を追う毎に会員の親睦も深まり、今や昔の大家族的雰囲気の会にまとまりつつあります。<br/>
二中のパワフルなシニア達は、「定例の3時間では物足りない、たまには大家族を一晩続けたい」との熱い想いを表明されておりました。その思いに背中を押され、爺ちゃん孝行にと、5月の11,12日に熱海旅行を企画･実施しました。<br/>
<br/>
　“大家族的集い”は沖縄の門中とご理解ください。“個”が益々顕著になり、企業でも、地域でも“共同”や“集団”としての一体感が失われつつある今日です。島唄･城岳旅行会で暫し“門中”の絆を取り戻してみませんか。<br/>
<br/>
　今後、旅行会を年に一回開催したいと思っています。“結いま一る”での例会を含め、皆様の参加を歓迎します。
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>【関東城岳同窓会会報　第９号】　城岳同窓会懇親会記念誌より</title>  
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    <issued>2011-02-09T14:31:56+09:00</issued>  
    <modified>2011-02-09T14:31:57+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
能ある鷹は爪隠す･･二中29期･北村紀雄君のこと<br/>
<br/>
　「ノリオ！お前は遊んでばかりいると思ったのに…実力があるんだなー」。戦前全県下中学生対象の模擬試験で成績上位5名の中に見事に入った北村紀雄君に向けた2期先輩の感嘆の叫び声である。同期の私の回想でも、紀雄君は学内で休み時間にきまって校庭の隅の塀を乗り越えてあん餅を買い求め、塀内で待ち受ける悪友どもにポンと投げ渡し共々にうまそうに食べながら談笑していた光景が思い浮かぶ。<br/>
<br/>
　戦前生徒達は買い食いとか、一人で映画館に入るとか、町廻い(マチマー)とかは厳に禁じられており、それに反する行動は不良のイメージが強かった。<br/>
紀雄君は品行方正のガリ勉タイプには程遠い感じであり、むしろ同期生の柔道の猛者共の稽古台を買って出るなど男同士の肌と肌の触れ合いを通じて多くの友人との絆を深め、時には他校との小競り含いで先頭に立つなど果敢な少年だったのである。<br/>
<br/>
　同期の私が紀雄君の生い立ちを知ったのは、ずっと後のことである。<br/>
彼は1932年(昭和7年)、母や兄と共に先に単身赴任していた父の下に兵庫県北部の日高町から沖縄へ渡ったとのこと。彼が7歳の時になるが、尊父秀一様(戦前、沖縄農事試験場長、東大･農卒)と尊母栞様(旧東京女高師、現お茶の水女子大卒)共々子供の教育に熱心であった。当時最も優れた小学校と定評があった甲辰小学校に行かせるべく、官舎に入らず、わざわざ近くの借家へ入ったという孟母の教えを実践に移された。<br/>
<br/>
　昭和10年前後から、甲辰→二中は秀才コースといわれ、先生に「二中は無理だ」と言われた者が一中に行ったものだと大先輩の白慢話が伝えられている。<br/>
<br/>
　二中に進学した彼は生意気(ナマチャー)の中学生を演じていたが、実は密かに本を詠みすぎる程の勉強家だったのである。その為、近眼になって、憧れていた海兵を断念し当時難関校といわれた海軍経理学校へ沖縄から初めて入る実力ぶりを発揮した。彼の話によれば、二中時代に柔道や町廻いで鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳等激しい訓練も何のそのだったようだ。<br/>
<br/>
　しかし、残念ながら敗戦によって多くの若者の夢が途絶したのであるが、彼は向学の志もだし難く東京商科大学(現一橋大)に入り直して勉学一途に励んだ。卒後の彼は日銀検査役、山種証券専務等を歴任、着実に人生を歩んできた。<br/>
<br/>
　二中29期生は今や82歳の高齢となっているが、沖縄の各界各層で活躍した者、更に活躍中の者など多くの優れた人材が輩出し、また本士在住でも紀雄君のように現に公認会計士の業務に携わり、矍鑠(かくしゃく)としている者もいる事は関東城岳同窓会の誇りとするところである。<br/>
<br/>
　「能ある鷹は爪隠す」は、ウチナーでは“隠れ武士小(ブシグァー)”とも言った。昔、佐賀藩で武土の心構えを説いたといわれる「葉隠」にならったものであろうか。北村紀雄君のイメージにピッタリという感がする。<br/>
(紹介文:二中29期･小宮永史)<br/>
【北村紀雄、二中29期】<br/>
大正15年生。昭和18年二中卒業後、海軍経理学校、東京商科大学(現一橋大)で学び、昭和50年日本銀行福島支店長、52年同検査役、59年山種証券専務取締役、平成7年公認会計士、税理士。
        ]]></content> 
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    <title>【関東城岳同窓会会報　第９号】　校史探訪　裸電球に賭けた青春　･･･那覇高等学校“定時制”物語･･･</title>  
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    <issued>2011-02-09T14:20:55+09:00</issued>  
    <modified>2011-02-09T14:20:56+09:00</modified>  
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    <dc:subject>同窓会報一覧</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
かつて、わが母校、那覇高校にも“定時制課程”があった。戦争や戦後の混乱で勉学の機会を奪われた意欲ある勤労青少年が、失った夢を取り戻-すべく、日々の生活苦と闘いながらも貪欲に勉学に取り組んでいた。以下は草創期の定時制高校の若者たちの奮闘の物語である。<br/>
<br/>
［１］「定時制」那覇高校の誕生<br/>
<br/>
＊恵まれない勤労青少年の為に＊<br/>
<br/>
　「教育の機会均等」の精神に則り、向学心に燃える勤労青少年のために、昭和27年8月28日、琉球政府中央教育委員会は「定時制那覇高等学校」の設立を認可した。校長は阿波根直成那覇高等学校長が兼任し、専任講師1人、非常勤講師11人の陣容でのスタートだった。<br/>
<br/>
　第一期生は男子113名、女子27名、合計140名が合格、10月1日、午後6時より入学式が執り行われた。<br/>
<br/>
　敗戦から7年、未だ社会は混乱のさなかにあり、生徒の大半は家庭的にも経済的にも恵まれない者が多かった。年齢も大正生まれの30歳代半ばの生徒を筆頭に中学卒業したての生徒にいたるまで様々であり、職業も千差万別であった。<br/>
<br/>
＊学校創立は歴史的な年だった＊<br/>
<br/>
　定時制那覇高騒校の設立した昭和27年は沖縄にとっても歴史的な年であった。<br/>
<br/>
　4月に「サンフランシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」が発効し、日本に潜在主権を残したままとは言え、沖縄が実質的に日本から切り離された年であり、同じく4月、これまでの群島政府を統合した「琉球政府」が設立され、立法、行攻、司法の三権が確立した年である。更に、11月には、米軍の強制的な士地収用の引き金に栓った「軍用地の契約権について」(※)が公布された年である。<br/>
<br/>
(※)米軍が接収した土地の賃貸契約を結ぶため「軍用地の契約権について」を公布したが、使用料の安さから9割以上の地主が拒否したため、翌28年3月に「土地収用令」を公布して軍用地に必要な土地は地主の意思にかかわらず強制収用することが出来るようにしたのである。<br/>
<br/>
　昭和27年10月創立した「“定時制”那覇高等学校」は昭和58年4月、定時制の「独立校制度」廃止に伴い「那覇高等学校“定時制課程”」と改組され、以後、昭和55年3月、定時制課程が廃止されるまで那覇高校は「全目制」と「定時制」を併せ持っ高校となったのである。<br/>
<br/>
＊問題を抱えた船出＊<br/>
<br/>
　“定時制”那覇高校は設立当初から大きな問題を抱えての船出であった。入学式を10月1日にという文教局からの指示がそれである。<br/>
<br/>
　定時制の初代主事(教頭)の嘉手納宗徳先生(二中18期)は“定時制廃課程記念誌”(以下「記念誌」と記す)に「何事も中途半端ということはいけない。･･･10月1目に入学し、9月22日に卒業するなんて中途半端の最たるものと言ってよいだろう。このことは主管局の文教局にとっては何等の痛痒も感ぜず、ただ学校をスタートさせ、それをゴールインさせたというぐらいの、出来た出来たの目出度い程度のことであったろう。しかし、現場の教員や生徒にとっては、えらい迷惑なことであった」と当時の心境を吐露している。<br/>
<br/>
　就職試験にしろ、大学入試にしろ、すべてが3月卒業を前提に日程が組まれている。9月卒業では、まさに“中途半端”そのものだ。<br/>
<br/>
　嘉手納先生は3月卒業を実現させるための策を練ることにした。勿論、生徒たちも3月の卒業を熱望していた。<br/>
<br/>
　熟考の末に出した結論は「3年間の夏休みをつぶして授業を行う」というものだった。そうすれば必要な“授業日数”と“単位”を確保する事ができる。<br/>
嘉手納先生は早速、教職員の諒解を取り付け、校長の許可も得て、更に文教局の内諾も取って、この計画を実行に移した。<br/>
<br/>
＊捨てる神あれば＊<br/>
<br/>
　しかし、ことは単純には運ばなかった。嘉手納先生の手記は「こうして猛暑にもめげず無理に無理を重ね、やっと1956年(昭和31年)の3月には所定の単位を修得することが出来た。どの生徒も喜びをかみしめて卒業の日を待った」。<br/>
<br/>
　「ところが文教局から3月の卒業はまかりならぬとの通達が来た。計画の初期だったらいざ知らず、ここまで来て差し止めるとは何事だとねじ込んだ。これより先、全日制のある高校が全く同じ条件で開校し2年半で卒業させた例もあったので、これらの資料をひっさげて抗議に行ったが、当局は“文部省の意向”の一点張りで頑として受け付けなかった。行政分離されている沖縄で“何を”と思ったがどうにもならなかった…」と嘆く。<br/>
<br/>
　仕方なく卒業式だけは文教局の指示通り9月に挙行することにした。だが学校当局としては教職員、生徒たちのこれまでの努力に報いるためにも、3月末時点の全課程の単位修得を認め、事実上の卒業としたのである。<br/>
働きながら学ぶ勤労学徒達が3年間の夏休みを犠牲にしてまで頑張ったことに対する文教局の対応は冷たいものだった。<br/>
当時は行政府も揺藍期であったことが、このような不幸な結末を招くことになったのかもしれない。<br/>
<br/>
　しかし、幸いにも本土の私大は単位の修得を認めて受験資格を与えてくれたし、県内の企業も卒業扱いとし採用してくれた。<br/>
 “捨てる神あれば、拾う神あり”とはこのようなことを言うのだろう。<br/>
<br/>
　2期生以降の入学は通常通り4月に変更されたので、「10月入学問題」は1期生限りで解決したのである。
        ]]></content> 
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