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    <title>SPORE EDITOR'S DAYS</title>  
    <link>http://spore.exblog.jp</link>  
    <description>sporeスタッフの日々の活動について</description>  
    <dc:language>ja</dc:language>  
    <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
    <dc:rights>Copyright 2007</dc:rights>  
    <pubDate>Wed, 24 Jan 2007 16:12:27 +0900</pubDate>  
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      <title>SPORE EDITOR'S DAYS</title>  
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      <description>sporeスタッフの日々の活動について</description> 
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      <title>ブログ引越ししました</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6382314/</link>  
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      <description><![CDATA[<p>
  
sporeでは今まで「spore Editor's Days]という形でブログを更新してきましたが、今回ブログのコンテンツを追加することにしました。今までレビューや編集部の情報を同一のブログで展開してきましたが、これからは以下の3つのブログに分けてそれぞれ更新を行っていきます！<br/>
<br/>
[spore MASH UP!]<br/>
http://www.spor-e.com/review/<br/>
映画、小説、写真、コミック、詩、音楽、食等のジャンルレスなレビュー。<br/>
<br/>
[Neighbor's Talking]<br/>
http://www.spor-e.com/essay/<br/>
日常の些細な物語をカットアップしたようなエッセイ。<br/>
<br/>
[FROM EDITORS]<br/>
http://www.spor-e.com/editors/<br/>
spore編集部からのお知らせ。<br/>
<br/>
[ブログページ]<br/>
http://www.spor-e.com/blog.html<br/>
<br/>
･･･という感じでやっていきたいと考えております。特に[spore MASH UP!]、[Neighbor's Talking]においては書いて頂ける方を募集しております（ボランティアになってしまいますが）。一つの記事でだいたい1,600～2,000文字ぐらいを想定しています。投稿を希望される方は件名を「sporeブログ投稿」とお書きになって、info@spor-e.comまでメールにてご応募ください。<br/>
<br/>
という訳でブックマークの変更をよろしくお願いします。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>未分類</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Wed, 24 Jan 2007 16:12:27 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>spore Vol.4 Release Party</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6269520/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/6269520/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
少しタイミング的に遅れてしまいましたが、お恥ずかしながらsporeで4号の出版記念パーティを行うことになりました。場所は渋谷で来年の1月6日の晩を予定しております。ちょっとした新年会みたいな感じでできればと考えております。もしご都合よろしければ是非お越し下さい。当日の場所は下記になります。<br/>
<br/>
◆日時：2007年1月6日18:00～23:00 <br/>
◆場所：カフェ「スタジオ」 <br/>
　　　　TEL/FAX：03-3370-7723 <br/>
　　　　東京都渋谷区宇田川町36-3 <br/>
　　　　渋谷営和ビル5F <br/>
<br/>
＜地図＞ <br/>
http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%B1%A7%C5%C4%C0%EE%C4%AE36-3&lat=35.65878&lon=139.70060889&gov=13113.3.36.3 <br/>
<br/>
＜Web＞ <br/>
http://event.entertainment.msn.co.jp/cafe/studio/ <br/>
<br/>
*チャージ料金\1,500（ワンドリンク付き） <br/>
*ケータリングユニット「momoe」による料理も食べれます。<br/>
<br/>
<br/>
◆タイムテーブル（予定です）<br/>
◎18:00～19:00<br/>
フリータイム（もし作品等持込みして頂く場合はこの時間帯ですと作品を拝見することが出来ます。お気軽にsporeスタッフにお声をおかけください）<br/>
<br/>
◎19:00～20:30<br/>
フリータイム<br/>
<br/>
◎20:30～21:30<br/>
スペイン伝統音楽TUNAの演奏（演奏者ミケランジェロさん）<br/>
トーク：「spore自身によるspore」（spore編集部）<br/>
spore Vol.4 作家紹介<br/>
<br/>
◎21:30～22:20<br/>
フリータイム<br/>
<br/>
◎22:20～23:00<br/>
ゲストトーク：内沼晋太郎（numabooks/book pick orchestra）×spore（予定）<br/>
「本との出会い方、楽しみ方（仮）」<br/>
<br/>
*音楽：sporeスタッフによるセレクト<br/>
*Slide：little fish<br/>
*当日は受付にてsporeVol.4はもちろんバックナンバーもお買い求めできます。<br/>
<br/>
<br/>
またsporeのブログは次のURL（http://www.spor-e.com/editors/）にて更新を行っていきます。今後ともどうかよろしくお願い致します。<br/>
<br/>
*sporeのオンライン販売は正月明けから発送を再開致します。ご注文頂いた方はもうしばらくお待ちください。どうかよろしくお願い致します。<br/>
<br/>
<br/>
それではよいお年を！
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Sun, 31 Dec 2006 14:32:41 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>spore書店営業日記</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6191958/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/6191958/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
sporeは都内の書店を中心として置かれております。ブックファーストさん、リブロさん、紀伊国屋さん、ジュンク堂さん等にも置いていただき、誠に感謝です。この前新宿のジュンク堂さんに行ったとき、雑誌担当の方にご挨拶させて頂いた際には「ずいぶん4号出すの時間かかりましたねー。楽しみにしていましたよ。田口さんのインタビュー読みました」と仰って頂き、とても嬉しかったです。<br/>
<br/>
そこでですが、今回は本屋さんのお話をしたいと思います。都内の中心から少し外れたところにある、インディペンデントな書店さんにもsporeを置かせて頂くために行って参りました。ですので、ここではその紹介を。<br/>
<br/>
■往来堂（文京区千駄木2-47-11）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/14/81/b0009781_21541525.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center><br/>
まずは自分の住んでいる日暮里から自転車で行ける千駄木の往来堂書店さんです。往来堂書店がある通りはいわゆる「不忍ブックストリート」と呼ばれる、古本屋が沢山ある通りでして、「古書ほうろう」や「オヨヨ書林」といったかなり面白いセレクトがされている古本屋さんがあります。そんな通りにある往来堂書店は一見普通の街の本屋さんですが、よく棚を見てみるとセレクトが利いていて、ついつい手が伸びしてしまいそうな魅力的な本が並んでいます。こういう本屋が近所にあるというのはとても嬉しいことなんじゃないでしょうか。街の本屋さんの理想形、という気がします。<br/>
<br/>
<br/>
■PROGETTO（川崎市川崎区小川町４－１ LA CITTADELLA内）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/14/81/b0009781_21545533.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center><br/>
次は川崎にあるお店、PROGETTOです。以前渋谷にあったお店ですが、現在は川崎駅のすぐ近くにある「LA CITTADELLA」（写真）の中にあります。アート系の本がずらりと並び、一見しただけで、ああ、ここにしかない本だよなあ、と思わせる棚になっています。店長の柳さんとも少しお話させて頂いたのですが、本誌でもインタビューさせて頂いている中原昌也さんと某都内書店で以前ご一緒にお仕事をされていたのだとか。「彼とはよく映画の話をしましたねえ。2人ともあの頃は真面目に仕事していたなあ（笑）」という、貴重なコメントを頂けました（笑）。うーーん、伝説ですなあ。<br/>
<br/>
<br/>
■タコシェ（東京都中野区中野5-52-15 中野ブロードウェイ3Ｆ）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/14/81/b0009781_21551227.jpg" border="0" width="225" height="300"/></center><br/>
中野にも行きました。インディー系の出版物やCDを専門に扱っているお店です。所狭しと未知の、しかしながら魅惑的なミニコミ誌やCDが並んでいるお店で、ある意味「東京の秘境」と言えるのではないでしょうか。一度行ってみる価値はあるかと思います。中野駅北口からアーケード街「サンモール」（写真）を通り抜け、「中野ブロードウェイ」の3Fにお店はあります。ちなみにsporeの4号のみならずバックナンバーも置いて頂いています。2号、3号を見てみたいという方は是非ともタコシェへ。<br/>
<br/>
<br/>
■高円寺文庫センター（東京都杉並区高円寺北２-１０-５）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/14/81/b0009781_21555248.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center><br/>
今回は巻頭にやまだないとさんのインタビューを掲載させていただきましたが、やまださんは荻窪・高円寺近辺で定期的にイベントをされているそうです。そしてsporeも高円寺に置かせて頂いております。場所は高円寺文庫センターさんです。高円寺におけるサブカルチャーの拠点。といった感じでしょうか（お店の看板はリリー・フランキーさんのイラストが描かれてあります）。ここも面白い品揃えがされていていますね。店長さんにはやまだないとさんが定期的にイベントをされているというカフェも紹介していただけました。「茶房高円寺書林」というところだそうです。自分も是非行ってみたいと思いました。<br/>
<br/>
<br/>
■Punctum（東京都中央区京橋1-6-6 ハラダビル2F）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/14/81/b0009781_21561244.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center><br/>
最後にギャラリーも紹介させていただきます。Punctum（プンクトゥム）という写真を中心とした京橋にあるギャラリーです。「Punctum（プンクトゥム）」という名前は、ロラン･バルトの著書『明るい部屋』から引用された「punctum（突き刺す力）」という言葉から由来しています。その名の通り、エッジの効いた写真家さんの作品が毎回展示され、それがある種の物語性を持って視る者に訴えかけてくるような、そういう展示がされているギャラリーです。今回表紙を飾った笹俣さんもこのギャラリーで展示をされています。また、最近活躍されている在本彌生さんもここで展覧会をされていましたね。時代とシンクロするような新人写真家が現れる場として、これらからも楽しみなギャラリーです。<br/>
<br/>
という感じで本を置かせていただいております。もしお近くにお立ち寄りの際は是非sporeを手にとって頂ければ幸いです（小島）。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Thu, 14 Dec 2006 21:56:42 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>やまだないとさんへの３６Q</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6137100/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/6137100/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200612/03/81/b0009781_2010258.jpg" border="0" width="500" height="483"/></center><br/>
やまだないとさんは、独特の空気感を持つマンガを書く人で、東京は杉並に住む夫婦のさらりとした日常を描いた『西荻夫婦』や、パリの街角を舞台にこってりとした情事を描いた『ペリカン通り』など、数々の作品が世に出ている。最近では、永作博美の表情が印象的な、月桂冠の「つき」ＣＭのストーリーボードを描いたりもしている。彼女の描く世界は、そのどれもが全く違う切り口、シチュエーションながら、どこか繋がった空気――やまだないとモードとでも言うべきものがある。それは優しくてエロティック、しかも残酷で切ないのだ。<br/>
<br/>
彼女のマンガの読者は、話の続きを急くのではなく、いつまでもその世界に包まれていたくて、マンガのページをめくる。その感じが、好きな人に会っている時間に似ていると思い、『spore』の恋愛特集号にインタビューを掲載した。<br/>
<br/>
個々の作品が描かれた状況や、彼女のマンガが作られる過程のテクニカルなあれこれよりは、やまだないと作品がもつモードそのものに迫りたい。そんな基準で編んだ３６の問いに、Ｑ＆Ａ形式で答えてもらった。誌面はちょっと詩のような雰囲気を持つレイアウトになり、その行間からはあのやまだないとモードが滲み出ている、ような気がする。<br/>
<br/>
「ような気がする」というのはいかにも曖昧だけれど仕方がない。彼女の世界に断定は似合わない。泣けもせず笑えもせず、その両極の感情に引っ張られた中間に、彼女のマンガはあるのだから。日常と非日常の間のエアポケットのような世界。その世界の秘密を探るために、その世界の中で迷うために、ぜひ３６の問いに対するやまだないとさんの答えを、読んでみて欲しい。きっと、かなり痺れると思う。彼女の世界に恋をしてしまうと思う。<br/>
(蜂谷)<br/>
<br/>
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</p>]]></description>  
      <dc:subject>hachiya</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Sun, 3 Dec 2006 20:10:33 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>オレリア・オリタについて</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6064183/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/6064183/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200611/27/81/b0009781_10405.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center><br/>
彼女はカンボジアと中国の両親の間に生まれ、フランスで育った。手に職をつけて欲しいという両親の意向から薬学を学ぶ一方、学業と並行して、恋とセックスをテーマにした自伝的なマンガを執筆。そのマンガは大きな注目を浴びた。コミック･アーチストとしてのキャリアをスタートさせた彼女は、敬愛するフランス人コミックアーチストと親交を深め、彼の住む日本に来ることとなる。そして一昨年の冬、彼女はそのコミックアーチストに誘われて、世田谷のカフェで行われたsporeのイベントにやって来た。そこでぼくは初めて彼女－オレリア・オリタに出会った。<br/>
<br/>
飛鳥新社から出た『JAPON』というアンソロジーで、オレリアの作品「台風」を読むことができる。『JAPON』は、日仏のコミックアーチストが「日本」をテーマに競作したもので、２年前の徳島県での滞在をテーマにしたこの作品は、アンソロジー中で最も人気の高い一篇だ。自由で大胆なタッチの絵と、誠実さとユーモア、そしてちょっとだけ切なさを感じさせるストーリーは、フランスでは類を見ないものだ。<br/>
<br/>
その後、ぼくの展覧会に来てくれたオレリアに「spore」への寄稿をお願いした。彼女は快く引き受けてくれて、素敵な作品をくれた。それがここに収録されている「初体験」だ。彼女の作品を日本で２番目に発表することができたことを、ぼくは誇らしく思う。そして調子に乗ったぼくは、彼女にコラボレーションをお願いする。それもここに収録されている「winter song」だ。今年の正月、殆ど誰もいない公園を彼女と散歩しながら回したビデオと、彼女の描いた幾つかのイラストを主な素材とした作品だ。<br/>
<br/>
その後、オレリアはフランスへ帰国して、日本での滞在を描いた『いちごとチョコレート（Fraise et Chocolat）』を発表。この本はテレビや新聞に取り上げられるほどの大評判になった。今やフランスで最も知られるコミックアーチストのひとりとなった彼女の作品が、この「spore」vol.4をきっかけに、ひとりでも多くの日本の読者に伝わることを願ってやまない（little fish）。<br/>
<br/>
オレリア・オリタ『いちごとチョコレート（Fraise et Chocolat）』プレス・リリース：http://www.boilet.net/jp/fraise_et_chocolat.html<br/>
<br/>
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</p>]]></description>  
      <dc:subject>little fish</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Sun, 19 Nov 2006 17:53:16 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>カバー写真（笹俣房子さん）のこと</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/6025721/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/6025721/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_RIGHT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200611/12/81/b0009781_11202258.jpg" border="0" width="375" height="363" align="right"/>sporeのようなテーマ主義の本にとって、雑誌の顔ともいうべきカバー（表紙）は重要な意味を持つ。特に恋愛という直球な特集を組むからには、カバーにも全体を引っ張っていくインパクトがほしい。そんな僕たちの思いを今回形にしてくれたのが笹俣房子という写真家だ。<br/>
<br/>
そもそもの出会いは、友人の編集者・H嬢に招かれた某雑誌の出版記念パーティだった。そこで紹介されたのが彼女、つまり笹俣さんだった。立ち話ながらspore3号を見せて、その場で作品掲載に前向きな姿勢を示してくれたことが印象に残っている。<br/>
<br/>
その年の冬の初め、待ち合わせた表参道の『LOTUS』に彼女は水色のコートと白い毛糸の帽子姿でやってきた。恋愛特集といっても、僕らの手元にはまだ作品は集まっていなかったし、4号がどんな本になるのか期待と同時に不安もあった。笹俣さんに会って、作品を見せてもらったのはそんな時期だった。<br/>
<br/>
笹俣さんが当時制作していた作品はコンセプチュアルであると同時に、そこにはストーリー性が強く存在していた。写真雑誌も取り上げはじめた頃で、写真にはしぜんアッパーな勢いが感じられた。作品はもちろん、彼女の人間性に心を惹かれたということもある。彼女は少女性と熟女性が混じりあった魅力的な女性で、恋愛特集号のミューズとしてもぴったりだったからだ。そんな彼女に「恋愛」というテーマで作品をお願いするのは、僕らにとってエキサイティングなことだった。<br/>
<br/>
彼女から掲載作品が届いたときには、すばらしい感動があった。<br/>
これまでsporeの掲げたテーマに対してこれほど力強くストレートなメッセージを返してきた人がいただろうか。自分の作品の展示スペースとしてではなく、今号のテーマに深くコミットして作品を制作してくれたことが何よりうれしかった。そうした作品からは、彼女の写真に対する本気がビリビリと感じられた。そのうちの一枚に、カバーにふさわしい写真があった。実際、4号の表紙になっている写真だ。それを見たとき、僕らはやっと4号の全体イメージを明確に思い描くことができたんだと思う。<br/>
<br/>
出版までには長い時間を要することにはなったけれど、その間に僕らはPUNCTUMで行われた笹俣さんの作品展を見た。彼女の活躍を目にして滞りがちだった本作りへの思いを新たにしたのも事実だ。時折、励ましの連絡をもらったりもした。本が出た今、僕らは出版を辛抱強く待ってくれた彼女に感謝しつつ、これからの活躍を期待したい気持ちでいっぱいだ。彼女の作品をぜひ多くの人に見ていただけたらと思う。（トミタ）<br/>
<br/>
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</p>]]></description>  
      <dc:subject>tomita</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Sun, 12 Nov 2006 11:22:08 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>ラヴリィな存在達について</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5996390/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5996390/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200611/06/81/b0009781_22432492.jpg" border="0" width="450" height="297"/></center><br/>
sporeでは巻頭にインタビューを掲載していますが、今号では田口賢司さんをインタビューさせていただきました。1994年に発表された『ラブリィ』は文芸評論家・福田和也さんに「90年代最高の傑作」と評され、一昨年に発表された『メロウ』は浅田彰さんが審査員を務められた第14回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞しています。実は個人的にも田口さんの以前からのファンでして、『ラブリィ』以前の『ボーイズ・ドント・クライ』や『センチメンタル・エデュケイション』も愛読していました。<br/>
<br/>
また田口さんはTVプロデューサーとしてのキャリアをお持ちの方で、現在はジェイ・スポーツ・ブロードキャスティングにて『Foot!』や『バルサＴＶ』のプロデュースをされています。ですから、ちょっと異色なキャリアを持つ作家の方と言ってもいいかもしれません。それはキャリアだけではなく、小説の作品においても当てはまります。物語の構造が消滅しかかったところでの散文詩的な言葉、あるいはすぐさま目の前に浮かび上がってくるような鮮やかなイメージ、そして非常に独特である空虚さ。そういったものがセンチメンタルさやユーモアを伴ないながら響いてきます。<br/>
<br/>
そういった特徴のある田口さんの作品はどのようにして生まれるのか？このことに僕自身以前から興味があり、その点についてインタビューをしたいと考えていました。また、僕自身かなりのサッカーファンであり、田口さんのTVプロデューサーとしての在り方も聞いてみたい、そしてテレビをつくることと小説を書くことの相関性みたいなものはあるんだろうか？なんてことを田口さんにインタビューにて聞いてみました。今号における田口さんへのインタビューでは小説とサッカーにまつわる"ラヴリィ"な言葉を頂けたのではと考えています。是非ともご一読頂ければ幸いです（小島）。<br/>
<br/>
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</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Mon, 6 Nov 2006 22:43:34 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>spore Vol.4 オンライン販売スタート！</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5958362/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5958362/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200610/31/81/b0009781_030370.jpg" border="0" width="342" height="260"/></center><br/>
大変ご無沙汰しておりましたsporeでございますが、この度Vol.4「そしてわたしは恋をする」を発行できることになりました。制作がまたしても遅れてしまったことを深くお詫びします。これほど期間が開いたにも関わらず出版が出来たのは本当に色々な方々のご好意があってこそなんだと、しみじみ感じています。感謝してもしきれない。本当にありがとうございます。<br/>
<br/>
さて、今回の特集は「恋愛」ということで、様々な形の愛情表現を作品を通して感じて頂きたいと考えております。何故、僕らが今回「恋愛」というテーマを選んだのかと言いますと、それは恋愛という物語のフレームを通すことにより、人間同士のコミュニケーションの形がより生々しく、リアルに表現できるのではないか、と考えたからでした。小説はもとより、映画、写真、音楽、思想等の歴史上の優れた恋愛にまつわる表現というものは最も混沌とした、しかしながら同時に普遍的な感情を呼び起こすものであったと言えるのではないでしょうか。ですから、僕らは僕らなりにこの恋愛というテーマがもつ無秩序的状態と向き合うことにより、何かしらの同時代性と普遍性を得ることができるんじゃないか、というのがこの本の基本的な思想になります。<br/>
<br/>
そしてこの「恋愛」というテーマから展開された様々な作家のアイディアや情熱というものを、この本に掲載することができ、嬉しいかぎりです。今回登場した各作家達のイメージ、あるいは言葉の一つ一つには、やはり心が動かされるものが多くあるように思えます。幸せを感じること、欲望を持つこと、傷つくこと、絶望すること、再生すること。人は最愛の人間について語り、表現しようとするとき、そこには瑞々しくも鮮烈な感情の速度というものが生まれるんじゃないか、と感じています。<br/>
<br/>
この本がみなさまの何かしらの喜び、痛み、あるいは導きになれば幸いです(小島)。<br/>
<br/>
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</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Tue, 31 Oct 2006 0:30:55 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>自意識と文体</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5916134/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5916134/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200610/23/81/b0009781_14405938.jpg" border="0" width="97" height="144" align="left"/><br/>
『嫌オタク流』を読む。サブカルチャー消費者における自意識の一つのあり方としてのオタクに対する、徹底した嫌悪感。特に中原昌也さんのコメントが、爆笑もんだった。社会とのコミュニケーションが難しくなったとき、人は自意識をハンドリングすることが出来なくなる。簡単に言えば、閉塞的状況が人に脈略のないやっかいなプライドを抱えざるを得なくする。無駄に高いプライドと、非常に保守的な態度。という、ポストモダンの先鋭的な趣向性というオタクのイメージとは裏腹の、あなまりにも陰惨な消費者の姿がそこにはあるだけだ。アニメ的表現への限りないフェティズムを乗り越えることが出来ない、要は、自分の趣向以外のものは受け入れられない保守的な人。そんな連中が「ニュータイプ」だなんてありえない。<br/>
<br/>
赤坂真理の小説の主人公も、『嫌オタク流』同様、資本主義社会下における自分の自意識をどうやってつくりだすのか、ということに腐心していたと思う。オタクにおいて、それはディスコミュニケーションであったり、フェティッシュであったりするような要素を、彼女の小説における主人公も兼ね備えていた（オタクのアプローチとはぜんぜん違うし真逆でもあるが）。外部と内部をどうやってつくりだすのか、ということについて、身体的な抑圧と解放のスイッチを自身の皮膚感覚で探り出す。そんな、非常にテクスチャー主義であり尚且つフェティッシュな方法論に、当時僕は強いインパクトを覚えた。<br/>
<br/>
赤坂真理の初めてのエッセイ集『肉体と読書』はこれがまたとても面白い散文になっている。もともと、赤坂真理の資質としては、全体小説を書くということよりも、より細部を追求する、文体至上主義的な資質に才能があるタイプの人だから、エッセイというフォーマットとは相性がいいのは当たり前ではある。冒頭の自らの出自に対しての言及はとても印象的だ。「私はボンテージとハウスの出身である」。ボンテージという抑圧と、ハウスという解放。それらの両極端なベクトルをもつ快楽の共存は物語的構造に依存せずとも、感情・感覚のハイ・アンド・ロウを経た濃厚な体験を得ることに繋がる。そんな赤坂真理のボンデージ的かつハウス的趣向性というのは、身体的な回路を経て、音楽的な編集を通して最終的に物語化される。という、小説世界の中によく現れている。<br/>
<br/>
このエッセイを読んで思い出したことがある。文体についてだ。文体の面白さというものはどういうものだろうか、と一瞬考える。赤坂真理的な、あの、デコボコしながらも、リズミカルで、美しくさえある感触というのは、一体なんだったんだ、と。それは映像に置き換えるといいかもしれない。たとえばソクーロフのような光が明滅し、見えたり見えなかったりしながらも、人々がどっぷりと濃厚な光と影の空間に浸かってしまうような感触。僕はソクーロフの作品世界における、見える。見えない。という、不連続的な眼差しは小説の文体と相通ずるものがあるんじゃないだろうか。<br/>
<br/>
小説における文体も、不連続性というのが重要で、わかる。わからない。という認識の速い。遅い。が、キーワードになってくると思う。一つのセンテンスが短く、わかりやすい口語的表現がずっとある。となると読むストレスはなく、スピード感も体験できるが、単調であり、退屈でさえなってくる。わかりやすい単語、フレーズ、センテンスの間に聴き慣れない奇妙な響きを持つ単語や、やや長めの文章が挿入されていると、その文体は一気にスリリングなものになる。例えば、速い、速い、遅い、速い、というようなリズム。このように、ある作品世界の中でわかる、わからない（あるいはすぐに感じる、感じない）、という境界線をどう引くのか、という意識は小説の文体の中にストレートに表出するんじゃないだろうか（小島）。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Mon, 23 Oct 2006 14:46:47 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>闘う男達</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5806367/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5806367/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200610/06/81/b0009781_10231917.jpg" border="0" width="120" height="163" align="left"/><br/>
<br/>
最近は物語が要請するキャラクターというものに興味がある。物語の構造を成立させるための人物関係、それは基本的に2人組み、カップルの関係性から物語はモチベーションを得る。主人公と、もしかしたらそうなっていたかもしれないもう一人の自分。あるいはライバル、理想像、恋人、嫌悪する存在…そういったカップルの在り方が非常にわかりやすく描かれている作品の一つとして、チャック・パラニューク原作の『ファイト・クラブ』がある。デビッド・フィンチャーについてはそれほどどうこうと言える監督ではないとは思うけど、二重人格的カップルの描き方と破壊集団の描き方がどんなんだっけ？という感じで観た。<br/>
<br/>
『ファイト・クラブ』におけるカップルというのは、理想像（ブラット・ピット役）とネガティヴな自己像（主人公・エドワード・ノートン役）が分裂し、理想人格の暴走を止めるために主人公は自ら命を絶つことによって分裂した人格を統合させるものだ。その結果、主人公の「鏡」的存在である、自分の嫌悪する部分をそのままもっている女性を愛することが出来るようになる。そして最後のクライマックスのシーンにおける、息が絶えるまでの時間が主人公にとっての最も幸福な瞬間となる。主人公は理想像を殺す（克服する）ことによって「恋愛」を勝ち取るのである（なんて書いてもぜんぜんわからないと思うけど・笑）。<br/>
<br/>
しかしこんな心理学的な構造をそのままやってしまっていいんだろうか。という疑問はある。あるいは、表現の今のエッジというのは、こういった構造はとりあえず置いておいて、語り口、眼差し、といった細部の追求こそにある、ということなんだろうか。例えばこの作品の中に現れるサブリミナル的なイメージやトリッキーなシーンのような。<br/>
<br/>
また、『ファイト・クラブ』における破壊集団の描き方というのは、殴り合うことを「快楽」とした内側に破壊のモチベーションが向かっている男達のクラブが、やがて世界に対して具体的な破壊活動を行っていく、という内容なんだけど、こういった典型的なテロリズムと反する暴力がモチーフとなっているのが、黒沢清の『アカルイミライ』であると言える。インタビューでも黒沢監督は語っていたけど、「あからさまではないテロ」としての毒クラゲの使われ方が面白い。テロリズムにおけるありがちなマッチョさは限りなく薄められ、妄想の暴走、というよりは妄想の浮遊、という感じだ。文字通り。この選択がすごく日本的でいいと思う。<br/>
<br/>
そういえば『アカルイミライ』も20代の青年「二人組み」の話だ。大江健三郎の言葉を借りれば、「おかしな二人組み」。こちらのほうは物語の中盤においてすぐに片割れになってしまい（決して2人組みの関係性を最後のクライマックスまで引っ張らない）、安定感を欠きながら落ちるところまで落ちていく。そして他者への暴力、あるいは妄想が拡散する。という仕組みだ。パラニュークの話の展開というのはすごく直線的で、その線のこちら側とあちら側を行き交いする、というのが基本的な構造になっているが、『アカルイミライ』はより曲線的で、もっと絶妙な不安定さがある。たぶんこの点が素晴らしいんだと思う（小島）。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Wed, 4 Oct 2006 16:14:27 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>THE DREAM OF THE BLUE TURTLES</title>  
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      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200608/03/81/b0009781_17462239.jpg" border="0" width="170" height="126" align="left"/><br/>
なにかこう、久しぶりに面白いものを見たような気がする。ＷＢＡ世界ライトフライ級王座決定戦、亀田興毅×フアン・ランダエタ戦。あの亀田家の存在というのは、ギリギリいっぱいいっぱいな瀬戸際感がマゾ的に観る者を多分に刺激していると思う。本当の強さなんてどうでもいいのだ。もはや。<br/>
<br/>
会見でのビックマウス、ハンバーガーをかじるパフォーマンス、そして亀田家の世界制覇に向けたストイックな物語。そう、劇薬的な物語がここにはある。大いなる欠落とそれを埋めようとする主人公のプロセスが。そうして、その物語、例えそれが多分に嘘や演出が含まれていたとしても、観客はその物語のフレームへと吸い込まれ、共犯者となることを選ぶ。小泉劇場やブッシュ劇場とまったく同じ。テレビ的。という点も含め。スペクタクルの強度こそが全てであり、現実をも凌駕する。もはや新しくもなんともないことだけど。<br/>
<br/>
しかしながらポストモダン的環境は主体の統合性の衰弱を利用したこうした「大きな物語」のニーズを加速させる。繰り返すけど、これは文字通りの劇薬なのだ。劇的な薬物。と書いて劇薬（笑）。僕等はこういった類の物語には今、目がない。劇薬でしか快楽は得られない。そして彼等の今後の挑戦から益々目が離せない（笑）。彼等は典型的なヒーロー、アンチ・ヒーローの境界を行き交いし、今後の記者会見での微妙さ加減も含めて、滑稽さは加速し、わかっちゃいるけど見てしまう感はさらに強まるんだろう。この、あまりにもベタな感触が、今の時代にとって「ちょうどいい」んじゃない？（にしてもちょっと飽食気味かもしれなが）。もはや洗練さは力を持たないのだ。洗練さは劇的じゃあない。だからこそ、適度の洗練と、適度のベタ感との、境界線をどうやってデザインし、均衡をつくりだすのか。というのが今のクリエィティヴのプログレッシヴさなんだと思う。<br/>
<br/>
で、ちなみにこの日記のタイトルはスティングのソロファーストアルバムのタイトルからの引用。青海亀達が見る夢。セレブミュージック。懐かしい（小島）。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Thu, 3 Aug 2006 17:46:41 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>場所と眼差しについて</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5386088/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5386088/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200607/31/81/b0009781_1993737.jpg" border="0" width="120" height="181" align="left"/><br/>
二年前の正月、僕はカメラマンの石原さんとともに自分の故郷に訪れた。石原さんのポートレイトの企画、「生きながらにして遺影を撮る」での、ちょっとした撮影旅行だった。これは思った以上に刺激的で面白い被写体体験だった。もしあなたが今死ぬとしたらどのような遺影を望むのか。遺影というものは生きている時点から準備をする必要があり、その遺影としてのポートレイトは何度でも更新されるべきものである。というコンセプトのもと、果たして僕はどこで撮られたいのか、と考えた時、自然ともう何年も帰っていない故郷の海岸で撮影したいと思ったのだった。僕自身はもう何年も自分が育った場所に帰っておらず、思いがけない自分の青春時代の追体験になった。<br/>
<br/>
友人からもらった『極西文学論』（仲俣暁生著）を読んだ。ここで言う極西文学論の「極西」というのはヨーロッパから見た日本の、アメリカを通過した果ての位置のことを指す。高度資本主義の波がヨーロッパから派生してアメリカで爆発し、そしてその爆風の余波を更に西の果ての国である日本がモロに受けている。そういった欧米のポップカルチャー、テクノロジーの影響下にある村上春樹以降の９０年代の日本人の作家達を取り上げ、小説の現在形について筆者は語っている。同時に、これは僕等にとっての「場所」の問題について語った本でもある。例えば、前述したような、これがもしかしたら自分のイメージの最期になるかもしれない、という「死」と向き合わざるを得ないポートレイトを考えた時に、自然と自分の脳裏に浮かび上がってくる最も生々しく強烈な思い入れのある場所、風景、空気感・・・というようなもの。そういった類のイメージがこの本の根底にあるんじゃないだろうか。<br/>
<br/>
そう。極西。というだけあって、この本では「場所」や「位置」について大きなこだわりを見せている。いわゆる、「私はどこにいるのか」についての古くて新しい問題。ずっと更新され続けている問題でもある。かつての「大きな物語」は漠然とした方角を示しても、自分たちをモチベートすることが出来た時代だった。フロンティアへ。西へ。彼方へ。という具合に。まだ名付けられていない方角や地上があり、そこに自分達の欲望を向けることが出来た。が、情報技術、あるいはグローバリズムの進展によって、今、あらゆる場所はスキャンされ、監視されてしまっている。言うならば私たちの居場所は半ば剥奪されてしまっいている。隠れ家というか、自身の生活と密接に関係している場所、そしてそれが何かしらの生へのモチベーションとなりえるもの。そういうものをいかにして再発見するべきなのか。そしてそれは本当に可能なことか。日本の作家達はどういった形でこの問題と向き合っているのかを、仲俣氏はこの本のなかで検証している。<br/>
<br/>
ここで問題になるのは、どのようにして自分たちの居場所を見いだすのか。という、眼差しのあり方になる。その眼差しというのは超越的な俯瞰の眼差しではありえない。俯瞰の欲望は人々を逆に盲目へと導く。今間違いなく眼差しの質の変容というのが起きていて、世界は限りなくフラットになり、視えてしまう領域は拡大していく。しかもそれは私自身の視える力ではない。視る、という機能はどんどん「私」から遠ざかっていく。自分自身の視界から見た自身の居場所というものをどのように提示するのか。それは、どのように私は世界を視ていて、世界はどのようにして私を見ているのか。その、視界のフレームをデザインすることでもある。<br/>
<br/>
大きな物語が終わった後、そのどでかいブラックホールを埋めるように俯瞰的なヴィジョンが欲望として拡大している。その一方で、そういった俯瞰的な欲望を支えるように、人間のメンタリティは分裂化していっている。欲望の薬物化、現実感覚の喪失、シニシズム。といった具合に分裂はさらに進む。この悪循環を少しでも緩和するための世界へのアクセスの方法として、「物語」の存在があるんじゃないだろうか。それは恣意的な「物語の構造」を超えた、眼差しを俯瞰的な世界から逸脱させる連続性を持ったヴィジョンとしての「物語」、という意味においてだが。誰にでもその人自身でしか感じることが出来ない独特の磁場があり、その場所でしか生まれ得ない身体的な感覚があるはずだ。そういった意味においては石原さんの遺影に関する企画は僕にとってまさしく「極西文学」であった。この本ではあらゆる意味におけるローカリズムに着目し、自分自身を再発見するための眼差しの方法論を解説している。場所と眼差しとのコンビネーションの、その考察こそが、小説を現代へと向き合わせる（小島）
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Mon, 31 Jul 2006 19:10:23 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「見えない」というリアリズム</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5335375/</link>  
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      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200607/24/81/b0009781_1959427.jpg" border="0" width="190" height="120" align="left"/><br/>
父親は息子に死んでしまった妻の面影を思い出し、彼女の幻影を追って過剰に息子を愛するのか。それとも、実は彼は父親ではなく、かつての戦友の息子を引き取った義父として、同性愛者として過剰に息子を愛するのか。何が語られ、何が語られていないのか。という境界が、微妙な緊張感のなかで絶えず揺れ動く。スクリーンのなかに生まれては消えるオレンジ色の光と呼応するように。2ヶ月前ほどに観たアレクサンドル・ソクーロフの『ファザー、サン』はそのような語られているものと、語られていないもの。見えるものと、見えないもの。そういったものが交互に明滅し、スクリーンを覆う、優れて古典的な映画の語り口をもった傑作だと思った。<br/>
<br/>
そういった見えるものと、見えないものという、イメージと他者との問題について、今非常に危機的な地点に僕等は存在するんじゃないかと思う。いわゆる、「他者の苦痛への眼差し」の有効性とはありえるのか。という問いは、あまりにも現代的でシリアスなものだと思う。暴力のイメージは日々更新され、あらゆるところに遍在し、人々を刺激し、欲望させる。ショックと恍惚との、両方の側面がある。特に写真だけではなく、テレビ、そしてインターネットと、かつては見ることが出来なかった暴力の生々しさの強度がプログレッシヴされていく状況だ。『他者の苦痛への眼差し』におけるスーザン・ソンタグは「大衆文化が許容しうる暴力とサディズムのレベルが上がっている」と考える。これはいわゆる東浩紀の「過視化」であり、阿部和重の「可視化」でもある。一見管理の届かないような空間にイメージは逃走するが、それはシステムによってユーザに検索可能なネットワークの場へ引きずり出される。そうやって日々満たされていくのだ、ユーザ達の果てしないショックと恍惚への欲望が。<br/>
<br/>
かつての戦争写真は、常に新聞などの報道によって現地の陰惨な現状として我々に訴えかけ、残酷な現実の証拠として見る者に突きつける機能があった。ジャーナリズムとして、ベトナム戦争における写真報道は意義深いものがあった。しかしながら今はどうなのだろう？戦争にまつわる写真の理念と実際のイメージが解離しつつある。そう、ソンタグは考える。冷笑的に、無感動に、写真は受け止められ、それは決して行為には変換されることはない。<br/>
<br/>
酒井隆史著作における『暴力の哲学』においても、同様の問題が扱われている。この本の最も面白いところは、後半の暴力と速度の問題とを結びつけて、ヴィリリオを引用しながら論を進めているところだと思う。「テロリズムは物理的破壊そのものではなく、破壊の表象こそが核心と言える」とし、「クラウゼヴィッツにおいては、「別の手段による政治の継続」として政治に従属するものであったはずの戦争が、両大戦における総力戦から冷戦を通して、テクノロジーの発展も相俟って、戦争の論理、あるいは原理的にいえば速度の論理が自律して政治を支配し消去している」と説明している。<br/>
<br/>
すなわち、イメージや情報という実際の暴力が不在なところで、世界の構造そのものが生み出されつつある、ということだ。土地、あるいは身体の剥奪から生まれる、速度の支配。というか、今暴力を語るということは、グローバリズムが内包する根本的な力学についてを語る、ということと同義だ。「パレスチナの「テロリズム」がスペクタクルを活用したのは、土地を喪失し、一切の表象＝代表の回路を喪失した人々が最後に見いだした「領土」だったからです。」として、我々に残された領土とは、「スペクタクル」、すなわち情報でありイメージである、としている。<br/>
<br/>
こうした「スペクタクルが現実を凌駕する」という姿勢に対して、真っ向からソンタグは反抗する。「現実は退き、現実の再現のみ、メディアのみが存在する」というボードリヤール的なスタンスにも同意しない。「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」と彼女は言う。「たとえそのような映像が象徴に過ぎず、それが言及している現実を到底網羅していなくても、それらはなお重要な機能を果たしている」と。イメージ上の苦痛と現実の苦痛とは永遠に一致しないのかもしれない。しかしながら、僕らにとって、このような「呪われたイメージ」を引き受けることは避けられない。<br/>
<br/>
見えるものと見えないもとの境界線をいかにしてデザインするのか。果たしてそんなことが可能なのか。意志が欲望を超えることが可能なのか。そういうことを僕は考える。ソクーロフの映画を想い出しながら。窓枠に隠れる女の視線。迷彩服。男の吐く息の音。屋上を登る隣人。路上電車の銀色に光るレール。見えているもの。見えないもの。その、細切れな反復。「見えない」という身体性のリアリズムは生き残っていけるのか。ソクーロフの映画の中で主人公の男は国家からも、家族からも、あるいは女からも阻害され、そして最後に残った息子との絆さえも消え去ろうとしている。かすかに見えるのは、オレンジ色の光だけ。最後に、彼の息子はこう不安げに切り出す。僕はそこにいる？と。（小島)
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Mon, 24 Jul 2006 20:00:19 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>狂人の最期</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5241747/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5241747/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200607/11/81/b0009781_22515088.jpg" border="0" width="130" height="140" align="left"/><br/>
売り言葉に買い言葉。その二つの言葉の投げあいは結局のところ暴力なしでは決着することはなく、言葉によって言葉を終わらせる、ということはありえない。ロラン・バルトの言葉を借りれば、「言語活動は言語活動を閉じるのには無力」である。言葉はお互いの狂気をクールダウンさせるどころか、ヒートアップさせる。馬鹿、アホ、間抜け、サディスト、天然、ロクデナシ、気違い、テロリストの息子！そう、こういった言葉を使った殴り合いは結局のところ、ホンモノの暴力を使わなければ止まらない。<br/>
<br/>
それにしてもそれは唐突だった。いくつかの会話のやりとりの後、いきなり彼は相手の胸目掛けて頭突きを喰らわした。何故？？？？？マテラッツィは彼になんと言ったのだろう。逆上し、我を忘れてしまうような、そういう聞くに堪えない言葉だったのだろうか。8年前の決勝戦でも彼はヘディングを決めたが、今回のヘディングはマテラッツィの胸に対してだった（苦笑）。どうせだったら、奴の額めがけてヘッドバッキングを決めてやり、奴の顔を血まみれにしてやればよかったのだ。この、シャツを引っ張ることしか能がない卑怯者めがっ！！！！！という感じで。<br/>
<br/>
しかしながらその頭突きをかました張本人のジダンは、やはり狂気の人なのだ。パッサーというとかなりクリーンなイメージがあるが、彼らは常にギリギリの危険なパスコースを狙っており、それは常に相手DFにひっかかてしまうリスクを伴ったチャレンジでもある。音楽評論家の細川周平氏はかつての天才パッサーであるネッツァーを「危険それ自体が「救い」や転向の契機を内包していることを本能的に理解している」と評していたが、それはジダンにも当てはまる。彼は常にリスクとチャンスの表裏一体の境界線上でプレーをしていた、狂人なのだ。だからそこ、今回の常軌を逸した、あまりにもショッキングな事件のなかに、彼のプレーヤーとしてのキャラクターが多分に含まれていたとしても当然なんじゃないだろうか。特にトーナメントに入った後の彼のプレーというのは天才的なプレーの連続で、理性が吹っ飛んでいる状態での、かなりすれすれのテンションが持続していたんだと思う。彼はいつ壊れてもおかしくなかった。ましてや最後の試合、尋常ではない精神状態だったのでは。<br/>
<br/>
こんな決勝戦での結末を迎えると、なおさらジダンの大会だったという印象が強い。特に今大会史上最強チームとされていたブラジルのあまりにも悲惨な惨状から、ジダンのファンタジーがさらに目立ってしまった。もしくは、プラティニがあるインタビューで今大会を「監督の大会」と評したという記事があったけど、まさしくその通りだったと思う。レベルが決して低いということではなく、選手の個性が前面に出ていたというよりも、緻密な戦術をもとにした非常に緊迫した戦いが多かった。そして決勝においてもやはりイタリアの戦術、特に守備における巧さが光っていた。「監督の大会」であるのならば、その大会の中心にいたのはやはりリッピなんじゃないかな。選手の配置、試合展開の読み、選手交代の妙。すべて当たった。チャンピオンズリーグでも勝ち、そしてW杯においても勝てる監督はそうそういない。彼を中心にして、色んな武器を持つ選手がフレキシブルに機能し、そして活躍した。それがイタリアが大会を制した最大の要因だと思う（小島）。<br/>

  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Tue, 11 Jul 2006 22:52:10 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>顔の不気味さ</title>  
      <link>http://spore.exblog.jp/5219577/</link>  
      <guid isPermaLink="true">http://spore.exblog.jp/5219577/</guid>  
      <description><![CDATA[<p>
  
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/200607/09/81/b0009781_463775.jpg" border="0" width="190" height="126" align="left"/><br/>
アルノー・デプレシャン監督の『キングス＆クイーン』を観終えた後の、言葉にならない絶句感といったら、あまり今まで体験したことがないものだった。これは映画なんだろうか。完全なるフィクションとしては何かの間違いなんじゃないか、と思ってしまうようなあまりにも重い質感。かといってドキュメンタリーでもない。物語の核心的な部分は洗練などされずに、残酷なまでに生々しく、どう受け止めていいか分からないまま放り投げだされている。<br/>
<br/>
「クイーン」を演じるあのエマニュエル・ドゥヴォスの顔の不気味さが、僕の網膜にこびりついて離れない。への字のように両わきが下がった口元。印象深い眉毛。四角張った顔の輪郭。そして大きい瞳。彼女は笑い、喜び、憂い、泣き、戦慄する。死者とのコミュニケーションを通し、彼女のその表情は在る一定の緊張感の中で保たれるようになる。それも様々な感情を抱え、表情は断続的に変調し、均衡が崩れることを恐れながらも。そして必死に自分自身を存在させようとする意志が、彼女の表情、口元、眉毛、顔の輪郭からあらゆるわかりやすい形容詞を剥奪する。彼女の表情は必死に変調し続ける。<br/>
<br/>
死者の言葉というのは徹底して重いものだ。もはやその言葉は動かしようもなくて、その言葉にこめられた感情も永遠のものとなる。自分自身の存在は否応となく変化していくのに対し、死者の言葉は生気を失い、ぱったりと動かなくなる。まず、そういった状態を理解し、受け止めることにひどく戸惑う。そう、死者からの手紙というのは受け手をひどく混乱させる。無数にあった「それ以外の可能性」が全てなくなり、「たった一つの過去」となってしまう突然の暴力。そんな予測不能な暴力に、人は恐怖を抱くようになる。理解しえないという純粋なる恐怖。しかしながら「恐れてはならない」と、アルノー・デプレシャンは語る。自分自身についての罪に対しても。あるいは、死者が向ける自分自身に対する言葉に対しても。<br/>
<br/>
エマニュエル・ドゥヴォスの陰惨でありながら、あまりにも強すぎる近親相姦的な愛憎関係とは別に、もう一人の主人公である「キング」を演じるマチュー・アマルリックは非常にユーモアに溢れ、軽快そのものであり、お調子者ぶりが全開である。あるいはフランスにおける中産階級の没落のシンボルとして（？）、精神病を患い、奇行を繰り返す。病医院行きのすれすれな神経で、かろうじてこんな軽口をたたき続ける。プライドを捨てよ。血縁としての家族。あるいは、絆としての家族。その両者を敬え。そして己の愛するものを成し遂げるべし。と、彼は身振りを交え、あの独特の人懐っこい表情で、しゃべり続ける。そしてエマニュエル・ドゥヴォスと同様、彼も非常に気まぐれに表情もキャラクターも変化し続ける。哲学者かペテン師か。人徳車か偽善者か。そうやって彼は軽快に物語を掻き回し、イメージの混乱を招待する。彼にとってはルールも還元も根拠も無縁で、必要なのはいくつもの均衡だけなのだ。<br/>
<br/>
マチュー・アマルリックと義理の息子との会話が終わり、少年は母親のもとに去る。そして映画のスクリーンが暗転し、映画そのものが終わりを告げたとき、僕は言いようもない感情に捕らわれたのだった。こみあげるものさえあった。シーンを観て感動したのではなく、この、あまりにもシリアスで陰惨なテーマを扱い、なおかつ何の統一感もなく、一定のわかりやすい形容詞が剥奪された物語が無事に、見事に着地した。そのことに大きく感動したのだと思う。物語が終わるという安堵を感じさせる映画なんてのは、そうそうない。
  
</p>]]></description>  
      <dc:subject>kojima</dc:subject>  
      <dc:creator>spore_edit</dc:creator>  
      <pubDate>Sun, 9 Jul 2006 4:14:53 +0900</pubDate> 
    </item> 
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</rss>

