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  <title>toshibon's essay</title>  
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  <modified>2012-05-03T10:42:16+09:00</modified>  
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  <tagline>toshibonの雑文格納庫(since1980)</tagline>  
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    <title>バッド・トリップ台風19号</title>  
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    <issued>2012-04-05T23:21:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-04-06T11:18:16+09:00</modified>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>街</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
「台風がいつもかすめていればいい」。いつだったか、僕の友人がそう手紙に書いてきたことがある。白い大きな渦巻きが天気図の上に姿を現すと、杉浦日向子が新聞に次のように書いていたのを思い出す。<br/>
<br/>
「台風や大雪など、特異なお天気というのも、場所の移動こそないものの、ひとつの旅に思えます。いつもの風景が一変して、日常から離れた空間にポツネンと放りこまれ…うたかたの旅人になった気がします…」<br/>
<br/>
台風襲来の常襲地帯、四国の高知に住んでいた時、台風が近づくと街が次第にそわそわしはじめるのがわかった。もちろん大部分の市民は台風など来なければいいと思っているのだが、僕の友人たちは台風の襲来を待ち焦がれているようだった。<br/>
<br/>
台風が四国に上陸しそうな晩は、いきつけの飲み屋に続々と集まってくる。大型の台風であればあるほど、風が強くなれば強くなるほど酒がすすみ、みんなのテンションが高まっていくのだった。<br/>
<br/>
そんな変に高揚した気分をうまく描いた映画に相米慎二の『台風クラブ』（1985）がある。中学生役の工藤夕貴が「台風来ないかなぁ」とつぶやくシーンが印象的なこの映画は、台風接近時の気象変化と思春期の不安定な精神状態をクロスして描き（相米の映画にしては）成功していた。<br/>
<br/>
台風に限らず気象が精神に及ぼす影響は、一種麻薬的な力がある。一例をあげれば秋田民謡「生保内節」に宝風と唄われる田沢湖町の生保内東風（おぼねだし）。春先に奥羽山脈を越えてこの風が吹くと、生保内の人たちは頭痛に悩まされるという。<br/>
<br/>
台風が北上してくると南風が吹き、日本海側は大概フェーン現象になる。暖かい風が入り込み気温がぐんぐん上がる。この気温の上昇がたまらない。熱いのが大好きな僕は、一時（いっとき）熱帯の夢を見る。台風が秋田県をかすめていくころにはハイになり、台風でトリップしたような気分になってしまう。<br/>
<br/>
フィリピン東方海上で発生した熱帯低気圧が発達しながら北上するのが台風だが、黒潮の通り道と同じコースを辿ることがある。アメリカ南部を襲うハリケーンはメキシコ暖流、インド洋で発生するサイクロンもそのコース付近には北赤道海流という暖流が流れている。南西諸島から九州西岸をかすめ日本海沿岸を北上する台風は対馬暖流と同じコースを辿る熱帯からのマレビトだ……。<br/>
<br/>
とまぁ、少々ネジがはずれ加減でお目出度い僕は、マレビト台風よ来い、などとのたまっていたのである。そう、9月下旬のあの台風19号が来るまでは。<br/>
<br/>
台風19号はそのコースから秋田を一時、熱帯に変えてくれる典型的なトリップ台風であるように思われた。しかし、この台風はいつもと様子が違っていた。全く衰える気配のないまま、猛スピードで海上の道を上ってきた。強風のうなりと窓ガラスに叩きつけられる松の枝、そして停電。こいつはもしかすると効き目の強すぎるバッド・トリップ台風かもしれない！<br/>
<br/>
19号はその並外れた風で、招かれざる来訪者（マレビト）としての強烈なパンチを浴びせて北の海に消えていった。その破壊力は凄まじかった。広葉樹が一瞬にして塩風で枯れ、大木が根元から倒れた。特に名木、古木といった樹に被害が多かったのが悲しい。<br/>
<br/>
男鹿真山神社の杉、協和町唐松神社の杉、本庄市新山神社の杉、森吉山の桃洞杉、矢立峠の風景林、赤沼の三吉神社のひめこ松、手形大沢の扇の大松……数えあげたらきりがないほど。扇の大松は僕が4年前に住んでいた一軒家のすぐ裏側に、見下ろすようにそびえていた。引っ越し記念として、8ミリカメラに収めたのが今にして思えばせめてもの救い。<br/>
<br/>
10月上旬に津軽の温泉めぐりの旅をして、リンゴの落下被害を目のあたりに見た。折れたリンゴの木。その下に山のように積まれた落下リンゴ。選別作業をしている農家の人たちにとって、台風19号はまさに悪夢（バッド・トリップ）そのもの。岩木山に登ったら雨が降りだし、津軽平野全体が泣いているようだった。<br/>
<br/>
風速50メートルのマレビト。そんな戯れ言で表現するにはあまりに巨大な力を持つもの。畏怖の念を抱かせるほどのエネルギー。自然がもたらす脅威を前にすると、ホント、台風トリップなんていって能天気なことを言っていたのが恥ずかしくなる。<br/>
<br/>
（「NEW FOLKLORE EXPRESS」平成3年（1991）11月）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201204/05/48/d0039848_23264480.jpg" border="0" width="200" height="167"/></center>台風19号（1991.9.23）<br/>
<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>小川監督と菅江真澄</title>  
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    <issued>2012-03-10T19:36:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-03-10T20:49:55+09:00</modified>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>菅江真澄</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
ここ数年、テレビ、雑誌、インターネットなどのメディアで菅江真澄がひんぱんに取り上げられるようになった。そのため、秋田県立博物館の菅江真澄資料センターには、一般見学者以外にも、館蔵資料の撮影や借用などの用件で記者やカメラマンなどが来館する。先日も、菅江真澄の記録映画の下準備のため、東京の映画制作会社の方がみえた。会ってみて驚いた。その方は三里塚闘争などの記録映画で知られる故小川紳介監督のチーフ助監督をつとめていた飯塚俊男さんだったからだ。飯塚さんには、一度きり会っただけなのに、今でもその時のことは鮮明に覚えている。<br/>
<br/>
15年も前になるだろうか。今にして思えば小川監督の遺作となった「1000年刻みの日時計」という映画の自主上映に向けて、秋田で試写会が行われたことがあった。その際、小川監督と飯塚さんも来秋し、上映終了後、当時ぼくが経営していた飲み屋に一緒に来てくれたのである。上映会場からぼくの店に流れてきたのは、試写会の主催者だった書店主の友人と、秋田大学の映画研究会の学生が数人だけだったように記憶している。<br/>
<br/>
映画が好きなぼくにとって、小川紳介は尊敬する映画監督のひとりであった。だからぼくと友人は、とにかくあの小川監督と会って話ができるということだけで興奮しているのに、映研の学生は「エッ、このオッサン、そんなにエライ監督なの？」といった風でポカンとしていた。彼らにしてみれば、三里塚闘争など赤ん坊のころの話だから無理もないことであったろう。ところが、実際に会って話をしてみた印象も、数々の記録映画から勝手に想像していたような闘う映画作家などという風貌や物言いとは無縁の、どこにでもいるおしゃべり好きなオッサンそのものなのである。ただ、普通のオッサンと違うところは、話の内容が徹頭徹尾映画のことばかり、ということだった。　<br/>
<br/>
その時に話した内容を、今では断片的にしか思い出せないが、ロッセリーニのイタリアン・ネオリアリズモやゴダールのヌーベルバーグは当然としても、アメリカのハリウッド映画やルーカス、スピルバーグからカルト的な作品まで、とどまるところを知らなかった。小川監督が語る映画は全く観念的ではない。フィルム編集を、カット割りのリズムを、照明のあり方を、カメラワークを細密に論ずるのである。それを、まるで映画が好きで好きでたまらない子供のように語る。こんなにも映画が好きな人がいる！　そのことにぼくはあっけにとられ、同時に大きな感動を覚えたのだった。<br/>
<br/>
小川監督はドキュメンタリー映画の作家としての枠組みで語られていたが、1980年代に作られた「ニッポン国・古屋敷村」、　「1000年刻みの日時計」では、ドキュメンタリーとかフィクションとかの境界を超えて、全く新しい映画の領域に踏み込んでいた。そこでぼくは、劇映画を撮る予定はないのかとか、記録映画における虚と実のバランスとはなどと、随分ぶしつけな質問をしたことを覚えている。そんな生意気で失礼な質問にも、決して怒ることもはぐらかすこともなく真摯に丁寧に答えたくれたことも、ぼくを感激させた。あの夜ほど、自分の店の空間が好ましく思えたことはなかった。<br/>
<br/>
平成4年（1992）、55歳の働き盛りで小川監督が亡くなった時は、何よりも映画的な損失のはかりしれない大きさを思った。と同時に様々な雑誌に載った小川監督の追悼文には、次のように必ず故人が無類の映画好きであったことが書かれてあり、ぼくの店で映画論をとうとうとしゃべり続けたあの夜のことが思い出されてならなかった。<br/>
<br/>
「これまでわたしは多くの映画監督と親しくしてきたが、小川紳介ほどの映画好きの人をほかに知らない。会えばひたすら映画のことをものすごい勢いでしゃべった」（山根貞男）<br/>
「小川君とは岩波映画で一緒だった。話はあくまで映画である。小川君の語り口には一瀉千里の勢いがある。いかつい顔に似合わず美声だった」（黒木和男）<br/>
「初めて会って驚かされたのは、彼がいきなり、ロッセリーニの『イタリア旅行』の車の移動の話を始めたことである。それも、きわめて具体的な技術に関わる話だった。映画監督というものは、当然ながら映画が好きなものではあるが（といっても、中にはそうでない人もかなりいる）、それでも、自分が撮ったばかりの作品でないもののディテールを、いきなり話始める人というのは、滅多にいるののではない」（上野昂志）<br/>
<br/>
小川監督率いる小川プロダクションは、徹底して商業主義を嫌ったため、特定のスポンサーも持たず、経済的にはいつも厳しい状態に置かれていたようだ。そうした中で、80年代には東京から山形県に活動の場を移し、上山市の農家に住みついて、自分たちによる米づくりから始め、稲の生育の過程を撮影しながら、長い時間をかけて村人たちの心のひだに入り込もうとした。その基本姿勢には、稲の一株一株に生命が宿ることを捕えた三里塚以来の土への執着を感じさせるカメラアイと、村の人間関係と習俗、伝承などへのフォークロアへの接近があったように思う。そしてそこからドキュメンタリーとも劇映画ともつかない「ニッポン国・古屋敷村」、「1000年刻みの日時計」という2本の傑作が生まれた。<br/>
<br/>
小川紳介監督が生きていて菅江真澄を題材に撮ったとしたら、どんな映画になったただろうか…。考えるだけでワクワクしてしまうが、もちろんそれは今となってはかなわぬこと。ただし、小川プロが山形で培った映画づくりの方法論は、小川監督の片腕として仕事をしてきた飯塚俊男さんに引き継がれ、今度の真澄の映画制作にきっと生かされるに違いない。だからこれまでにない新鮮な真澄像の造形を期待していい。飯塚さんは2年がかりで撮影するとおっしゃっていた。今から完成が楽しみである。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成13年〈2001年〉3月）<br/>
<br/>
※註：菅江真澄の記録映画は2002年に完成し、「菅江真澄の旅 いではみちの奥見にまからん／全6巻」として紀伊國屋書店からビデオが発売されている。
        ]]></content> 
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/MZ7gWua261of/_ou3G3FHsIQ7?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://bnr.rssad.jp/rss/img/MZ7gWua261of/_ou3G3FHsIQ7?type=3&ent=295fd46b6506b3fdabc8f1bd711165fd"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > ”次”を誓おう。キミの想いは色となり、個性となる。キミは何色だ？ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2012-03-10T19:36:21+09:00</created>
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    <title>『小川紳介を語る』（私の一冊番外編）</title>  
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    <issued>2012-02-02T00:28:00+09:00</issued>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>映画</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
秋田駅前の本屋、あぶみ書房が数年前まで発行していた「あぶみ書房通信」では、毎年１回、「私の一冊」と題したアンケートを実施していた。本屋のお客さんたちが、その年最も印象に残った本を一冊あげて簡単な感想を添えるアンケートで、ぼくも３回参加させてもらった。どんな本をあげていたのかバックナンバーを調べてみたら、金井美恵子の『映画　柔らかい肌』、武満徹の『夢の映画　映画の夢』、そして宮本常一の『旅の民俗と歴史』。３回のうち２回は映画に関する本を選んでいた。　　　　<br/>
<br/>
ぼくは本をあまり読むほうではない。小説はまったく読まない。ノンフィクションも特別に関心をもった分野のものだけ。それでいて雑誌はマメに目を通す。つまり活字人間というより、視覚的な情報メディアとしての書物に価値を見い出すお手軽なヴィジュアル人間なのだ。それで映画について書かれた本が「私の一冊」になったりするわけだけれど。<br/>
<br/>
でも、映画の本なら何でもいいというわけではもちろんなく、前記２冊のような書き手の映画に対するきわめて個人的なオマージュがこちらに伝わって、活字の行間から映像が立ち上ってくるようなもの。それと成瀬巳喜男組の美術監督だった中古智が語る『成瀬巳喜男の仕事』、アメリカン・シネマの撮影監督たちの仕事を解説した『マスターズ・オブ・ライト』など、映画製作の現場に携わった人にしかわからない技術的な側面に光をあてたものが好みだ。<br/>
<br/>
そこで『小川紳介を語る』だが、これはもう、あぶみ書房通信がまだ発行されていたら、文句なしに「私の一冊」にあげた映画本だろう。まず本の装幀が泣ける。表紙は小川プロの最前線で使われ続けたカメラ、４００フィートマガジン付きＥＣＬＡＩＲ（エクレール）１６。そこに「ショットって息なんだよね、息としかいいようがない。私たちの息が生きものの息と同期（シンクロ）していく！」という小川監督の言葉がかぶさり、目次扉には小川監督がフィルムを口に挟み、コマを凝視している写真が使われている。　　　　　　<br/>
<br/>
装幀の鈴木一誌は杉浦康平と組んで晩聲社のブックデザインを多く手掛け（ぼくの本棚を調べてみたら立松和平の『砂糖きび畑のまれびと』がそうだった）、『１０００年刻みの日時計』の宣伝物のデザインなどもしてきた人。カメラやフィルムなど映画の肉体に対するモノマニアルなフェティシズムが強烈に感じられるこの装幀だけで、故・小川紳介監督の映画への想いがひしひしと伝わってくる。そして小川監督の仲間、友人、映画評論家など関係者２２人が語った証言と講演，対談をまとめたこの本自体が一本の映画、小川監督の作品のように思えてくる。　　　　　　　　　　　　　　<br/>
<br/>
（「NEW FOLKLORE EXPRESS」平成5年3月）
        ]]></content> 
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/MZ7gWua261of/1mdFxj2z4mW9?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/MZ7gWua261of/1mdFxj2z4mW9?type=3&ent=ab209274c2fb24aa6e3ede16ab434efe"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > パナソニック公式直販サイトで先着3000名様初期費０円、キャッシュバック実施中 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2012-02-02T00:28:49+09:00</created>
    <modified>2012-05-03T10:41:14+09:00</modified>
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    <title>男鹿島断章－私の中の幻の島－</title>  
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    <issued>2011-11-04T11:46:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-11-15T19:30:49+09:00</modified>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>男鹿半島</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
男鹿半島は元々は日本海に浮かぶ島だった。その後、雄物川、米代川が運んだ土砂などで陸地と繋がってしまい、その間に海跡湖として八郎潟ができたといわれている。男鹿半島が島であったという説が、私に憧憬と懐かしさの感情を呼び起こし、同時に新鮮なイメージを喚起させてくれる。私の心の中の男鹿は、いつも水平線に真山、本山、毛無山の男鹿三山の島影となって幻のように立ち現れる。<br/>
<br/>
百宅（ももやけ）の男鹿島<br/>
<br/>
雄和町の高尾山の登山道に、男鹿の山並みを遠望できる場所がある。ここから眺める男鹿半島は本当に美しい。雄物川河口からゆるく弧を描いて続く海岸線がなければ、静けさをたたえて黒々と浮かぶ孤立した大きな島のように見える。高尾山に限らず、秋田県中央部の山頂からは、大気が澄んだ日に男鹿三山を確かめることができる。そして、時には思いがけない場所で、男鹿の島影を望むこともある。<br/>
<br/>
数年前、鳥海山北東麓の鳥海町百宅に至る峠道で、見なれたその姿を見はるかした時には驚いてしまった。矢島、本荘を流れ、日本海に注ぐ子吉川の流域に沿って開けた視界の延長線上に、男鹿の島影がくっきりと浮かびあがっていた。由利地方の海岸線から見えるのは当然としても、かつて秘境と呼ばれた百宅で男鹿島に出合うとは思ってもみなかった。私は幻の島を見ているような錯覚にとらわれたものだ。<br/>
<br/>
島の精神誌<br/>
<br/>
「私は、島に次第に近づいてゆく瞬間が好きだ」<br/>
岡谷公二氏の『島の精神誌』の冒頭はこのフレーズから始まる。島に渡り、島をめぐる島旅に魅せられた人なら誰でもこの言葉にうなずくに違いない。五千トン以上の大型フェリーであれ、百トン足らずの小さな連絡船であれ、港を離れ、未知の島に向かう時のわくわくするような期待感。同時に味わうせつないようなときめき。そして、個別の表情をたたえた島々が、徐々に近づいてくる瞬間の郷愁と憧れが入り混じったような奇妙な感情。何時間にも及ぶ船旅ならなおさらのこと、出港と入港の際に感得するあの高揚とした気分が、島旅を忘れがたいものにする。<br/>
<br/>
私が初めて渡った島は、島根県沖の日本海に浮かぶ隠岐（おき）の島だった。当時、折口信夫（釈迢空）の歌集『海やまのあひだ』に収められている－「この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの　さびしさ」－という歌を愛誦していた。この歌が折口信夫の隠岐旅行の印象から生まれたと解説されていたことから隠岐を選んだのだが、実は私は、隠岐と壱岐（いき）を間違えていたのだった。折口信夫が実際に渡ったのは、九州の玄界灘に浮かぶ壱岐の島で、そのことに気づいたのは隠岐旅行を終えた後のことだ。しかし、私にとって隠岐の島旅の印象は強烈で、その後の数々の島めぐりの旅へのスプリングボードとなった。<br/>
<br/>
長崎港から男鹿島へ<br/>
<br/>
静かな凪の海面に連なるたおやかな瀬戸内海の島々、四国と九州を隔てる豊後水道に忘れられたようにたたずむ島々、個性的な顔貌で孤立しているような吐噶喇（とから）列島の島々、珊瑚礁に囲まれ静止した時の中にまどろむ八重山諸島の島々…。そうした数多くの島との出会いの中でも、特に強い印象を残しているのが五島列島の福江島だ。<br/>
<br/>
長崎港を出てから2時間ほどして現れた島影はどこかで見覚えがあった。福江港の背後にそびえるホマーテ型の火山鬼岳が、その山容といい高さといい男鹿の火山寒風山にそっくりで、そのうえ福江港の街並みも男鹿の船川港とよく似ているからだった。私は船上で、長崎港から連絡船に乗り、男鹿島（そこは私の故郷だ）へ帰郷しているような不思議な思いに満たされたのを、今でも鮮明に覚えている。<br/>
<br/>
幻の島影、幻想の男鹿島<br/>
<br/>
京都府の舞鶴港から日本海を北上し、北海道の小樽港へ至る北日本海フェリーに乗ったことがある。季節は11月末、初冬の日本海は荒れ狂い、私は出港して2時間後にはもう船酔いで動けなくなっていた。なぜこの船に乗ったのかといえば、海上から男鹿の島影を望んでみたいと思ったからだった。<br/>
<br/>
船内に掲示してある航行地図には、男鹿半島入道崎沖の通過予定時刻が書いてあった。私はその時刻になると船酔いでフラフラになりながらも、デッキに出て目を凝らした。風が強く今にも雨が降り出しそうな曇り空。視界はきかず、とうとう男鹿島はその姿をあらわすことはなかった。<br/>
<br/>
でも私は失望はしなかった。男鹿の島影を見られなかったことが、以前にも増して男鹿の《島》としてのイメージをふくらませた。折口信夫がいう《妣（はは）が国》や、遙か海の彼方にあるといわれている来訪神の棲む浄土《ニライカナイ》を男鹿のイメージに重ね合わせ、船酔いの朦朧とした意識の中で、私だけの幻想の《島》を思い描いていたのだった。<br/>
<br/>
（「週刊アキタ」／昭和63年（1988）10月）<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201111/04/48/d0039848_11424871.jpg" border="0" width="400" height="300"/></center>海上から望む男鹿島<br/>
<br/>
<br/>
<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry>
    <title type="text"><![CDATA[PR: 30代、40代必見！年収800万円以上の求人情報満載]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/MZ7gWua261of/F.vdLP4QJVUN?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://bnr.rssad.jp/rss/img/MZ7gWua261of/F.vdLP4QJVUN?type=3&ent=384e6822d6b4058333bad291b64f504e"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > スペシャリスト・エグゼクティブ限定のハイクラス求人／[en]転職コンサルタント </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2011-11-04T11:46:35+09:00</created>
    <modified>2011-11-15T19:30:49+09:00</modified>
    <issued>2011-11-04T11:46:00+09:00</issued>
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  <entry> 
    <title>200字詰め原稿用紙</title>  
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    <issued>2011-09-06T21:37:02+09:00</issued>  
    <modified>2011-09-06T21:36:59+09:00</modified>  
    <created>2011-09-06T21:36:59+09:00</created>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>街</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
「秋建時報」が全面電子化に移行するという知らせが届いた。まったく思いもしていなかったので驚いた。<br/>
<br/>
私が随想欄に最初に寄稿させていただいたのは、１９９４年（平成６年）８月号だった。それ以来、１７年。考えてみれば随分長い間お世話になっている。これも時代の流れなのだろうか。感慨が深い。<br/>
<br/>
そういえば、２００字詰め原稿用紙を目にしなくなってから、もう何年になるだろう。私の初めての本、『秋田いで湯１００泉』（無明舎出版／１９８７年）の原稿はすべて手書きだった。一度書いたものを消しゴムで消し、文章を何度も書き直す…。パソコンのワープロソフトのコピー＆ペーストであっという間にできてしまうこの作業を、当時はエンピツで原稿用紙のマスを辛抱強く埋めていった。<br/>
<br/>
今同じことをしろといわれても、とてもできそうにない。<br/>
私が文章を書くことで生計をたてるようになった２０年ちょっと前には考えも及ばなかったことではある。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成23年4月）
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>旅する若者たち</title>  
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    <issued>2011-06-20T09:56:39+09:00</issued>  
    <modified>2011-06-20T09:56:35+09:00</modified>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>旅</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
２ヵ月ほど前の７月中旬、秋田県との県境に近い青森県深浦町（旧岩崎村）の木蓮寺でJR五能線の風景写真を撮っていたら、「何を撮っているんですか」と声をかける人がいた。ふり向くと、大きなリュックを背負い日焼けした男性が、一段高い道路からこちらを見ている。ひと目見て徒歩旅行中の若者だとわかったので、私のほうが逆に興味をもっていろいろ聞いてみた。<br/>
<br/>
名前はH君。故郷の群馬県の前橋を出発してから東北地方の福島、宮城、岩手、青森と北上、北海道をおよそ１ヵ月かけてめぐったのち再び本州に渡り、今は青森から秋田に向けて歩いているところだという。このあと日本海側を南下し関西へ。四国に渡ったあと九州を経て、最終の目的地は沖縄という。何事もなければ、旅が終わるのは５～６ヵ月先になるだろう、とのこと。<br/>
<br/>
実は私も１０代後半に、彼が歩いてきた北海道南部や津軽西海岸の道を、菅江真澄の旅の跡をたどって数十日かけ歩いたことがある。だから、彼のような若者を見ると親しみが湧き、他人のような気がしない。私に声をかけてくれたのも何かの縁かと思い、持っていたデジカメで彼の姿を撮り、握手をして別れた。<br/>
　<br/>
夏の季節に車を走らせていると、H君のような徒歩のほか、自転車、バイクなどで長距離旅行している若者たちをよく見かける。１０代、２０代には、私も同じように徒歩や自転車でよく旅をしていたので、彼らを目にするたびに若いころの感情がよみがえって懐かしい気持ちになる。そんな時、お金がなかったのでヒッチハイクをすることも多かった私は、恩返しというわけでもないが、ヒッチハイカーがいれば乗せてあげよう、と思う。<br/>
<br/>
ところが、そんな私なのに免許をとってからこれまで乗せたことがあるのはわずか２回だけで、ヒッチハイカーにほとんどお目にかかったことがないのである。<br/>
<br/>
かつて６０年代、７０年代のころは、ヒッピー文化の影響もあって世界中でヒッチハイク旅行を試みる若者がいたが、現在は法令で禁止している国（本場のアメリカでは州）もあり、旅行の移動手段としては世界的に衰退しているようだ。<br/>
　　<br/>
日本はもともと無銭旅行＝ヒッチハイクの文化がなかったので、定着する以前に衰退したともいえる。また、私自身ひんぱんに幹線道路や高速道路（最近のヒッチハイカーは高速のサービスエリアでヒッチハイキングすることが多いようだ）を走っているわけではないので、ヒッチハイカーに出会う確率が少ないこともあるのかもしれない。<br/>
<br/>
私が乗せた２人のヒッチハイカーのうち、ひとりは外国人、もうひとりは女性だった。<br/>
<br/>
外国人は２０代半ばくらいの若いドイツ人で、１５年ほど前、秋田から男鹿へ向けて土崎の臨海道路を走っている時に、道端で親指を突き立てていた。このポーズは万国共通のヒッチハイクの意志表示だ。もちろん親指以外の人差指や中指を立てたら、国によっては大変なことになる。<br/>
<br/>
彼を乗せたとき、ちょうどカーステレオでかけていたのが、ドイツ映画の『ベルリン天使の詩』（１９８７年／ヴィム・ベンダース監督）のサウンドトラックだった。偶然にしてはできすぎていると思われるだろうが、でも、嘘のようなホントの話である。<br/>
<br/>
この映画は有名なので彼も知っていて、まさかこんなところでドイツ語を聞けると思わなかったのか、驚き喜んでくれた。映画で詩を朗読するペーター・ハントケという作家について話をしたかったが、お互い片言の英語ではうまく意志の疎通ができず、男鹿半島の南海岸の門前集落まで乗せ、そこで別れた。<br/>
<br/>
日本を旅行中のドイツの若者が、せっかく男鹿まで来てくれたのにろくな案内もせず、交通量の少ない辺鄙な場所で降ろしてしまった。今思えば、自宅に泊めるなどもっと親切にしてあげればよかったと後悔している。<br/>
<br/>
もうひとりの女性のヒッチハイカーを乗せたのは１０年ほど前のこと。彼女は早朝５時半ころ、秋田南インターチェンジの入り口に立っていた。その日、お昼に福島で取材の仕事があり、朝早く高速道路に乗ろうとした私の車に近づいてきて、東京まで乗せてくれという。<br/>
<br/>
見れば、まだ高校生と思しき若い女の子ではないか。「福島までしか行かないが」と言うと「それでもいい」と言って乗り込んできた。<br/>
<br/>
ひと目のつかいない早朝、若い娘がインターチェンジで東京行きの車に乗せてもらうなんて、どう考えても家出としか思えない。それに見ず知らずの男の車に乗るなんて怖いもの知らずというか、大胆だとは思ったが、私は彼女のプライベートに立ち入る話はまったくせず、福島のサービスエリアまで乗せ、そこで降りてもらった。<br/>
<br/>
彼女には次は運転手が男性ではなく、女性か夫婦の車を探して乗るようにとアドバイスしたが、それを見届けることなく別れた。今でも無事東京に着いたのか、その後どうなったのか、時々気になる。結果的に家出の手助けをしたことになるのだが、彼女とプライベートな話をしなかったのは、私には１０代の娘を説教する度胸などハナからなかったということだと、今にして思える。<br/>
<br/>
私にとって今のところたった２人のヒッチハイカー体験だが、どちらも映画のワンシーンのような、あまり現実味のない話なのが考えてみれば不思議だ。ちょっぴり後味が悪い思いが残っていることも。<br/>
<br/>
ところで、秋田・青森県境で出会った徒歩旅行の若者H君は、今ごろどのあたりを歩いているのだろうか。別れ際に彼の写真を撮った時、私のブログに載せることを了解してもらった。群馬の親御さんや友人たちが万が一インターネットで見ることがあれば、元気な姿に安心するだろう。そして私のブログを見た人が彼をどこかで目にすることがあったら、励ましの声をかけてあげることもできるだろう。<br/>
<br/>
彼とはまたどこかで会えるかもしれない。旅の幸運と無事を秋田から祈ることにしよう。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成２２年９月）<br/>
<br/>
<br/>
<br/>

        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>千人風呂の思い出</title>  
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    <issued>2011-04-03T17:35:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-04-03T17:43:00+09:00</modified>  
    <created>2011-04-03T17:35:20+09:00</created>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>温泉</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
青森県八甲田にある酸ヶ湯温泉は、収容600人のどっしりとした一軒宿で、総ヒバ造りの混浴大浴場「千人風呂」が名物の歴史ある湯治場だ。標高900メートルの高地にあるといっても、青森市街からは約30キロと意外に近く道路も整備されているので、四季を通じて行楽客、湯治客が絶えることはない。<br/>
<br/>
私がこの酸ケ湯温泉を初めて訪れたのは、今から20数年前、高校を卒業した年の晩秋の季節だった。今でこそ青森市と酸ヶ湯間は冬の間も除雪され、宿も通年営業が可能になったが、当時は国鉄バスの運行休止とともに冬期間の休業を余儀なくされていた。観光シーズンが終わりを告げ、長い冬の眠りにつく寸前だったせいか、観光客はまばらで宿は空いていた。<br/>
<br/>
あちらこちらと旅をすることが子供の時分から好きだった私だが、そのころはまだ温泉に関しては未熟者で、知識も経験もほとんどゼロ。それゆえ、旅と温泉が必ずしも結びつくというわけではなく、たまたま旅のルート上に温泉宿があるので利用するというだけのことにすぎなかった。そんな温泉初心者の私にとって、巨大な湯治旅館としての酸ヶ湯のたたずまいは新しい発見であり、驚きであった。そして、何よりも混浴の「千人風呂」での体験が強烈で、今に至るまでの酸ヶ湯の印象を決定づけている。<br/>
　　　     <br/>
　　　　　　　 　  　　　　＊　　　　  　　　 　＊　　　　　　　　　<br/>
　　<br/>
当時は自家発電のせいもあって旅館内はほの暗く、眠りにつく前に入った「千人風呂」は、晩秋のこととて、浴場内は湯気でもうもう、その中を湯治のお年寄りたちがゆらゆらと漂っていた。私も広い浴槽の片隅で、湯気に包まれ、ゆらゆら揺れていたような気がする。と、そばで湯に浸かっていた人がスーッと立ち上がり、浴槽の縁に腰かけた。とたん、アッと息をのんだ。女性だったのだ。<br/>
目の前に突然現れた若い女性の裸身。心臓の鼓動がいっぺんに高く早く鳴り出した。なにしろまだ十代だった私は、女性の裸に免疫ができていなかった。<br/>
<br/>
その女性は、私がすぐ目の前で見ていることを知ってか知らずか乳房を隠すわけでもない。恥ずかしがる様子もなく堂々としている。年齢は20歳前後だろうか。髪が短く少女の面影を残す純朴そうな顔立ち。お湯に濡れて紅潮した皮膚。湯気に包まれて浮かびあがったその裸身が一瞬のうちに目に焼きついてしまった。<br/>
何て美しいんだろう。自然であるがままの肉体の美しさ、存在感。私はこの女性に本当の意味での一目惚れをしてしまったのだった。　　<br/>
<br/>
翌朝、酸ヶ湯を去る前に館内をさがし歩いてみたが、彼女らしい女性は見つけることはできなかった。どこか身体が悪いようには見えなかったから、家族の誰かの湯治についてきていたのだろうか。それとも酸ヶ湯の住み込みの従業員だったのだろうか。あの堂々として屈託がなく、混浴に馴れた様子は観光客ではなく、地元津軽の女性に違いなかったろう。　　　　                         <br/>
　　　　　　　　　　　　　　　　<br/>
　　　　　　　　　　　　＊　　　　　　　　　＊<br/>
<br/>
そして２０数年後。酸ヶ湯の「千人風呂」は、昔も今もその造りと雰囲気は変わらない。ただ脱衣場には「浴槽へは着衣（水着）で入らぬように、混浴は男女の区域を守るように」との注意書きが貼られるようになった。浴槽に男女の境界線ができ、女性専用タイムが設けられてもいる。<br/>
温泉ブーム、秘湯ブームということで若い女性や観光客が押しかけ、それをまたテレビなどが興味本位にとりあげたりするので、かつての混浴風景が様変わりしつつあるのはいたしかたないことであろう。<br/>
<br/>
とはいっても、やはりここは私にとって混浴初体験の特別な浴場だ。ドメスティックな湯治場を巡り歩き、今では混浴にすっかり馴れているはずの私が、いまだに「千人風呂」で湯に浸かっていると、一目惚れした彼女の姿態が湯気の中に見え隠れするようで、何となく胸騒ぎを覚えてしまうのだから。まだ青臭く純情（？）だった10代の私にタイムスリップしてしまうのか、普段、他の温泉では感ずることのない混浴のプレッシャーに、ドギマギして落ち着かなくなるのである。<br/>
<br/>
温泉評論家の大石真人さんは「千人風呂」について、「老若男女恥じらいもなく、大きな浴槽に浸かっているのは、東北の湯治場の本当の姿だ」と述べている。また、津軽出身の作家、今日出海さんは言っている。「この大きな浴場に東北の健康な男女が混浴している図を、都会の不健康な者に見せてやりたい。セザンヌの沐浴図のごとく立派である」と。<br/>
<br/>
2人の言葉に大いに共感し、納得するのだが、こと「千人風呂」に関しては、私は恥じらいのない健康な東北人としては失格のようである。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成８年６月）<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201104/03/48/d0039848_17382878.jpg" border="0" width="350" height="240"/></center>酸ヶ湯温泉自炊部館内
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>台湾旅行の思い出</title>  
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    <issued>2011-01-30T00:24:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-02-03T18:54:38+09:00</modified>  
    <created>2011-01-30T00:24:22+09:00</created>  
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      <name>tabunoki28</name> 
    </author>  
    <dc:subject>旅</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
私にとって台湾といえば、何より台湾映画。候考賢（ホウ・シャオシェン）の「恋々風塵」「悲情城市」、エドワード・ヤン（楊徳昌）の「カップルズ」「ヤンヤン夏の想い出」などの映画にロケ地として登場する台北やその近郊の風景や人のたたずまいがなぜか懐かしく、親しみを覚えるので、行く前から台湾ははじめて訪ねる場所じゃないような気がしていた。<br/>
<br/>
「悲情城市」は、大陸を追われ台湾に逃げ込んできた国民党（外省人）が台湾人（本省人）を弾圧し、２万人を超す犠牲者を出したいわゆる「２．２８事件」を扱った映画だが、情感たっぷりに描かれた九份（ジュウフェン）という鉱山街の風景がとりわけ印象的だった。というわけで、旅行３日目に台北から列車とバスを乗り継いで九份に行ってみた。<br/>
<br/>
山の急斜面に階段状に連なる街は以前住んだことのある長崎に似ているが、メーンストリートは南北に走る一本の石段で、規模はずっと小さい。その石段の両側には、レストランや喫茶店が軒を連ね、観光客がぞろぞろ歩いている。脇道に入るとそこは食堂、市場、みやげ物屋、床屋などがひしめきあい、ものすごい人の群れ。あーあ、「悲情城市」のあの九份はどこに……。<br/>
<br/>
一時はすっかりさびれ、人々から忘れ去られていた静かな街は、映画のヒットで台湾の柴又（？）といわれる一大観光地になっていたのでした。それでも、今は廃墟となった映画館に「恋々風塵」の上映中の看板がそのまま飾ってあったのには、候考賢ファンの私には嬉しかった。 <br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201101/30/48/d0039848_033134.jpg" border="0" width="300" height="235"/></center> <br/>
九份を予定より早く切り上げて時間ができたので、思い切って東部の温泉町・蘇澳（スーアオ）へ行ってみることにした。実は台湾は日本に負けず劣らずの温泉国で、その数１００カ所以上。日本の統治時代に開発されたものも多いが、３年前の１９９９年には「台湾温泉観光年」として官民あげて温泉地の開発が進められた。今は露天風呂ブームとかで、本屋の旅行ガイドのコーナーには、ズバリ「秘湯！」というガイドブックが並んでいるほど（秘湯ということばは日本からの輸入）。<br/>
<br/>
蘇澳は台北から特急列車で２時間ちょっと。途中、太平洋の海原や、宣欄平野の田園風景に心洗われる思い。この懐かしさの感情はどこから湧き上がってくるのだろう。台北の夜市の喧噪より、車窓のアジア的田園風景に心動かされるのは、トシのせいなのかな。<br/>
<br/>
蘇澳駅から歩いて３分のところに温泉公園があった。温泉といっても、ここは台湾で唯一の冷泉で、それも非常に珍しい２１℃の炭酸冷泉。公園内には冷泉の湧き出る石造りの露天風呂（冷泉浴地）があり、水着の老若男女が思い思いに湯浴み（といえるのか？）をしていた。<br/>
<br/>
台湾では見知らぬ人に裸を見られるのを好まないので、露天風呂は水着着用が原則。また、大きな湯舟に大勢で入るという文化もないので、公衆浴場は各個室にひとり用の浴槽が並んだ構造が一般的だ。蘇澳の温泉公園にも露天風呂のほかに冷泉浴室があったので、早速はいってみた。<br/>
<br/>
２畳ほどの個室に玉砂利を敷いたレンガ造りの浴槽がひとつ。２１℃なのでその冷たいこと。がまんして身を沈めると全身に気泡がつく。あがってみるとあら不思議、身体が火照ってる。公園内の屋台で魚のすり身団子と風呂あがりの台湾ビール。ウーン、満足、満足。しかし、いいことばかりは続かない。帰りの列車は身動きができないほどの超満員で、デッキと連結器の上で立ちっぱなしのまま、台北まで２時間揺られるはめになってしまった。<br/>
<br/>
でも、旅から帰った今、不思議なことにこの満員列車が異国での旅の印象深い思い出として刻まれている。それは、一緒に列車に乗っていた台湾の人々が、おだやかで親切だったからだろうか。台北も大都市ではあるが、高密度の割には柔らかでぎすぎすしていない。ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの映画から受ける印象そのままに。  <br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201101/30/48/d0039848_0185639.jpg" border="0" width="379" height="244"/></center>プールのような蘇澳の露天風呂<br/>
<br/>
（無明舎出版ＨＰ「舎員旅行・台湾編」より／平成１４年１０月）
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>銭湯が消える日</title>  
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    <issued>2010-11-01T18:31:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-10-31T18:37:12+09:00</modified>  
    <created>2010-10-31T18:34:40+09:00</created>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>街</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
昨年暮れ、新聞（地元紙）に秋田市手形にある銭湯「手形の湯」が大みそかをもって廃業するという記事が載っていた。<br/>
<br/>
今から30年ちょっと前の1970年代の末、私は秋田市手形にアパートを借りた。秋田市に住むのは、この時が初めて。そして風呂付きの部屋を借りたのも初めてだった。高校を卒業してから、それまで十数回あちらこちらと引っ越し歩いていたのだが、姉のマンションに居候をした時以外はすべて風呂なしの安アパート住まいで、ずっと銭湯のお世話になっていた。その癖？が抜けなかったのか、風呂付きの部屋に住んでも、時々「手形の湯」に通った。手形地区は秋田大学がある学生町で、銭湯は当時まだまだ多かった風呂なしの部屋に住む学生たちで混み合った。そのころ、夕方から始まる仕事をしていた私は、まだ日が高い時間、空いているお昼の銭湯に入るのが好きだった。<br/>
<br/>
その後、手形地区だけで5回引っ越し、ほかに秋田市内の保戸野、将軍野、旭南にも住んだ。保戸野の部屋は風呂がなかったので、「杉の湯」（保戸野通町）、「辻の湯」（大町一丁目）に通った。特にお気に入りだったのが「杉の湯」。昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが棟続きの旧金谷旅館に宿泊した際に入浴したという老舗銭湯で、番台には老夫婦がかわりばんこに座っていた。脱衣所も浴場もこぢんまりとした小さな銭湯だったが、ここに来るとなぜかほっとし、癒された。<br/>
<br/>
藩政時代の羽州街道のなごり“六道の辻”にあった「辻の湯」も、江戸時代末期に開業したという長い歴史を持つ銭湯であった。この「辻の湯」の脱衣場には、詩人の田村隆一氏による次のような言葉を書き連ねたポスターが貼ってあった。   　　 <br/>
「銭湯すたれば人情もすたる。 銭湯を知らない子供たちに集団生活のルールとマナーを教えよ。 自宅にふろありといえどもそのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、ただ体を洗うだけ。タオルのしぼり方、体を洗う順序など、基本的ルールは誰が教えるのか。われは、わがルーツをもとめて銭湯へ」<br/>
ブルー一色に白抜き文字のこのポスターは、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりといい、「辻の湯」だけでなくどこの銭湯でもよく見られたものである。<br/>
<br/>
秋田市高清水岡の麓（将軍野）にいた時は、借りている部屋の狭苦しいユニットバスに入るのが嫌で、土崎地区の銭湯のお世話になった。「山乃湯」（将軍野南）、「みなと湯」（土崎港中央）、「浜の湯」（土崎港中央）、このほかにもアパートから5キロも離れていた飯島の「松ね湯」まで遠征したりした。今ふりかえってみると、よっぽど暇で物好きだったという気もするが、当時はまだ独身だったこともあり、おそらく日々のストレスを銭湯めぐりで発散させ、孤独をまぎらわしていたのではないかと思う。<br/>
<br/>
土崎の銭湯では「山乃湯」がもっとも印象深い。「湯乃山」と右横書きの文字と煙突のある建物だったので、前を通るたび気になっていたのだが、入口にのれん（男湯、女湯）がかかっておらず、外観も廃屋のよう。てっきり廃業した銭湯とばかり思っていたら、中から洗面道具を持って出てくる人を偶然発見、営業している銭湯だと知り、それから建物のボロさに惹かれてよく利用した。<br/>
<br/>
「ボロさに惹かれる」というのは、へんな言い方かもしれないが、どうも私には壊れ廃れてゆくモノに惹かれる性向があるらしい。マンガ家のつげ義春氏が「ボロ宿考」と題したエッセーのなかで、「貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる」と述べているのと、似たような気持ちといったらいいだろうか。<br/>
<br/>
旭南に住んだ時は、さすがにトシのせいか出かけるのが億劫になり、銭湯通いの頻度が落ちたが、それでも「上野湯」（川尻上野町）、「亀の湯」（中通六丁目）、「星の湯」（南通みその町）などを時々利用した。ちょうどそのころ、秋田県内の主な町を電車で訪ね、銭湯に入って一杯飲（や）って帰るという―ただそれだけの小旅行をちょくちょくやった。今から15年ほど前には、鷹巣、十文字のようなそれほど大きくない町でもまだ銭湯が健在で、駅前食堂も何軒かあった。あわよくば、その小さな旅の記録を本にしようともくろんでいたのだが、あまりに地味すぎて出しても売れないだろうと中途であきらめ、いつしか私のささやかな小旅行も沙汰やみになってしまった。<br/>
<br/>
そうこうしているうち、そんな私のディレッタント趣味にはおかまいなく、秋田県内の銭湯はどんどん姿を消していったのだった。平成18年の統計によれば、秋田県内に22軒の銭湯があったというが、4年後の現在はおそらく一桁台まで減少しているのではないだろうか。秋田市だけに限っていえば、昭和39年には秋田市内に44軒の銭湯があったが、「手形の湯」の廃業で、現在も営業しているのは、「星の湯」1軒のみ。私が20代後半から40代後半まで秋田市に居をかまえたおよそ20年間、通った銭湯のほとんどが今はないとは、なんということだろう。<br/>
<br/>
経営者の高齢化と後継者不足、新興温泉施設との競合、建物や設備の老朽化、燃料の高騰、それによる収入減…。廃業の理由は各銭湯によって異なるだろうが、風呂付アパートが一般的になり、一人暮らしの若い人でも銭湯を利用する必要がなくなってしまった。私の若いころと違って、彼らに銭湯はもう必要ないのだ。<br/>
<br/>
だが、そういう私でさえ、もう随分長い間、銭湯を利用していない。ある人がインターネットのブログに次のように書いていた。「世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない」（ブログ「二〇世紀ひみつ基地」）<br/>
<br/>
近い将来、秋田県内から銭湯が消える日が来るかもしれない。しかし、それをとやかく言ったり、感傷的に嘆いたりする資格は今の私にもない。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成2２年４月）
        ]]></content> 
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    <title>海の湯治場　金ヶ崎温泉</title>  
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    <issued>2010-08-04T16:43:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>男鹿半島</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
秋田県で古くから湯治場として賑わったところは、主に奥羽山脈の火山地帯にある山の温泉で、海岸地帯はきわめて数が少ない。だから、男鹿半島西海岸に湧く金ヶ崎温泉は貴重な存在だった。だったと過去形にしたのは、５０年ほど前までは源泉のある海浜に露天の浴槽と宿舎が設けられ、湯治客が利用していたのだが、現在は宿もお風呂もないからだ。　　<br/>
<br/>
東北地方で波打ち際の温泉といえば、青森県の津軽西海岸にある不老ふ死（ふろうふし）温泉が知られているが、金ヶ崎温泉はもっと原始的で野性味にあふれていた。それにこの温泉は人家から遠く離れた隔絶された場所にあり、断崖を下るか海上から行くしかないため、湯治客の多くは船でやってくることが多かった。まさに海の秘湯だったのだ。<br/>
<br/>
その金ヶ崎温泉に久しぶりに行ってみた。温泉といっても入り江の波打ち際にコンクリートの崩れた露天風呂跡が残っているだけなので、正確には温泉跡といったほうがいいかもしれない。温泉跡へはちゃんとした道がついておらず、断崖を下りていかなければならない。<br/>
<br/>
１０年ほど前に行った時は釣り人が設置したと思われるロープを伝って下りたのだが、その場所を忘れてしまい見つけることができず、県道（旧有料道路）の「金ヶ崎温泉」バス停の脇からかすかな踏み跡をたよりに下った。繁茂した草木が行く手を遮り、途中から完全な藪漕ぎ。どうにか浜まで下りて露天風呂跡まで行くと、驚いたことに先客がいた。あとでお名前を聞いたらＭさんといい、現在は秋田市に住んでいるが、生まれはすぐ近くの戸賀集落で、時々温泉の様子を確かめにやって来るのだという。<br/>
（Ｍさんからはあとで「男鹿で生まれ育ったあなたがよく金ヶ崎温泉に来てくれた。うれしく思う」とのお手紙をいただいた。その手紙で秋田県の水環境保全や山岳清掃に取り組み、そのための発言や活動をしている人だということを、知った）<br/>
<br/>
崩壊したかつての浴槽の中にお湯が今も湧き出ていて、直径５０センチほどの円形の湯だまりとなっている。見たら数日前に海が荒れたため、砂で埋まっている。そこをＭさんは手で掘り返し、小さな露天風呂を出現させた。深さは５、６０センチくらいだというので、腰を入れて浸かろうとしたら、アチチチ。熱くて入れない。５０度くらいだろうか。<br/>
<br/>
泉質は近くの男鹿温泉に似た黄土色の食塩泉（ナトリウム塩化物泉）で、成分濃厚なのか湯舟の中には析出物も見られる。泉温も高いので温泉としては第一級といっていいだろう。こんないい温泉を前に指をくわえて見ているだけなのもしゃくなので、お湯を手ですくって、海の秘湯・金ヶ崎温泉を身体に浴びた。<br/>
<br/>
昭和５４年（１９７９年）、この金ヶ崎温泉を引湯して秋田県企業局が２キロ離れた場所に「桜島荘」を開業したが、経営難から民間へ売却され、平成１６年（２００４年）春「HOTELきららか」としてリニューアルオープンし、現在に至っている。ただ、温泉そのものは露天風呂跡から南に２００メートルほど離れた海岸で新たにボーリングして得たものを使用しているので、泉質に若干の違いがあり、こちらは正確には新金ヶ崎温泉と呼ぶべきものかと思う。<br/>
<br/>
金ヶ崎温泉にはちゃんとした宿舎があった。北海道のニシン漁で財をなした戸賀集落の網元が大正年間に建てたというもので、６畳ほどの部屋が４つある長屋風、老夫婦が管理人として住んでいた。その夫婦がＭさんのいとこだったので、戸賀から丸木舟を漕いでよく温泉に入りにきたのだという。当時は陸路は馬がやっと通れるほどの山道しかなく、漁師に頼んで船で来る人が多かった。「皮膚病の人たちや肺病（肺結核）の人たちがたくさん湯治にやって来て、ここで亡くなった人も多い。金ヶ崎で亡霊が出るとよくいわれたものだ」と、Ｍさん。<br/>
<br/>
管理人夫婦が引き払ったのは昭和２５年（１９５０年）ころで、その後もしばらくは放置された宿舎を利用する湯治客がいたというが、嵐などで宿舎が痛み、湯船が崩れるなどして、次第に行く人もいなくなったということだ。<br/>
　<br/>
男鹿半島の四季を歌った『男鹿小唄』という新作民謡に、「渡り鳥さえ濡れ羽を休め、のぞくいで湯の金ヶ崎」という歌詞がある。このことからもわかるように、かつて金ヶ崎温泉は男鹿を代表する海の湯治場であった。こんな観光資源をほったらかしにしておくのはもったいない。ここに夏の間だけでも利用できる浴舎と休憩施設があったらいいのになあ…。入り江に桟橋をとは言わないまでも、ちょっとお金がかかるかもしれないが、県道から下る遊歩道が造れないものだろうか。間断なくぷくぷく湧き出る湯を見ながらそんなことを考えた。<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成20年11月）<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201008/04/48/d0039848_1659976.jpg" border="0" width="400" height="300"/></center>金ヶ崎温泉跡。赤矢印が露天風呂。右のこんもりと木が生い茂っているあたりに宿舎があった。
        ]]></content> 
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    <title>麦秋のころ</title>  
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    <issued>2010-06-15T18:47:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-03T10:42:16+09:00</modified>  
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    <dc:subject>映画</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
小津安二郎監督の作品には、「晩春」、「早春」、「秋日和」など季節を表す題名がついたものが多いが、なかでも気にいっているのが「麦秋」。娘の結婚をめぐって展開する家族模様を描いた小津映画でよくあるパターン、典型的なホームドラマなのだが、ぼくは小津安二郎の最高傑作はこの作品だと決めている。<br/>
<br/>
婚期を逸しかけている娘（原節子）が隣家の子持ちの男と結婚するのだが、その男の転勤先が秋田。この映画のなかで原節子は下手な秋田弁をひとことだけ喋る。つい最近、マガジンハウスから出た写真集を見て、ぼくにとっての原節子の魅力は、大造りでバタくさい顔よりも声にあると思った。あのくぐもったアルトの声質に。<br/>
<br/>
ところで、麦秋とは麦が刈り取られる初夏の季節のことをいうが、麦にとっての秋としたところが日本人の言葉らしくていい。ぼくは1年中で麦秋、つまり今の季節、6月が一番好きだ。秋田の梅雨は7月後半がひどく、6月は結構、晴れの日が多い。それに日が長いので何だか得した気分になる。雨降りも嫌いじゃないし、特に雨上がりの大気の清々しさ、風の運んでくるさやけき香り、揺れる新緑の葉裏に包まれる心地よさといったら…。ホント、おおげさじゃなく生きていることに感謝したくなる。<br/>
<br/>
こんな気持ちがいつまでも持続してくれたらなぁ。<br/>
<br/>
（「NEW FOLKLORE EXPRESS」No.4／平成4年〈1992年〉6月）<br/>
<br/>
※toshibon's essay「こまちと原節子」<br/>
http://tabunoki.exblog.jp/4613391/<br/>
<br/>
** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** **
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>真澄が教えた幻の湯</title>  
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    <issued>2010-05-22T15:42:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-07-01T12:52:01+09:00</modified>  
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      <name>tabunoki28</name> 
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    <dc:subject>菅江真澄</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
新年早々、インフルエンザに罹ってしまい、39度の高熱が3日続き、5日も寝込んでしまった。ようやく治ってから仕事を再開し、菅江真澄の資料を整理していると、以前にも増して、真澄もたびたび熱を出して寝込んでいることに関心が及んだ。<br/>
<br/>
秋田県立博物館の菅江真澄資料センターの来館者に、「真澄は身体があまり丈夫なほうではなかったんですよ」と言うと、ほとんどの方は意外だという感想を持たれた。生涯定住せずに各地を遍歴した歩く旅の達人、といったイメージを持っている人が多いからだろう。<br/>
<br/>
ところがそうしたイメージに反して、日記を読むと気分がすぐれず逗留先で床についたり、旅の途中で臥せっている記述がところどころに出てくる。それも1日や2日ではなく、1週間から10日にも及ぶことが多い。また、特に船には弱かったらしく、船酔いでフラフラになっている姿も日記には珍しくない。外見もどちらかというと小柄で、偉丈夫にはほど遠かったようだ。<br/>
<br/>
どうやら、真澄は持病を持っていたらしい。<br/>
<br/>
『菅江真澄の謎多き生涯』という本で、著者の故佐藤久治氏（元菅江真澄研究会会長）は、真澄は瘧（おこり）、またの名を〃わらわやみ（童病）〃という病気に苦しめられたと推測している。瘧は、毎日か隔日に定期間発熱し、同時に悪寒や身体の震えを発する病気で、間歇熱の一種という。マラリアに似た熱病ともいわれる瘧が真澄の持病であるという説は、私もかなり信憑性を持っているのではないかと思う。<br/>
<br/>
この真澄持病説に関連して、佐藤久治氏が次のようなもうひとつの仮説を著書で述べているのも興味深い。<br/>
「持病のわらわやみには温泉が最適と真澄は思ったようで、県内の温泉を好んだ」「わらわやみは東北の寒冷からきたもので、温まればと温泉を求め歩いた。温泉に詳しい一面も持病にあると思う」<br/>
 <br/>
真澄の持病と温泉訪問が、はっきりした関連性をもっているのか断定はできないが、真澄の温泉好きは日記を読めばすぐにわかることで、秋田県内だけでも約50泉、自分が足跡を印した土地のほとんどの温泉を訪ねている。その中のひとつに栩湯（橡湯）という今は廃湯となった湯治場がある。私は15年ほど前、この幻の湯治場・栩湯（とちゆ）へ急に行ってみたくなり、栩湯探しに出かけてみたことがあった。<br/>
<br/>
栩湯は秋田県の最南端、雄勝郡皆瀬村の小安温泉のほぼ真南の山中にある。真澄がこの温泉を訪ねたのは文化11年（1814）。当時から、すでに雄勝郡には泥湯、小安、大湯、湯の岱、川原毛、栩湯などの温泉場があった。それぞれに浴舎が設けられ、湯治客がつめかけていたことは、真澄の図絵などからもうかがい知れる。<br/>
<br/>
真澄が記録した温泉のうち、この栩湯と川原毛の湯には現在、宿も浴舎もない。川原毛温泉は滝壺が天然の露天風呂となる最後の秘湯、大湯滝として多くの観光客が訪れるようになり、すっかり有名になった。しかし、栩湯の方は、どんな温泉か今では誰も知る人はいない。温泉のガイドブックにも、皆瀬村の観光案内にも見つけることはできず、すっかり忘れられた温泉となっている。ただ、5万分の1地図やいくつかの道路地図には、国道398号の新処集落から山道を示す点線が伸び、5キロほど先に温泉マークが載っている。<br/>
<br/>
温泉までの道順を聞くため、栩湯へ向かう山道の登り口にある新処集落の佐藤さんというお宅を訪ねた。そこで幸運にもスエノさんという78歳（当時）になるおばあちゃんから、戦前から戦後にかけての栩湯のお話をうかがうことができた。<br/>
20歳の時、湯沢からここに嫁いできたというスエノさんの若い時分は、栩湯と切っても切れない関係にあったようだ。かつての栩湯の話を昨日のことのように話してくれた。<br/>
<br/>
…日帰りには難儀な場所なので、栩湯にやってくる湯治客は十日から半月滞在する。そのため米、味噌、醤油はもちろん、食器、調理用具、燃料、布団に至るまで運ばなければならなかった。一度に十貫目（約三十八キロ）もの重さの荷物を背負って山道を一日二回も往復した。一回運んで五十銭だったからいい収入になった。<br/>
また、自宅で採れた野菜などを売りにいった。湯治客がやってくるのは五月から十月まで、冬の間は閉鎖した。最盛期には百人以上の湯治客が集まり、長屋のような三棟の宿舎が満杯になった…  <br/>
　<br/>
新処から小安温泉へは南に1キロ足らず、その先には大湯温泉があり、ひとつ山を越すと泥湯温泉がある。それぞれに泉質が異なるため、湯治する人たちは自分の身体の状態に合わせてこれらの湯をめぐっていたのだという（ちなみに栩湯はアルカリ性泉、小安は食塩泉、泥湯は硫化水素泉、大湯は硫黄泉、川原毛は酸性泉）。<br/>
<br/>
栩湯の最後の経営者は三梨村（現稲川町）の人で、昭和30年代の初めごろに廃業したという。新処には11軒の家があるが、昔の栩湯を知る人も少なくなった。スエノさんも、もう20年以上も栩湯には行っていないということだった。<br/>
                        <br/>
（「秋建時報」平成１４年２月）<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201007/01/48/d0039848_12515872.jpg" border="0" width="351" height="263"/></center>倒壊した栩湯の温泉宿舎の残骸（1988年撮影）
        ]]></content> 
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    <title>秋田のかすべ料理</title>  
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    <issued>2010-04-11T15:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2010-04-11T16:06:52+09:00</modified>  
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    <dc:subject>民俗・伝承</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
先般、ＪＲ東日本のＰＲ誌（新幹線の座席などに置いている車内誌）のコラムの仕事で、秋田のかすべ料理を取材する機会をもった。かすべとは、ガンギエイ科のエイの総称で、主に北海道と東北地方の日本海側で用いられている呼び名。秋田では古くからエイのヒレ部分の干物（干しかすべ）を食材としたかすべ料理が、日持ちのよい食べ物として親しまれてきた。なかでもよく知られているのが秋田市土崎の港祭り（土崎港曳山まつり／土崎神明社祭典）のかすべ料理だろう。<br/>
<br/>
毎年７月２０日、２１日に行われる祭りは、かつては「かすべ祭り」とも呼ばれていた。干しかすべを一昼夜水につけて戻し、いったん水煮し柔らかくなったところで砂糖（ザラメ）、酒、醤油でじっくり煮つける。このかすべの煮つけが、祭りのもてなしに欠かせない料理だったことから、その名がついたといわれている。日本でガンギエイ（かすべ）が水揚げされているのは主に北海道。それがなぜ秋田の祭りでもてはやされるようになったのだろうか。<br/>
<br/>
土崎は古くからの港町で、江戸時代から明治時代にかけては日本海を往来した北前船の寄港地として栄えた。北前船は上方への帰り船で蝦夷地（北海道）からさまざまな物資を運んだが、干しかすべもそのひとつだったのではないか。土崎のほか、能代の夏祭り（日吉神社、八幡神社の祭典）でも干しかすべの煮つけが食べられているので、かつての日本海西廻り航路の港の交易が、かすべ料理にその痕跡を残しているといえそうだ。<br/>
<br/>
ただ、夏祭りの酒席になくてはならなかったかすべ料理も、最近は作る人がだんだん減っているらしい。今はかすべより見た目がよくておいしいご馳走がいくらでもあるうえ、かなりの時間をかけて煮込むので、調理に手間がかかるせいもあるのだろうか。<br/>
<br/>
PR誌のコラムは、東日本各地に伝わる伝統的な食材を飲食店を介して紹介するという内容なのだが、かすべを昔ほど食べなくなったこともあって、土崎地区も含めて秋田市内で常時かすべ料理を提供しているところは珍しく、探すのに大変苦労した。<br/>
<br/>
ようやく探し当てたのが、秋田市山王にある「くもりのちはれ」という酒房。この店には以前、別の場所でやっていた時に何回か飲みに行ったことがあるのだが、当時はかすべはメニューになかった。オーナーのKさんによると、移転してから秋田の伝統的な料理づくりに積極的に取り組み、そのひとつとしてかすべ料理もメニューに加えたのだという。一般家庭では以前ほど食べられなくなったかすべだが、美肌効果のあるコラーゲンを含んでいるので、女性客が好んで注文し食べているというのが、意外だった。<br/>
　<br/>
メニューを見て気が付いたのは、干しかすべによる伝統的な煮つけ（甘露煮、山椒煮）のほか、「生」のかすべを使った料理も提供していること。秋田市で生のかすべが流通するようになったのは、ここ１０年ほどのことらしく、一般にはまだあまり馴染みがない食材といっていい。<br/>
<br/>
北海道で獲れるガンギエイ（かすべ）には、メガネカスベ（真カスベ・本カスベ）とドブカスベ（水カスベ）と呼ばれている種類があり、真カスベのほうが値段が高く味もよいという。「くもりのちはれ」では、この生の真カスベを煮つけ、ぬた、一夜干し焼き、唐揚げなどで供している。料理の写真撮影が終わってからこれらを一品ずついただいた。<br/>
<br/>
秋田でのかすべ料理の代名詞ともいえる干しかすべの煮つけ（甘露煮）は、こりこりした軟骨とぷよぷよしたゼラチン質の食感が独特。甘露煮なので酒と相性がよくないように思えるが、甘辛い味が不思議とビールに合う。夏の暑い時期に食べられるのもむべなるかな。<br/>
<br/>
生のかすべ料理は初めて食べてみた。身はけっこう肉厚でふんわりと柔らかく、味は魚と貝の中間のよう。軟骨魚類特有の臭みもない。どれも酒の肴にぴったりの絶品。生のかすべ料理がこんなにおいしいものとは思ってもみなかったので、驚いた。<br/>
<br/>
今回の取材のために調べてわかったのだが、かすべが水揚げされる北海道では昔から生が流通しているので、秋田のような干物は全くといっていいほど食べないらしい。生かすべを煮つけて一晩置くと、ゼラチン質の煮こごりができる。それをご飯にかけて食べる「かすべの煮こごり」や、日常の総菜として天ぷらや唐揚げにして食べるのが一般的だという。<br/>
北海道でかすべの干物を取り扱っている水産加工会社は、そのほとんどを東北地方、それも日本海側の青森県津軽地方、秋田県、山形県に出荷しているそうだ。<br/>
<br/>
冷凍技術がなかったころは、魚は干物にして船で運ばれたので、北前船の寄港地だった地域に干しかすべを水で戻して煮つけにする食べ方が根付いたのだろう。特に秋田県では生もの料理に頭を悩ます夏の暑い時期の行事食（土崎や能代の夏祭りなど）や、鮮魚の乏しい内陸部の冬場の保存食として重宝されるようになったと思われる。<br/>
<br/>
秋田県と同じくかすべ煮をよく食べる山形県では、かすべを「からげ」あるいは「からかい」ともいうらしい。この名前は江戸時代に山形の米貿易を牛耳っていた近江商人が、「中国（唐）の貝」（つまり「からかい」）だといって法外な値段で売りつけたことに由来するという。真偽のほどはわからないが、かすべの語源は安くてまずい「魚のカス」という意味から名付けられたという説もある。当時かすべの干物は関西地方では肥料として使われていたというから、この話もあながち嘘ではないような気もする。<br/>
<br/>
いずれにしても秋田のかすべ料理は、東北の日本海側の気候風土と、食材に乏しかった時代の主婦たちの知恵の中から生まれた食べ物であるには違いない。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201004/11/48/d0039848_15572735.jpg" border="0" width="300" height="200"/></center>生かすべの煮つけ<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201004/11/48/d0039848_15574233.jpg" border="0" width="300" height="225"/></center>干しかすべの煮つけ<br/>
<br/>
（「秋建時報」平成19年11月）
        ]]></content> 
  </entry>  
  <entry> 
    <title>Station To Station ―都市に棲む島―</title>  
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    <issued>2010-01-04T17:01:00+09:00</issued>  
    <modified>2011-11-04T11:52:06+09:00</modified>  
    <created>2010-01-04T17:01:15+09:00</created>  
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      <name>tabunoki28</name> 
    </author>  
    <dc:subject>旅</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
◇意識の記念物◇<br/>
<br/>
高知から大型フェリーで東京へ。　かすかにローリングする船のリズムに身をまかせて折口信夫（釈迢空） の歌を呟く。<br/>
<br/>
この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの　さびしさ<br/>
<br/>
人も馬も　道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの　かそけさ<br/>
<br/>
葛の花 　踏みしだかれて、色あたらし、この山道を行きし人あり<br/>
<br/>
「葛の花～」から連想する継続した時間の流れ、それは均質空間の、ただ流れ去るだけの均質化された時間ではなく一瞬の時に支配された永遠のことだ。<br/>
<br/>
外洋から東京湾にはいり、観音崎をかすめぼんやり霞む巨大都市を見遙かした時、私は見知らぬ惑星に降り立つ異星人のような気持になっていた。夢の島から放たれる異臭と至るところに咲き乱れるセイタカアワダチソウ。もうこの都市に棲むこともないだろう。<br/>
<br/>
東京から新潟経由で秋田に向かう。日本海沿いに北上する羽越線の列車が本荘を渦ぎるあたり、左前方にみえてくる島影。島の輪郭がはっさりするにつれてそれは陸続きの半島だとわかる。東北地方の日本海側、単調な海岸線を唯一乱している男鹿半島を車窓から望むと同時に湧き上がるある感情。それは《島》へ渡る時に決まって現れる懐かしさの感情だ。元来は男鹿半島も《島》であった。雄物川、米代川が運んだ土砂で陸地と繋がってしまい、いわゆる陸繋島となったのだ。<br/>
<br/>
私はこの半島の南岸に位置する“椿”という名の漁村で生まれた。村の中心にはヤブツバキで覆われている小高い丘があり、ツバキの自生北限地として国の天然記念物に指定されている。温暖な南の地方の植物であるツバキがここだけに群生しているのは、考えてみれば不思議なことだった。南に連なるといえば、子供の頃、浜で幾度か椰子の実をみつけた。もちろん当時は「海上の道」など知るよしもないから、サッカーのポール変わりに蹴飛ばしたり、石にぶつけたりして遊んでいたものだった。<br/>
<br/>
男鹿半島は日本海にコブのように突き出ている為に漂流物が多い。浜廻りの習慣が盛んだったのも寄り物が多いためだ。沖縄西北海城で黒潮の一部は西へ分岐し、九州西岸を北上して対馬海峡から日本海へはいる。対馬暖流と呼称される潮流は椰子の実だけではなく気まぐれに様々のものを運んできただろう。<br/>
<br/>
またこの潮の流れにのった日本海西廻り航路による北上。その往古の動きがもたらしたものは、言葉や、民謡の一節など南西地方の文化とともに、ツバキの種子も運んだのではないか。―Station→To→Station―ツバキはそれゆえ天然記念物ではなく、港から港へ渡り歩く南の人々がもたらしたささやかな意識の記念物ではなかったろうか。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/04/48/d0039848_17464691.jpg" border="0" width="303" height="380"/></center><br/>
◇Stationとして◇<br/>
<br/>
長崎に棲んでいた時、長崎県立図書館の１階ロビーに掲示してあった１枚のポスターを持ち帰り、ジャズ喫茶『Ｋ』の裏、薄暗い私の部屋にそのポスターを貼り、日がな―日眺めていた。それは電通の広告作文コンクール募集のポスターで、現在「ニライカナイ」の店の正面に貼ってある地図は、そのポスターから文字を切り取ったものだ。<br/>
<br/>
細長い日本列島を正方形に細かく分割し、それをコラージュによって再構成したはぼ円形の日本。ある種の異様さを見る者に与えるこの地図は、また同時に新鮮なイメージを喚起させる。「古代緑地」そして「妣が国」は、きっとこのような形をした《島》に違いなかろうと―。<br/>
<br/>
かつて隠岐の島や五島列島の福江島に渡る船上で私が想い続けていた幻想の《島》。静かな凪の海面に反射する陽光のきらめきを透かして次第に姿をみせる島影。その時口をついてでたのは「島へ渡る時はただの旅人（Passenger）、島から帰る時はまれびと（Visitor）」というフレーズだった。<br/>
<br/>
私はいつか一個の椰子の実になろうとしたことがあった。また菅江真澄になろうとしたこともあった。様々な都市をめぐり歩いて秋田に棲む現在、私はPassengerとしての意識を遠く離れようと思う。またVisitorの悲しみも感得せぬようにと願う。ニライカナイの扉を開ける“まれびと”たちを待ち続ける―Station To Station―のToではなくStationになりたいと―。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/04/48/d0039848_1754633.jpg" border="0" width="380" height="327"/></center><br/>
（object magazine『遊』／昭和５５年(1980)４月）<br/>

        ]]></content> 
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  <entry>
    <title type="text"><![CDATA[PR: ソウル3日間3名様で3万円！H.I.S.初夢フェア]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="center" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/MZ7gWua261of/ON7vvjxWznPv?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/MZ7gWua261of/ON7vvjxWznPv?type=3&ent=e1dda5c2e2648ec19ea656f45cb7c1d1"/></a></td><td> &nbsp; </td><td valign="top" > 3万円でなんとロサンゼルス5日間ツアーへ激安！30万名様分以上の商品をご用意！ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2010-01-04T17:01:15+09:00</created>
    <modified>2011-11-04T11:52:06+09:00</modified>
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    <title>考現学のキッチュな日々</title>  
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    <dc:subject>街</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
1970年代の中ごろ、神奈川県鎌倉市に1年ばかり住んだことがあった。あちらこちらの都市を転々と引っ越し歩く浮浪者まがいの生活を続けていた私が、そこで熱中していたことはと言えば、鎌倉の銭湯を調べることだった。<br/>
<br/>
市内にある5軒の銭湯の番台の高さ、座っている人物の特徴、脱衣カゴやロッカーの位置利用者の服装と晨物の種類、浴槽の形、蛇口の数とお湯の出具合、冷蔵庫の中にある清涼飲料水の銘柄‥‥等々。それらをノートに図解入りで書き留めていた。中でも浴場内の壁面に描かれているベンキ絵の絵柄は　特に力を注いだ研究対象であった。<br/>
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こんなことをやりだしたきっかけは、民俗学に興味を持ち図書館通いを日課としていた私が、柳田国男や折口信夫の全集と並んで書架にあった今和次郎全集に遭遇したことに始まる。<br/>
<br/>
大正から昭和初期にかけて考古学に対しての考現学（モデルノロジー）を提唱したこの人の仕事が、「もの好き」「デイレッタント」としての私の感覚にぴったり来るものがあった。例えば丸ビル界限にやつてくるモガたちを追跡し、克明に記録（採集）した「丸ビルモダンガール　散歩コース」の意味のない面白さにわけもなく感動したのだった。<br/>
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そこで私も考現学採集のまねごとを銭湯において実践してみたというわけだ。さらにそのころ、故石子順造の評論集『キッチュの聖と俗』を愛読していたので、キッチェという言葉の響きが私の変質者的視線と呼応し合い、目玉を銭湯のぺンキ絵とむかわせていた。<br/>
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ちょっと一般社会の規範からズレているもの、簡単にわりきったり意味付けできないもの、街を歩いていると出喰わす時代を感得させる様々な風俗、意匠。一瞬のまばたきの間に移り過ぎていく時間のきしみ、または停上した記憶が宇宙人の忘れ物のように痕跡となって残っているモノたち‥‥。<br/>
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考現学とキッチュのフィルターを通して世の中を覗き見ることが、今この時、極東の島国に生きていることを自覚させ、スピリッツが1969年で切れてしまった（イーグルス「ホテルカリフォルニア」）と歌われた70年代、黄昏の日々を退屈せずに過ごさせてくれたのだった。<br/>
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（「あぶみ書房通信」／昭和62年〈1987年〉5月）<br/>
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