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  <title>ゆうゆうゆうぜん歩録（美術や音楽、夢日記などの六味感想戀態思惑歩録）</title>  
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  <modified>2012-05-27T02:28:11+09:00</modified>  
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  <tagline>ゆうゆうゆうぜんと毎日綴る『六味感想恋態思惑歩録』</tagline>  
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    <title>●『愛の選択～産婦人科の女医』</title>  
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    <issued>2012-05-26T23:59:00+09:00</issued>  
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      <name>uuuzen</name> 
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    <dc:subject>●鑑賞した韓国ドラマ、映画</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
産婦人科を巡るドラマで、医療ものとしては異色だろう。ＴＶ大阪で毎朝９時からやっていたものを録画して見た。<br/><br/>３階に置いている１４型のテレビデオでいつも２時間テープに３倍速で録画するが、一昨日はもう始まっている次のドラマを標準速度で撮ってしまった。そのために録画してまだ見ていない分が２話消えた。そこで現在放映中のものは見ないことしたので、このカテゴリーは次回は少し間が開く。さて、韓国ドラマでは時代劇も含めてやけに医療もの、あるいはそうでなくても医者がとてもよく登場する。それはほとんど半数以上ではないだろうか。そして、医者はいつも金持ちとして出て来るが、この『愛の選択』はそういう面をほとんど描かず、産婦人科を訪れる人々の人間模様と、医者の間のロマンスを主題にしている。前者について言えば、さまざまな患者が２，３話ずつ登場し、そのたびに区切りがついて行く。そうした方法は戦後のアメリカの医療ドラマ『ベン・ケーシー』にもあったし、ＴＶドラマの基本形のひとつになった。同じようにこの『愛の選択』も様々な病気、患者を登場させれば、１００回でも可能であった。それが全１６話で終わったのは、最初から脚本を吟味し尽し、評判がよくてもその回数で終わる予定であったのだろう。また、実際その方がよかった。というのは、患者のドラマの方はいくらでも話を増やすことが出来るが、それと並行して描かれる医者同士のロマンスは１６話を超えると間延びする。正直なところ、筆者はその点は１６話でももどかしかった。その理由は、ヒロインのソ・ヘヨンを演ずるチャン・ソヒが女医としてはいかにも本物らしいが、彼女を巡って３人の男が恋の鞘当てをするという設定にリアリティが感じられなかったからだ。また、男としてはドラマを見ながら、美女を鑑賞出来るのが楽しみでもあるのに、ヘヨンはまことに素気なく、男のようにぶっきらぼうで、最後の２，３話は見ていて腹が立つほどに言い寄る男性につれなかった。それはともかく、ヘヨンが本物の医者らしく、あまり美人でない点はいいとして、ヘヨンに好感を持つ３人のうちのふたりは若くて男前の医師で、実際に彼らが本物の医者とすれば、ヘヨンに迫るだろうか。ヘヨンにそれほどの女の魅力があると感じられない。それに、ヘヨンは３人の男のうち、最も年配の医師の子を孕んでおり、そのこともあって左遷されて別の病院にやって来た。そこで若い医師ふたりに出会うのだが、ふたりともヘヨンが妊娠していることを知りながら、結婚の願望を抱く。ヘヨンは終始それには一切なびかず、かといって孕ませられた年配の妻子持ちの医者にぞっこんというのでもない。ヘヨンは子を孕んだままでは仕事に差し障りもあるし、また相手の男とは結婚も出来ないので、別の病院で堕そうとしたりするが、ドラマの最終回に至っても妊娠したままで、子をどのように産むのかは描かれない。それにしても初回から不倫の子を孕む産婦人科の女医が主人公として出て来るところに、韓国ドラマも現実味を帯びて来て、複雑な問題を描くようになっていると思わせられる。<br/>
　そのシリアスな点を歓迎する向きはきっと多いだろう。女性は特にそうだと思う。だが、韓国ドラマは視聴率を稼ぐ必要上、あらゆる世代が見てもそれなりに楽しめる工夫をしている。たとえばヘヨンの恋愛問題は３０から４０代の人向きだが、２０代のまだ結婚していない人が興味を持てる部分がちゃんと用意されている。それは同じ病院で医師として働く、『トキメキ☆成均館スキャンダル』に出演したソン・ギュンジュ演ずる若い男性アン・ギョンウと、同僚の若い看護婦のヨンミだ。ごくごく簡単に言えば、ヘヨンの恋は、ヘヨンが何を考えているのか、まるで能面のように表情を変えずに淡々としているので少しも進展しないのに対し、ギョンウとヨンミの恋は、小鳥がじゃれ合うようにくっついて行く。それが現実でもあるので文句はないが、女も３０代になると、妻子持ちと関係を持って妊娠し、しかも別の男と結婚するというのが現在の韓国であり、これは日本も同じであろう。もちろん人が違えば性格が異なるので、ヨンミが結婚せずにそのまま１０年ほど経てばヘヨンのように不倫の子を孕むのかと言えばそんなことはないが、ドラマの登場人物たちをたとえと取るのであれば、女は２０代で結婚しない場合は、ヘヨンのようになる可能性が大きいと思ってもいいことなる。そういう一般的な認識が前提にあってこそ、このドラマが現実的であると評価もされる。そこで思うのは前回取り上げた『恋愛マニュアル～まだ結婚したい女』だ。３０代のキャリア・ウーマンは収入面では男に引けを取らないが、結婚への願望があったり、またそれがなかっても期待しない妊娠があって、やはり男とは違うという現実を味わわせられる。このドラマの核は、毎回用意されている患者たちと医師たちの絡みよりも、病院に勤務する者たちも普通の人間で恋愛もするということで、しかも２０代と３０代という対象的な２組だ。このように、韓国ドラマは必ず複数の恋愛を平行して描き、そこに脇役を絡ませる。その絡ませ方があまりに狭い世界でのこととして御都合主義的に描かれることが多いが、このドラマでは病院という閉じられた世界であるだけに、無理を感じさせない。特に韓国的だと思わせられるのは、患者の態度だ。あまりに感情を出し過ぎで、ここまで熱いと医者は困るだろうなと思うが、それが韓国なのだろう。また、跡継ぎとしての男児をほしがるのは日本と同じとしても、より儒教社会的な様子が垣間見える。それに、優秀な、つまり頭のよい子でないと世間に対して恥ずかしいという思いが日本以上に強いようで、そのことが大学進学率の高さや、またこうした医療ドラマが量産される背景にあると感じられる。その意味で現在の韓国を知るにはもって来いではないか。<br/>
　まず、ギョンウとヨンミのふたりは、それぞれ別々に見合いなどするが、惹かれ合うものがあって、結局お互いの家庭の事情などを乗り越えて結婚に漕ぎつける。一言すれば何も顧みずに純愛を貫いた形で、このドラマ、あるいは韓国が理想とする恋愛を見る思いがする。そのことを先に少し書いておくと、ギョンウの一族は頭のいい者ばかりが揃っていて、そのことを一族は大いに自慢している。ところが大きな欠点をギョンウは抱えている。親が２０億ウォンの負債を抱えており、その返却のためにギョンウを金持ちの娘と結婚させたがっている。そこのとにギョンウは辟易しており、同じ科に勤務するヨンミをほのかに好いている。ドラマの終盤になってようやくふたりはお互いを必要と心に決めるが、親を交えて話をする段になった時、ヨンミ一家は相手の一族がみな頭脳優秀であることを知らされる。そこがギョンウ一家のいやらしさで、それをこのドラマは誇張気味に描くが、実際そういう一家はいるだろう。韓国に限らず、医師であることを口には出さずとも内心大いに自惚れているのが現実であろうし、ましてや多額の負債を抱えるギョンウ一家が息子をだしにして借金を返そうと思っても、そういう俗物の塊のような人間はきっといると納得させられる。また、そういう一家がこのドラマに登場することを、「やはり韓国人はさもしく、人間的に劣った人種だ」といかにも単純に考えてしまう単細胞頭の嫌韓派も多いことと思うが、ドラマであるから誇張はつきものであり、またこのドラマではいかにもギョンウの親たちをマンガ的に強欲の権化に描いていて、現実はそういう人間がいるとしても、それは唾棄されるべき存在と誰しも思っていることを代弁している。そうであるからこそ、ギョンウはごく平凡な家の娘であるヨンミとの結婚を決める。しかもリアリティがあるのは、そのヨンミが卵巣に筋腫が出来て手術をするという設定だ。結婚前の娘がそのような病気になるという設定からも、このドラマのシリアスさがわかるだろう。また、ヨンミがそんな体になってますます結婚に反対されてもギョンウは諦めない。そこには若者の純粋な、いわば模範的な恋愛が描かれていて、韓国の倫理感の一端を見る。ただし、現実がそうではなくなっているので、せめてドラマだけでも理想とする形を描いておこうという脚本家の思いなのかもしれない。<br/>
　このドラマではギョンウやヨンミとは正反対の人間の心も描いている。たとえば、ピアニストの女性が患者として登場する。彼女は末期癌で、夫と別れようと考えている。夫の両親がとんでもない連中で、嫁の芸術を皆目理解しない。夫は妻に優しい言葉をかけるが、そのすぐ後で夫が友人に電話している様子をヘヨンは聞いてしまう。その内容は、妻が後１年ほど生きれば保険金が入るというものだ。妻を金としか見ていないのに、離婚しようと言う妻を説得するためにうわべだけの優しさを与えているのだ。ヘヨンはその夫の企みを妻に言うことは出来ない。そのようにヘヨンは医療現場で次々とさまざまな醜い、また悲しいドラマを見続ける。そうそう、これは何年も前に書いたが、筆者の知り合いのおばさんの娘が女医をしている。そのことをおばさんは筆者にこう言ったことがある。「大山くんのようにきれなものを見てそれを作品にする仕事が一番いいわよ。娘は病院に勤務しているけれど、病人はみな不幸を抱えてやって来るから、その暗いオーラに常に接しているのは、こっちまで暗くなるそうよ。」 そういう暗い思いを少しでも明るくするのが医者の使命であることを医者は重々承知しているが、このおばさんの言わんとすることはわかる。たとえばの話、筆者が医者として、目の前に次から次へと問題を抱えて藁にもすがる思いの患者が訪れるとして、そうした人々とは違って筆者は健康な、そして世間的にも尊敬され、また生活にも困らない立場にあるから、患者に対してどこか申し訳ないような気分にさいなまれるだろう。あるいは、それはまだ良心がある方で、患者を治してやるのだから、自分は尊敬されて当然、病気になる方が悪いのだとドライにかまえるかだが、筆者はおそらく医者なるものがそういう思いを抱かない限り、前に次々と現われる患者に治療を施すことが出来ないのではないかと同情もし、そのことによって医者はいやだと思う。患者の悲しみを思うことは当然としても、患者はあまりに多く、そのたびに限りない同情を与えていては、とても体も心も持たないのではないか。だが、だからといって、患者を商品のように思えばさらに悪いから、医者になるには普通の神経では無理だろう。これも前に書いたが、医者が尊敬される存在であると自他ともに認めているのであれば、筆者は医者は経済的には社会で最も底辺にあってよいと思う。つまり、金のことなど考えず、最低限の生活が出来ればよいと考える人が医者になるべきだ。もっとも、開業医でない限りは、ほとんどそれに近いのかもしれない。そのことはこのドラマを見ても想像出来る。ヘヨンや彼女に言い寄る若いふたりの男性は、病院から当てがわれたマンションに住み、たいては白衣を着て病院に詰めている。<br/>
　さて、ヘヨンはいつもクールな表情で、妊娠を同僚に隠しているのでもない。相手が誰かと詮索されるのはいやであるし、また男ふたりからいろいろとおせっかいをされるのもいやで、お腹が目立って大きくなって来るまではそのまま仕事を続けようという考えなのだろう。男ふたりというのは、ひとりは１０数年前からの知り合いワン・ジェソクで、これをソ・ジソクが演じる。もうひとりはイ・サンシクで、コ・ジュウォンが演じているが、筆者はこのふたりの演技を初めて見た。ソ・ジソクはやや不良っぽく、コ・ジュウォンはいかにも真面目といった感じで、ふたりとも役柄にぴたりであった。このふたりともヘヨンが妊娠していることを知っており、また相手が誰かをうすうす感じている。この不倫の相手役との間は、ヘヨンはすっかり醒めてりが、男の方はヘヨンが妊娠しているのが気がかりで、またふたりの男が言い寄っていることを知って内心穏やかではなく、ヘヨンにまた元の病院に戻そうと提案したりする。どういう経緯で不倫関係になったかは描かれないが、よくある大人の話として理解出来る者だけがこのドラマを楽しめる。また、設定として面白いのは、産婦人科の女医が妊娠していることだ。そしてヘヨンは未婚の母にはならずに堕胎しようとするが、保護者が必要と言われて断念し、そうこうしているうちに結婚したいという若い男性がふたりも出現するのであるから、これはハッピーエンドだ。ところが、そう簡単にそんな結末を描けば安っぽくなるので、寡黙ながらもヘヨンが心を揺らす様子を描かねばならない。それが素気ない表情となったのだが、先に書いたように、そこにかわいさの片鱗すらなく、ジェソクとサンシクが結婚したいとまで思う心境がわからない。ドラマでは最後の最後までヘヨンはどちらにもなびかないような素振りだが、新薬の開発のために渡米するサンシクを結局は待つ。これは最初から予期されたことで、それでこそ後味もよく、安心して見終えることが出来るだろう。というのは、このドラマはエイズの母親からの出産や奇形児、女子高校生の妊娠と出産、超未熟児などなど、妊娠と出産が常に歓迎ばかりはされないという側面を多く取り上げており、そのことによる医師の辛さや、またどんな子であっても受け入れるのが親という倫理感など、難しい問題が毎回登場し、先の話ではないが、患者の暗い境遇が見る者に影響を及ぼす。そういうところに、男女が好きになって結ばれるという、ごく自然な愛情を結末に持って来ることは全く必然でもあって、このドラマはじらしにじらしたその結末によって価値を大いに高めている。１６話でよくまとめたもので、無駄がないのは見事と言える。ただ、筆者はヘヨン役は別の女優にしてほしかった。<br/>

        ]]></content> 
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    <title>●嵐山駅前の変化、その２０９（ホテル）</title>  
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    <issued>2012-05-25T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-26T00:13:53+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●駅前の変化</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
扶養の義務と言われると困ってしまう。筆者の母親は厚生年金基金に長年加入していたので、正直なところ、筆者より年収がはるかに多い。<br/><br/>それを母親は情けないと思っているが、筆者が金の亡者にならなかったのは、母親に育てられたからであり、経済的に不甲斐がないのは、母の責任でもあるとほとんど開き直っている。さて、今日もまたこの駅の変化シリーズに投稿することにしたが、掲載する写真は去年５月３０日の撮影だ。ちょうど１年ぶりとなる５日後に投稿しようと思っていたが、ここ数日のうすら寒い天気で風邪を引いたのか、微熱がずっと去らず、ほかのカテゴリーに投稿する気力がない。それで、昨日あたりから急に大きな話題になっているお笑い芸人の母親が受給していた生活保護に絡めて書くことにした。話を戻すと、母は今は妹宅のすぐそばに住んでいる。妹が面倒を見ている形だが、実際は母は経済的に自立していて、妹にしかるべき費用をわたしている。母が自立出来ているのは、数十年の間、厚生年金を積み立てたからだ。それに母は３０代まではリューマチに悩まされ、その痛み止めの薬を筆者が買いに走ったことも何度かあったが、いつの間にかリューマチはきれいさっぱりなくなり、その後は病気らしい病気をしたことがない。母方は長命の筋で、９０代まで生きるだろうと妹は先日も語っていた。全く８５歳とは思えない迫力があって、筆者がただひとり頭が上がらないのは母だ。その母が健康でしかも経済的に自立しているおかげで筆者はこの年齢まで好き勝手なことをして生きて来られた。母は筆者に将来面倒を見てほしいと言ったことはないし、子に迷惑はかけたくないと内心思っているのではないだろうか。筆者も息子には迷惑をかけたくない。また、たまには親の喜ぶ何かをしてほしいと思ったこともない。願いと言えば、楽しく生きてほしいということのみだ。ところが、それが一番難しい問題のようで、息子は傍目には鬱屈した日々を送っている。それにもちろん親のために何かちょっとした食べ物を買って来るとか、レストランに連れて行くといったことも一度もしたことがないどころか、たまに筆者は息子を誘って家族３人で食べに行く。息子が親に偉そうな口を利くと、筆者がいつも言うのは、一切親がかりにならない生活、つまり完全に自立してから物を言えと諭す。この経済的に自立した生活というのが今の若者には難しいのだろうか。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/26/94/d0053294_0134785.jpg" border="0" width="500" height="330"/></center><br/>
　先日の子ども神輿の日に若い母親と話したことは書いた。その時、彼女は最近は結婚してもすぐに別れる女性が多いと言った。それにそういう女性は子どもをひとりやふたりは抱えているから、経済的に困窮している。それで生活保護にかかるのだが、すぐ近くに夫が住んでいて、夜になるとやって来る。離婚は偽装なのだ。生活費に困るからそのようなことをして民生にかかる。家内もそういう若い夫婦を知っていたが、それなりに抱えている事情を聞くと暗澹たる気持ちになった。生活保護についてこんな思い出もある。８０年代半ばのことだ。筆者はある呉服商からキモノを染める注文をもらった。出来上がったものが相手は気に入らず、染め直した。その呉服商にはふたりの子があった。娘は日本舞踊を習い、祇園の歌舞練場で豪華な発表会を開くほどであった。そのチケットをもらったので見に行くと、息子がビデオ・カメラを回して妹の踊りを撮影していた。どう見ても中流の上といった生活ぶりだ。ところが、この夫婦は生活保護を受けていた。不正受給だ。どうして収入をごまかしているのか知らないが、もらえるものはもらっておこうという考えだ。これが筆者には理解出来ない。そういう強欲を恥と思わない連中とは親しくなりたくはない。その夫婦は今生きていれば筆者の母と同じ８０代半ばであろう。これはまた別の話。友人のＮはある設計会社の専属の下請けをして年収は１０００万を越えていたが、生来の交際嫌いから仕事をもらうのにぺこぺこせず、敵も作っていた。そのうえ不景気になって仕事の減少が明らかになって来た。そういう頃、筆者に収入の心配をしたことがある。筆者は生活保護のことを話した。するとＮはそんな制度があるとは知らなかった、それでは仕事がなくなればそれを受けようと笑いながら言った。それに対して筆者は、自分名義の家や車を持たず、資産が何もない場合に限ると言った。たちまち失望の色を浮かべ、それなら早いこと死んだ方がましかと返した。実際その数年後には亡くなったが、当時仕事が激減していたのかどうか知らない。ともかく、生活保護を受けずに死んだことは確かで、Ｎはプライドを保つことが出来た。もうひとつ書いておく。中学生の頃の友人Ｍが独身のまま肝臓癌で死んだのは去年のことだ。そのことをＭの姉の喪中はがきで知った。Ｍはほとんど崩壊寸前に見える木造の連棟の借家に住んでいた。姉に電話をかけて初めて知ったが、Ｍは一級建築士の資格を持ちながら、長年生活保護にかかっていた。そのことをＭが筆者に言わなかったのは、せめてものプライドがあったのだろう。なぜ生活保護にかかったのかは知らないが、気弱なＭは営業が出来ず、姉から敷金を出してもらって開いた事務所も数年で閉めた。そして肝臓を悪くしていることに気づいて病院通いが始まった。収入がなく、病気であれば生活保護の対象になるだろう。姉は金持ちに嫁いだので、弟の生活費くらいはどうにか出来たと思うが、嫁ぎ先にそれを言って許してもらえるだろうか。親族に金持ちがいても生活保護を受けることになる事例は多い。<br/>
　筆者の母は２０代半ばで子３人を抱えて生きて行かねばならなかった。あまりの貧困で、ガス管をくわえて自殺しようと思ったこともあると聞く。ある日、そういう生活を見かねて母に助言してくれた年配の女性がいた。生活保護を受ければいいと言ってくれたのだ。母は区役所に行き、早速受給が認められた。毎月どれほどの支給であったか知らないが、母はこれを長年屈辱と思っていて、毎月区役所にもらいに行って来た後、とても不機嫌であった。係員は毎月わが家にやって来て家の中を隅々まで調べる。ＴＶがないのはあまりまえ、冷蔵庫や洗濯機も当然、米がどれほど残っているかまで確認する。プライヴァシーのかけらも当時はなかった。本当に生活に困窮している世帯だけにわたすということが徹底していたと思う。生活保護は筆者が中学を出る時まで受給したが、高校に進学するのであれば、定時制高校ならば受給資格はあるが、そうでない場合は経済的に余裕があるとみなされて打ち切られた。高校に行けばどうにかアルバイトも出来るので、母は喜んで生活保護打ち切りを選んだ。その時の母の晴れ晴れした顔は忘れない。いくらただでもらえるものであるからといっても、その屈辱的な扱いを思うと、二度と受けたくないと語った。母は生活保護費と自分の収入だけでは生活が立ち行かず、２か月に一度くらいは泉大津に住む叔父の家に無心に行った。母に連れられて叔父の家に行った日々のことは忘れない。叔父は筆者が学校の成績がいいのでいつも大変喜んだが、それでも学費を着前よく出してくれたことはごくわずかであった。母の悔しさはどれほどであったかと思う。だが、筆者は金を儲けるという思いが欠如していて、いつか金持ちになって見返してやろうという思いを抱かなかった。まことに不甲斐ないの一言だが、Ｍのように生活保護にかかるようなことにはなりたくないと思っている。それに筆者は人に金を貸したことはあるが、銀行ローン以外に借りたことはない。ともかく、母が生活保護を受けなくなってから、日本は急速に金持ちになった。そして今では戦後の最も受給者が多かった時代よりも保護を受ける世帯が増えている。そして、何よりもなくなったのは、母が思ったような恥の思いだ。<br/>
　お笑い芸人が有名になって年収５０００万はあるのに、母に相変わらず生活保護を受けさせていた。これを非難する書き込みがネットでは満載だ。そこで思うのは、扶養の義務だ。たいていの親は子に頼りたくないと本来は思っている。親や兄弟でもお金の話は別なのだ。生活保護の受給は、親族に余裕がない場合と定められている。この親族は親兄弟、姪や甥まで含む。だが、実際問題として、姪や甥が生活に困窮していて、それを助ける親族がどれほどあるだろう。それほど日本は家族、一族が一致団結した運命共同体としての意識を全員が持っているだろうか。一族の中である者のみが経済的に困れば、それは他の者から疎まれるであろうし、本人も恥じて親類とはつき合わないようにするだろう。年収５０００万もありながら母に生活保護をもらわせ続けたというのことが法律的に問題となるのであれば、その息子の年収がいったいどこまでならそれに抵触しないかということを明らかにせねばならない。たとえばの話、その芸人は年収１００万に満たないので母に受給させたと言うが、１００万でも多いと言う意見がいずれ出て来ないか。１００万でも親子でどうにか餓死しないで食べることは出来るだろうし、実際にそういう親子はいるに違いない。筆者が思うに、その芸人の５０００万という年収が面白くない連中が騒いでいる。芸人を引きずり下して「ざまあみろ」と言いたい根性だ。そういう連中がどれほど親孝行しているのか、ともかく最低限は自立しているべきだ。そのうえ、一族に貧しい者がいれば、自分の食べるものを削ってでも生活を援助するという覚悟を持ってもらわねばならない。昨夜のＴＶコマーシャルに、ダウンタウンの松本が出ていて、「正直もんが損をするという奴に限って正直もんはおらへん」といったものがあった。まさにそのとおりで、今回の芸人の母の生活保護事件で言葉の限りでののしっている書き込みを拾い読みすると、背筋に寒いものが走る。生活保護の仕組みが曲がり角に来ていると言われるのは、日本経済が下降線をたどり始めているからだろう。金に余裕のある時代は、政治家は自分の懐が痛まないものであるから、どんどん金をばら撒いたではないか。生活保護の仕組みだけがおかしいのではなく、改善しなければならない問題が山積している。その一例が大阪市の職員の給料カット問題もあるが、先に書いたように、戦後のいつからか、急速に恥ということを知らない世代が急増した。これは学校教育を改めれば済む問題か。それは違うだろう。日本が金持ちになるにつれて必然的に抱えることになった内的腐敗のようなもので、いつかまた経済的貧しい国になれば昔のようになるだろう。ただし、それを望む人が多いとしての話だ。戦後の闇市が盛んであった時、米を買わずに餓死した裁判官がいた。人はそれを融通の利かない馬鹿と思うか、聖人のように立派であったと思うかさまざまであろうが、裁判官のようにみな餓死していたならば、戦後の復興はなかった。清濁合わせ飲むという言葉があるが、清ばかり強く主張する者に限って濁にまみれていることを自覚しない。<br/>

        ]]></content> 
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    <title>●嵐山駅前の変化、その２０８（ホテル）</title>  
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    <issued>2012-05-24T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-25T00:42:06+09:00</modified>  
    <created>2012-05-25T00:32:02+09:00</created>  
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      <name>uuuzen</name> 
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    <dc:subject>●駅前の変化</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
優しくしてもらった記憶は幼い頃からある。同じほどにいやな思いもしているはずだが、それらはなるべく思い出さないようにして、優しくしてもらったことを思い出すように、人間の心は出来ているのではないだろうか。<br/><br/><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/25/94/d0053294_0321596.jpg" border="0" width="500" height="330"/></center><br/>
いやな記憶を忘れないでいると、顔つきまで歪んで来て、誰が見ても「いやな人」ということになる。そのため、いやなことをされた相手を憐れむようにすると、やがてあまり思い出さなくなる。今日も昨日に続いて、ちょうど１年前に撮った駅前ホテルの写真を載せるが、昨日とあまり変わらない。文章までいつもと同じではよくないなと考えながら、さて何を書くべきか。展覧会や映画など、何か特定のことについて書くのでない場合、かえって頭を抱え込む。冒頭の一字も未使用のものがなかなか見つからず、パソコンの白いＷＯＲＤ画面の前で３０分ほど何もしないでいた。すると子どもの頃に優しくしてくれたおじさんの笑顔や声が浮かんで来た。すぐに「優」を冒頭の一字に使ったかと調べると、意外なことに未使用だ。それでようやくこれを書き始めることが出来た。ついでにその優しい言葉をかけてくれたおじさんについてまずかく。大阪に住んでいた頃、３００メートルほど離れたところにＡ君一家が住んでいた。Ａ君とは小中合わせて同じクラスになったことはないが、Ａ君のすぐ近くにＹ君がいて、彼とはクラスが同じであったこともあってＡ君もよく知るようになった。だが、本当はＹ君を知るよりもっと前にＡ君を知った。それはＡ君の父親による。その人は結核で長期入院していた。当時筆者は小学２，３年生であった。母は家から１キロほど離れた病院に勤務していた。比較的大きな病院で、ベッド数は１００から２００だったと思う。結核患者が多くいた。筆者は放課後、何かの用事で母がまだいる病院に行く必要がたまにあった。勝手がわかっていて、玄関からさっさと入って行く。その姿を、待合室でたむろしていたＡ君のお父さんやそのほかの大人が見て、「大山さんの息子さんやで」と筆者に聞こえる声で話した。Ａ君のお父さんはこんなことも言ったことがある。「こーちゃん、あんまり病院に来ない方がええで。小さな子は菌をもらいやすいからな。なるべくさっさと帰りや。」 このことを母に言うと、同じ意見であった。病院に行くたびにＡ君のお父さんに会った気がする。子猫や子犬をかわいがるように筆者の頭を撫で、これ以上の笑顔はないという表情をしてくれた。当時は筆者もかわいかったのだろう。Ａ君は大柄で勉強はあまり出来なかったが、とても温和な性質であった。Ａ君には５，６歳上の兄と姉がいて、ふたりとも今でもよく顔を覚えている。Ａ君は中学を出て高校に行ったのかどうか。その頃にはお父さんは亡くなったと思う。２０歳少し前にはＡ君はトラックの運転手になっていた。Ａ君は筆者の上の妹が好きで、もし許せば結婚したいと思っていたのではないか。２０歳を過ぎてからたまに筆者に会うたびに、Ａ君はしきりに妹のことを訊き、そして誉めた。だが、妹はやがて京都に嫁いだ。その頃、お互い生活のリズムがすっかり違ってしまって、筆者はＡ君と会わなくなった。Ｙ君とは数年に一度は会う。去年は娘が京都で結婚するので出席してくれないかと電話があった。Ｙ君はすでにＡ君の近くには住んでいないが、情報は集まるらしく、筆者がＡ君のことを訊ねると、同じ家で元気で暮らしているとの返事であった。<br/>
　Ａ君のお父さんのことを長年経ってから母に話したことがある。母もＡ君のお父さんからは、小学低学年の筆者が母を訪ねて病院にやって来ることをよくたしなめられたらしい。親切な気のいいおじさんであったというが、それは子どもの筆者でもわかった。筆者は今この年齢になって、幼い子どもに優しいおじさんと記憶されたいと思うが、残念ながら、あまりそういう子どもに出会う機会がない。自治会長をしているので、地蔵盆の時などは子どもたちに顔を売るには絶好の機会で、また彼らは筆者のことを覚えているようだが、優しく話しかける時間が限られている。いや、それは問題ではないはずだ。Ａ君のお父さんに見つめられ声をかけられた時間は、全部合わせてもおそらく５分に満たない。それでも強烈に覚えているのは、例外的なほどに筆者を優しい思いで見つめ、また声をかけてくれたからだ。筆者の幼少期はそういう大人にめぐまれていた。指折り数えて次々に思い出すことが出来るし、鼓舞された言葉や笑顔を今でも鮮明に記憶する。そういう大人はほとんどは死んだはずだが、筆者の心の中ではいつも蘇らせることが出来る。ところが、そういう大人の中に父は混じっていない。父を本当に意識する重要な時期に、父は筆者の前からいなくなった。その消失感が筆者のその後の人生をあらゆる意味で変えた。ま、それはいい。今日の文章を書く前に思い出した別のことがある。これも人の優しさだ。１０数年前、筆者は自分の個展会場に、出版されて間もない『大ザッパ論』を４，５冊積んでおいた。誰か買ってくれるかもしれないとの考えからだ。３０代半ばか、身なりからしてそう裕福でもないような女性が入って来た。そして本に気づいた。筆者が書いたものと知ると、中身を調べもせずに１冊ほしいと言った。どう見ても彼女が読んで面白い内容ではない。そのことを多少ほのめかしたが、彼女は５０００円を出した。そのことを思い出すたびに筆者は、「悪いことをした」という罪の意識にさいなまれた。ほしくない相手であっても、とにかく売りつける商人の考えが筆者には理解出来ない。買った人が本当に喜んでこそ、売り手も幸福であるべきだ。それが今では何も売らずに、騙して金を巻き上げる若者がいる。さきほどのネット・ニュースに、そうしたおれおれ詐欺のグループが逮捕されたとあった。３０億ほどの金をお年寄りたちから巻き上げたというから、これは終身刑ものではないか。話を戻すと、彼女は筆者のどこを見て本を買ってくれたのか。その優しい行為に感動したが、彼女は後で本を読み始めてすぐに投げ出したはずで、それを思うと、胸がちくちく痛んだ。ところが、この半年ほどは「悪いことをした」との思いがかなりうすらいだ。工作舎の石原さんが東京の古書店で『大ザッパ論』が価格の倍以上の値段で売られていることをメールで伝えてくれた。ネットの「日本の古本屋」で調べると、どの古書店にも在庫がない。１０数年間に新たなザッパ・ファンが生まれ、彼らが探しているのだろう。再版していないので、今後も価格は上がるかもしれない。あるところでは１万５０００円の値札がついていた。出版当時の３倍だ。このことを、筆者の個展会場で買ってくれた若い女性に何かの拍子に知ってもらいたい。そのことで彼女は、筆者から買ったことを後悔から得した思いに塗り替えることが出来るのではないか。筆者はそう考えることで彼女に対して申し訳ない気持ちを拭い去ることが出来る。彼女が買った本に筆者はサインをしておけばよかった。前にも書いたが、『大ザッパ論』にサインをしたのは５冊のみだ。そのため、それら５冊はサインのないものより、わずかでも価値が出るかもしれない。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/25/94/d0053294_0422262.jpg" border="0" width="500" height="320"/></center>
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    <title>●嵐山駅前の変化、その２０７（ホテル）</title>  
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    <issued>2012-05-23T23:58:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-27T02:28:11+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●駅前の変化</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
刃物でぶすりとやって逃走した男の姿が写真に撮られていた。それがＴＶやネットなどで一斉に公開されると、１日で捕まった。<br/><br/>その画像は鮮明ではなく、それに東京に千万人以上も住むのであるから、とても逮捕されないだろうと思っていたが、スピード逮捕は公開写真を見た人たちが警察に知らせたことによる。こうなると、さらに監視カメラが設置されるはずで、そのことを危惧する意見を蹴散らすだろう。それはともかく、衝突と言うほどではなく、たぶん強く擦った程度と思うが、そのことが頭に来て刃物で刺すというのは、おちおち歩いてもいられない都会を今さらに思い、同じような男が１０倍、１００倍はいて、同様の事件が連鎖的に生じるかもしれないとも心配するだろう。だが、今回の事件を起こしたような人間が大都会にわずかにしろ混じっていることの方があたりまえだ。そして、それは矛盾とするようだが、同じ事件は東京の１００分の１程度の人口の地方都市でも起こり得る。人と接しなくても、いつどこで事件や事故に巻き込まれるかわからない。筆者は歩いていて人とぶつかる、あるいはぶつかりそうになることはしょっちゅうで、そのたびに相手から先にすいませんと言われるが、それは筆者がサングラスをかけてちょっと恐いおっさんに見えるからかと思ってみたりする。だが、いつかブスリと刺されるかもしれないから、歩く時はぶつからないようにせねばならず、また運悪く刃物男にぶつからないことを祈るしかない。それにしても、この男は大家さんからはごく普通の生活をしているように映っていたようで、ごく普通の人間がカバンに刃物を忍ばせ、むしゃくしゃした時にブスリとやるのであるから、今までにも何度も暗闇で同じことをしていたかもしれない。そう思われても仕方のない事件で、こういう男がいることに強い嫌悪感を覚える。それほどに現在はストレスが限界に達している社会となっているのだろうか。この刃物男の事件を思いながら、本当は別のことに筆者は嫌悪の情を催していた。それを書いたところで読者もいやな思いをするだけであるので書かないが、ひとつだけ書いておくと、先ほどこのＥＸＣＩＴＥブログで紹介のあったブログをたまたま読んでのことだ。それはおそらく上位１０に入る人気ブログなのだろうが、そうとう頭の悪い単細胞が書いていて、しかも同類が群がって盛り上がっているだけのことだ。ま、そういう連中は好きでそういう恥さらしをしているのであるから、放っておいてやるのがいい。さて、その書かないでおくことにした話とは別に、先日ある人から意外なことを耳にした。そのことがずっと頭から去らず、思い出すたびにむしゃくしゃする。それを家内に言うたびに、またその話かという顔をするが、それほどに面白くない話であった。今後の成り行きを見守る必要があるが、現時点での思いを言えば、世間は筆者の想像を越えて厚顔無恥がまかり通っていることだ。そういう連中と触れ合わないようにして生きて行きたいが、それは困難だ。「今さら何を言うてまんねん、大山さん。あまりに世間知らずでっせ。気のええようなことばっかりしていたら、ええように利用されるだけでさっかいにな。」といった声が響いて来ることを想像するが、根性の悪さに触れると犬の糞を踏んだ以上にいやな思いがする。<br/>
　ここ数か月では昨日の訪問者数が最大ではなかったか。１２５であった。記事別アクセスを見ると、１位は「嵐山駅前の変化、その４７（ホテル、桜の林）」で、それに関連して検索キーワードでは第２位から４位までが順に「嵐山樫原線」、「道路拡幅計画」、「京都市都市計画図」となっているので、京都のしかも嵐山の開発に興味を抱く人物が何ページも見たのだろう。さて、今夜の写真はちょうど１年前、去年５月２３日の駅前ホテルだ。ほぼすっかり姿を現わした。青いシートで覆われていた間に、着々と向こう側では工事が進んでいた。普段と変わらぬ様子を人目にさらしながら、覆いと取ればすっかり姿が変わっている。こういう態度を見習うべきであろう。さて、このカテゴリーは駅前の開発についてなるべく述べるつもりが、写真を見れば明らかでもあって、文章は全然それとは関係のないことになっている。また、地元のことを書くと差し障りも多々出て来るので、なおさら写真とはちぐはぐな内容となっている。それはそうと、昨夜２か月ぶりだろうか、ＧＯＯＧＬＥ ＥＡＲＴＨのストリート・ヴューでこの阪急駅前を見たところ、以前と変わっていなかった。もうそろそろ新しい写真を載せるべきと思うが、町内をよく配り物でうろつく筆者はＧＯＯＧＬＥの撮影車に遭遇することがあるかもしれないと少しは期待もしている。それはほとんど刃物男にブスリとやられるほどの確率と思うが、現在のストリート・ヴューに載る阪急嵐山駅前は早朝の６，７時で、その時間帯に毎日歩けば確率は１００倍かもっと上がるだろう。だが、夜更かしの筆者はまずそんな時刻に駅前を散歩することなど絶対にしない。そのため、ストリート・ヴューの撮影車に遭遇する確率は刃物ブスリの１００分の１に落ちるだろう。つまり、絶対にないということだ。ま、それはどうでもいいので、まではすっかり違ってしまった駅前を早くストリート・ヴューは載せるべきだ。そうそう、金環食の日に気づいたが、駅前の様子にまた変化があって、出来て１０年ほどになるだろうか、ホテルのすぐ際にあった有料トイレが撤去されることになった。このトイレは人気があったのかなかったのか、筆者は入ったことがない。そこから徒歩で２００歩とないところにわが家があるし、また駅の中のトイレを借りることも出来る。その有料トイレは１回１００円で、確か１５分間扉が閉まった状態になる仕組みであった。入った人から聞くと、中はかなりきれいであったそうだ。２か月ほど前か、夕暮れにその前を通った時、中から３０歳ほどの男女が揃って出て来た。ラヴ・ホテル代わりに使っていたのだろう。１５分で済ます必要上、かなり焦ったであろう。「セックスの場に使うな」とは書かれていないし、きれいなトイレであれば、またほかに利用する人がなければ、そんな用途に使うことは防ぎようがないだろう。昔はそのトイレから徒歩２００歩ほどのところにラヴ・ホテルがあった。またこれは最近自治会の人から聞いたが、その人の家のすぐ近くにもラヴ・ホテルがあった。そこは今は独身者用のマンションになっているが、なるほどラヴホにふさわしい場所で、その静かなさびれたマンションの際を歩くたびに、ひんやりと湿った空気を感じる。そのようにラヴホが嵐山からなくなったので、その有料トイレは隠れたセックス処理場となっていたのかもしれない。それがなくなった今、恋人たちは嵐山では不自由するか。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/23/94/d0053294_002792.jpg" border="0" width="500" height="330"/></center>
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    <title>●『裸の島』</title>  
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    <issued>2012-05-22T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-26T00:14:49+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●その他の映画など</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
裸の島といえばヌーディスト専用の島かと思ってしまうが、この１９６０年に公開された日本映画は、人間が生きる姿の赤裸々さを描くという意味で「裸」と題したのだろう。<br/><br/>また、これは映画の内容とは関係のないことかもしれないが、新藤兼人監督が自ら設立した近代映画協会が資金難のために解散寸前となり、その最後に記念として低予算で撮ったことにも大いに関係あるだろう。つまり、大手の映画会社から独立したプロダクションを１０年ほどに作ったはいいが、その夢も破れかけ、この映画を撮った後、また裸一貫で出直そうという思いもあったのではないか。だが、その最後の賭けに監督は勝った。その意味で現在１００歳を越える監督の代表作にもなった。先日この映画のＤＶＤを右京図書館で借りて来た。目を引いた理由は、数年前、乙羽信子が主であったか夫の新藤監督を紹介する番組であったか忘れたが、ＴＶで特集を見たことによる。その中でこの映画が紹介されていた。同番組では、乙羽の遺骨がこの映画が舞台になった瀬戸内海に撒かれたことも伝えていた。それほどに乙羽にとっては生涯でも最も忘れ難い作品であったことを知ったので、いつか見たいと思っていた。これは今回知ったが、この映画は映画音楽や登場人物の歌声、叫びはあるが、セリフは一切ない。そこは少々無理をしている場面も多少あるが、言葉を用いないという実験的覚悟は、それはそれで監督の意思として納得出来る。映画はいくらリアリズムを目指しても、「作り事」だ。つまり、技巧が欠かせず、わざとらしさのようなものは観客に伝わる。それを責めるのは映画を含めて作品ということを理解しない素人だ。たとえばの話、このブログも同じだ。筆者は投稿の際に表示されるトラックバック・カテゴリー欄から「小説・詩」を選ぶことが多い。本当は「ブログ」や「その他」がいいが、現実にあったことを歪曲せずに書く日記のような内容であっても、読み手にとっては「読み物」で、それは「小説」と大差ないという思いがあるからだ。それはさておいて、作り事でありながら、それが現実であるかのように思わせるのが、映画監督の腕前だ。そうなるとドキュメンタリー映画の監督はどうなるだろう。ドキュメンタリーは、そこに描かれることが全部事実ということが信じられている。だが、事実とは何か。全部事実ですよと謳いながら、それは監督が考えたひとつの見方だ。拾われなかった、また拾うことが不可能であった部分が必ず存在し、そのことで真実は微妙に歪む。あるいは、監督の思いこそが真実であるとの思い込みが必要で、ドキュメンタリー作品もフィクションの映画と大差ないことになる。実際そうではないか。作品を見る方は、ドキュメンタリーも娯楽映画も、見た時間が惜しくなかったと思わせてもらえるのでなければ、駄作としてすぐに忘れる。フィクションに真実味が宿るのであれば、その反対にドキュメンター映画にもフィクション性が混じるし、またそういう一種の技巧、技術がなければ真実味を獲得出来ない。そのため、ドキュメンタリー映画の方がたちが悪いような気がする。真実を伝えると言っておきながら、嘘の混入が不可避であるからだ。そういう考えをこの『裸の島』は抱かせる。<br/>
　１９６０年は半世紀前だ。当時筆者９歳であったので、この映画に流れる空気はよくわかる。だが、日本が世界に冠たる金持ち国になってから生まれた今の若者はそうではない。そのため、ネットに書かれるこの映画についての感想は、世代間の意識の差を如実に示している。いかにも若者が書いたような意見もそれなりに思いはわかるが、そうした意見で残念なのは、作品が時代とともに風化してしまう現実と、作品が言いたい本質を理解しようとする能動性の欠如だ。だが、若者は多忙であるし、つまらないと思った作品をそれ以上に深く考えることはないから、この二番目の能動性は言う方が野暮だ。では、筆者もこの映画に対し、前者の「作品の風化」を感じて、予想したほどには面白くなかったのかと言えばそうではない。この作品がぎりぎりの低予算で作られたことは、観客にとってはわからない裏事情であるし、ひとまずどうでもいい。また、主役の乙羽と、その夫役の殿山泰司のふたりが、近代映画協会所属の仲間で、たくさんの候補の中から選んだのではないため、どう見ても本物の夫婦には見えないという違和感を覚える人は多いのではないか。筆者はまずそう感じた。乙羽は宝塚出身で「１００万ドルのえくぼ」ともてはやされた美人、一方の殿山は禿げ頭でひと癖もふた癖もあるような風貌の名脇役だ。映画を最後まで見ても、このふたりがなぜ一緒に暮らして小さな島で畑を苦労して耕すのかという疑問は去らない。その思いはほとんどの若者も抱いているようだ。だが、思い出すことがある。筆者が京都に出て来て数年の頃のことだ。夕食はほとんど毎日勤務先の近くの食堂で済ましたが、ごくたまにすぐ近くにあった中華料理屋にも行った。カウンターだけの小さな店で、夫婦でやっていた。主は４０くらいだろうか、両眼の間が狭く、顔の小さな男で、笑顔を見せたことがない。奥さんは３０くらいの瘠せ型で、旦那にはもったいない色白の美人であった。その奥さんは中華鍋を操る主人を恐れているようで、やはり笑顔を見せなかった。そういう店にはふさわしくない雰囲気の女性で、薄幸そうな雰囲気がいたたまれなかった。それに、愛想のかけらもなく、威圧するような主人の顔がいやで、行きたくはなかったが、毎日通う食堂が休みの時には仕方がなかった。夏になると、店の４枚ガラスの扉のすぐ下の溝から大量の蚊が発生し、それが店内に飛び回った。それらを叩く、あるいはラーメン鉢の中からすく上げる様子を見ながら、店の夫婦は「すいませんね」の一言も言わなかった。客が小さくなって食べる店が長く続くはずがない。そのうち店はなくなった。あの夫婦ではそれも当然かと思った。それにしても、その夫婦を見ながら思ったのは、世の中には夫には不釣り合いな美人妻があるという事実だ。であるから、この映画の乙羽と殿山の夫婦役は夫婦としてはお互い似合っていないだけに、かえって現実の夫婦らしい。これをたとえば、韓国ドラマによくあるように、いかにもお似合いの男女を夫婦役にすると、嘘っぽい作品になった。「現実は小説より奇なり」と言うように、リアリズムさを発揮したいのであれば、あえて違和感があると思えるような設定が効果を発揮する。<br/>
　また、乙羽と殿山の夫婦がいつからどういう理由で島に住むようになったかは描かれない。それはまた別の話であり、ここではとにかくふたりが男子ふたりと一緒に島で暮らしながら、過酷な農作業を連日しているというところから物語が始まる。この過去がわからない設定は、一家四人が終始無言であることとうまく釣り合ってもいる。とにかく、「今」を生きており、それでいいではないかという思いだ。もちろんその思いは監督のものであり、また一家のものでもある。そして、観客にもその思いが伝わる。そのように過去を詮索しても始まらないとの思いは、前向きでよいと言えるが、それは語るべき重要な過去を持たない貧しさでもある。この一家の場合にはこの双方が当てはまる。そこでまた１９６０年という時代だ。東京オリンピックの４年前であり、まだまだ日本は貧しかった。そして、言わずとしれたように、自然は豊かであった。そのふたつがこの映画には見事に描かれている。舞台となった周囲数百メートルの小さな島は今は無人島となって、島全体が樹木に覆われている。この映画が撮影された当時は島の上半分の大半は段々畑で、麦やサツマイモが栽培されていた。ところがそのための水を８００メートルほど離れた別の島から手漕ぎの船で運ばねばならない。その作業を日に何度も夫婦は繰り返す。また、島の土地が自分たちのものかと言えばそうではなく、収穫の一部は地主に納めねばならない。そんな貧しい小作農が１９６０年にいたのかと今は疑う若者が多いだろう。この半世紀で日本は全く別の国になった。誰も手漕ぎの船で桶４杯の水を運ぼうとはしない。そんな労力があれば、もっと手軽に収入を得る道はいくらでもある。それにまず役所が放っておかない。仕事を斡旋するか、公団住宅に住まわせるか、あるいは生活保護費を支給する。だが、１９６０年はそんな余裕は日本にはなかった。これは前に書いたことがある。１９６０年頃、筆者の大阪の生家から１キロほど離れた近鉄電車の高架下の道路沿いに小さな小屋が不法占拠していた。前を何度も通りがかったことがあるが、たまに中で暮らす夫婦と男子が見えた。その子は筆者より３、４つ下で、たまに小屋から出て筆者の方をにやにや見た。筆者はその小屋を見るのが辛かった。いつ壊れてもおかしくないほどの小さな、またあまりにひどいボロさで、狭い中で電気もガスも水道もなく、どうやって暮らしているのか不思議でならなかった。そんなことを思いながら３，４年経った頃か、その小屋がなくなった。聞くところによると、公団住宅に空きがあって、そこに入れたとのことだ。どん底の貧しい暮らしをしていると、そのように棚からボタ餅式に家まであてがわれるのだなと子ども心に思う一方で、あのにやにやしていた子が学校にまともに通ってそれなりに友だちが出来るのはいいことだと、ほっとした。だが、案外その子はその後の頑張りで大きな財産を作り、どこかに小さな会社を持っているかもしれない。この想像は荒唐無稽ではない。そのように人の将来はわからないものだ。<br/>
　それと同じことを思わせられたのが、この『裸の島』に出て来るふたりの男子だ。ごく普通の、どこにでもいるようなくりくり坊主で、兄は発熱してあっけなく死んでしまう。この映画の最大の起伏がそのことだ。水汲みと水やりに夫婦で早朝から夕刻まで島の間を往復する生活の単調さの中で、何かドラマらしい変化を作るには、そのような死が最適だ。また、家族４人が３人になってしまうという過酷な現実は、この家族の不幸さを誇張して、お涙頂戴の非現実的なことかと言えば、やはりそうではない。むしろ、いかにも貧しい家族にはありがちな現実的な出来事に思える。しかも、そういう不幸があっても、夫婦は生活を変えることは出来ない。また淡々と今までの日常を繰り返すだけだ。１９６０年頃ではそうであった。だが、この家族がその後どうなったかを想像すると、おそらく残された男子が都会に出て、そこそれなりに成功したであろうことだ。この半世紀の日本を見ていると誰しもそう思う。舞台となった島がその後畑が消失し、全部樹木で覆われた現実を見てもそうだ。そういう現実を今の若者は知るから、この映画を見ると非現実に思えてしまう。だが、先に書いたように、それは想像力の欠如であって、作品の意味を理解しない。まず、この映画の舞台の島と、そしてその段々畑に苦労して水をやるという夫婦の姿は、形を変えて今も存在しているし、永遠にこれからも存在する。人間の労働、生活とはそのようなものだ。スーツを着て洒落たオフィスに勤務しても、毎日苦労して仕事することは同じだ。そして、子どもを突如失ってしまう危険は昔も今も変わらない。この映画はモスクワ映画祭でグランプリを獲得し、その後６０数か国にフィルムが売れた。それはセリフが皆無であるのでわかりやすかったというよりも、夫婦の姿がどの国のいつの時代にもある人間の本質、つまり裸を描いていたからだ。そのため、この映画を今となっては著しくかけ離れてしまった昔の日本のことと思わない方がよい。かけ離れて異常になったのはこの半世紀の方かもしれず、また数百年後には同じような暮らしが日本に生じていないとも限らない。だが、そうなったとして、その時に日本はこの映画に描かれるような美しい自然を回復しているだろうか。この映画では、乙羽が着ていた藍染の浴衣の模様が大胆で美しく、また水汲みの天秤桶や向いの島の大きな家々など、もはや日本からは消えたものがたくさん映っている。これをわずか半世紀における大進歩と見るか、その反対に破壊と見るかは人によって違う。こんな場面もあった。男の子ふたりは竹の棹で鯛を釣る。これを両親は褒め、家族で桶にその鯛を泳がせて定期船で尾道に向かう。そして料亭などを回ってその魚を売り回り、ようやくのこと買ってもらえる。そのお金で下着などの生活必需品を買い、食道で食べ、ロープウェイに乗って山の上の千光寺に行く。これも鯛一匹で何をおおげさなと思う人があるだろう。だが、その鯛は貧しい一家でもごくたまにはそういう幸運に恵まれるという比喩であり、誰しも思い当たることがあるはずだ。そんなささやかな幸運があった後、原因不明で長男は死ぬ。それもまた現実的で、昔はもっと子どもはよく死んだ。それでもなお家族は生きていかねばならないし、そのためには今までの日常をひとまず続けるしかない。それが大きく変わるのは社会が変化する時だろう。そんな変化は高度成長期となって現われた。そういう時代もまた知る筆者は、この映画は様式が著しい舞台劇のように思え、その個々のエピソードは一連となって人間の普遍的な生を無駄なく描いていることに感心する。また、乙羽と新藤監督の間柄は今では誰でも知るので、そのことがこの映画に及ぼした部分をどう見るかという問題がある。細身の乙羽が天秤棒の両側になみなみと水をたたえ、それをこぼさず島の急斜面を登る様子は、監督との忍ぶ仲を象徴しているようで、そこに監督と乙羽の無言の対話と覚悟が感じられる。そうそう、これはネットに書いてあったが、乙羽は好きでもない男が山ほどくれる砂糖よりも、好きな男がくれる塩の方が甘いと言っていたそうだ。この言葉は乙羽と監督の間をあますところなく表現しているように思える。今はそんな女がいないと思う男は、自分がだらしないことを自覚すればよい。低予算で作品を作ることはどんな作家にも強いられることと言えるが、そのあたりのことをもっと書こうと思いながら、今日はもう長くなった。<br/>

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    <title>●金輪際見られない金輪際－ムーンゴッタ・リング</title>  
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    <issued>2012-05-21T17:21:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-25T00:50:13+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
専用眼鏡を京都駅近くの家電製品の量販店の片隅で見つけた。１３８０円だったと思う。金環食が数百年に一度しか見られないものとなれば、せいぜい１分間ほどの鑑賞であってもそれは買うべきなのだろう。だが、買わなかった。<br/><br/><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/21/94/d0053294_17163651.jpg" border="0" width="500" height="360"/></center><br/>
もっと安いものを探すのが大阪人だ。１００円ショップを覗くと、売っていない。となればネット・オークションか。送料込みで１８０円のを見つけた。売り手も必死だ。２１日が過ぎれば価値はゼロだ。これを１枚買い、届いたのが数日前のこと。蛍光灯をかざすと、その輪郭が見えないので、問題はない。これで用意は整った。後はカメラでうまく写すことが出来るかどうか。それに普段寝坊の筆者が早起き出来るかであったが、ま、これも心配はない。そして、今朝は金環食が見える７時半の１時間前に起きた。ＴＶをつけると、太陽の欠け具合がリアル・タイムで表示されていた。中国のアモイでは先に金色のリングが見え、その様子も写ったが、アモイの人たちは全部が全部、金環食であることを知らないらしい。日本が騒ぎ過ぎなのだろう。２、３００年に一度と言いながら、これは近畿や東海、関東の場合だ。つまり、遠方に出かけることの出来ない貧乏暇なしの人にとってという意味だ。中国やアメリカといった広大な大陸国では違う。日本との面積比で金環食が見られる確率が高い。日本は小さな国であるから、今日のような広域にわたって見られることが数百年に一度だ。また、地球は海の方が陸より広いので、なおさら陸で金環食が観察出来る確率は低い。さて、先日書いたように、１７日は更新プログラムのダウンロードのために翌朝４時過ぎに寝て、８時半に一度目覚めた。その時３階に上がってパソコンを操作しようとすると、朝日がカーテンの隙間から射し込み、ビニール製のムンクの「叫び」人形の顔のみが明るく照っていた。そんな湯上りのような赤ら顔を見るのは初めてで、パソコンに向かいながら写真を撮った。そして、金環食が空のどのあたりで見えるかを心の中でおおよそ確認した。３階では筆者は日の出とは違い、日の入りが見える西の窓片に座っている。そのため、朝日にはあまり縁がない。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/21/94/d0053294_17165442.jpg" border="0" width="500" height="360"/></center><br/>
　今朝７時頃に日食眼鏡をかけて家の外に出たところ、玄関の２，３メートル先で太陽が見えた。太陽の右上が欠けてクロワサンの形になっていた。三日月ならぬ三日日だ。そうしてまた家の中に入り、ＴＶを見ながら２０分前の７時１０分に３階に上がり、ムンク人形に接して立ちながら窓を開けたところ、建物の屋根にどうにか邪魔されずに三日日が見えた。１０分前になった時、太陽に顔を向けながら、目をつぶって眼鏡を外し、それをカメラのレンズの前にかざしてシャッターを二度押した。目を閉じたのは、まともに見ると失明する恐れがあるなどと、ＴＶがしきりに言っていたからだ。めくらめっぽうに撮影したので、三日日は写っていないかもしれない。そう思いながら液晶画面に表示させると、２枚とも画面の隅に小さく写っていた。液晶画面に被写体を表示させながら写せば当たり外れがないかもしれないが、レンズの前に日食眼鏡をかざしながら、一方では三日日の光を見ずに液晶画面だけを見ることはまず出来ない。ともかく、試しに撮った２枚がうまく写ったので、これなら７時半のきれいな金環食も大丈夫だろう。そうこうしている間にも三日日はどんどん細くなって行く。ほとんどリングになったと思えた頃、先ほどと同じように、目を閉じ、カメラのレンズを眼鏡で覆い、三日日の方向に向けて連続で１０枚ほど撮った。後でパソコンで写真を加工する時にわかったが、どれも写っていなかった。眼鏡をかけて太陽を確認すると、リングは上方がほんの少し厚く、下方はすでに途切れていた。焦りながらまた目を閉じて今度は２０枚ほど撮った。３０枚ほども撮れば、どれか写っているだろうとの考えだ。すぐにパソコンで確認した。どれも写っていないではないか。１８０円がほとんど無駄になった。やっぱり１３９０円のを買わなくてよかった。写らなかった理由を考えるに、眼鏡の黒い幕の部分はとても小さく、カメラのレンズがはみ出たことと、カメラのわずかな角度の差でずれてしまったに違いない。眼鏡は安物でもよいが、Ｂ５サイズ程度の下敷きのような黒いフィルターがカメラ用に必要であった。それならば日をかざして太陽の位置を容易に確認出来、カメラの位置をずらしてしまうこともなかった。そこまで気が回らなかったのは、そんな下敷き状の、つまり日食眼鏡を作る元の大きな黒い板が売られているかどうかわからなかったためだ。ま、金環食は自分の目で確認することが第一番であって、撮影はその次だ。その意味ではどうにか見られたので、人生思い残すことはないといったところか。それにしても数百年に一度しか見られないという触れ込みはおおげさな話だ。普段宝くじがさっぱり当たらない人たちにとっては、日食眼鏡を買うだけで、その稀な運に遭遇することが出来ると思ってしまう。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/21/94/d0053294_17194357.jpg" border="0" width="500" height="360"/></center><br/>
　「金環食」は「金環日食」とＴＶでは言っている。１９７０年代だったか、映画に『金環食』というのがあった。見ていないが、当時大ヒットした。土木工事にまつわる政財界の汚職をテーマにしたもので、金満国家になりつつあった当時の日本には歓迎された話であった。汚職と金環食がどういう関係があるのかいまだに知らないが、「金環食」に汚れたイメージを植えつけたこともあって、今は「金環食」を「金環日食」と呼ぶのではないか。だが、三字の金環食の方が重みがあってよい。それに「金環食」は日食であるから、わざわざ「日」を入れることもない。「金環食」の「環」はワグナーの『ニーベルンクの指環』の「環」と同じで、「輪」という文字を使わない。「金輪食」でもいいように思うが、「きんりんしょく」という響きがよくない。「きんりん」は「近隣」、「りんしょく」は「吝嗇」を思わせる。そこで「こんりんしょく」ではどうかと思うが、やはり「吝嗇」を連想させる。そんなことを思っていると、「こんりんざい」（金輪際）の元の意味は何かと気になり出した。ネットで調べると、仏教用語とある。いかにもそのようだ。ならば金環食の現象に使ってもいいように思う。「金輪際」は「今後絶対に……ない」という意味合いで使うから、今回のように何百年ぶりかの地元で見られる金環食にはふさわしいではないか。太陽にすっぽり月がはまった状態で見える金色の指環状の光は、目視では非常に細く、「金輪」の「際」がすぐに途切れて見える。そのため、「金環食」は「金輪際（こんりんざい）」と呼んでもいい。そこでおやじギャグになるが、今日の投稿の題名を決めた。次に近畿地方で見られるのは何百年か先という。だが、それはそれで大変珍しい貴重な機会だが、日本以外の土地、海上で月に１回は見られるのであるから、ネット時代の今、そう騒ぐことでもない。日食眼鏡で見た金環食はＴＶで見る大きな環と違って、とても貧相であった。自分の目で実際に見た映像より、画面に映し出されるものの方にリアリティがあるとなれば、人間は生まれて死ぬまで、ベッドに横たわ続けて食っては寝るを続けた方がいい。そして、ベッドの傍らに自分が望むあらゆる映像が瞬時に切り替わるような装置を作る。これは夢物語ではなく、ほとんどそれに近い生活が先進国では実現している。１８０円の日食眼鏡は筆者は金輪際使うことがないが、捨ててしまうのもまだもったいないので、赤ら顔が消えているムンクの「叫び」人形の顔に貼りつけた。なかなかぴたりではないか。そうそう、「金輪際」の写真を撮ることが出来なかったので、三日日の写真を加工してそれらしいものを作った。これは４年前の「おにおにっ記」に金環食を加工して載せたことの「アゲイン」で、今日の題名は「ムーンゴッタ・リング」でもよかった。なお、下の写真はクリックで別のものに変わります。<br/>

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    <title type="text"><![CDATA[PR: 理想の結婚相手像が無料でわかる【婚活診断テスト】]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/R2vaoA1LWXJz/gRbuY1w8liVe?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://bnr.rssad.jp/rss/img/R2vaoA1LWXJz/gRbuY1w8liVe?type=3&ent=c07418a73ae8af6a08fcb6e18f141fd0"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > あなたの理想の結婚相手を知るチャンス！本気で結婚したいなら実績のサンマリエ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2012-05-21T17:21:08+09:00</created>
    <modified>2012-05-25T00:50:13+09:00</modified>
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    <title>●にぎにぎふみふみ</title>  
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    <issued>2012-05-20T23:59:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
踏み踏みしながら進む自転車、ハンドルは握るのでにぎにぎ。筆者は雨天の場合は傘を右手に差して片手運転するが、荷物が多くて前カゴに入り切らない場合、片方の腕に荷袋を提げて、にぎふみふみする。<br/><br/>たまににぎにぎなしに、ふみふみだけで運転している若者を見ると、擦れ違った後に真似てみる。だが、１秒と続かない。筆者は運動神経が鈍い。家内はそのことをよく揶揄する。そのとおりであるから反論しない。また、家内は音感が優れていて、ある曲を聴くとすぐにその音階を口ずさむことが出来る。筆者は音感もさっぱりない。それでも、たまにピアノででたらめにメロディを弾き、それが現代音楽っぽいだろうと訊くと、素直にその物真似の才能には同意する。また、あるメロディをピアノでゆっくりと拾い、その調性を確認出来ることを、それなりに音には敏感と思っているが、家内のようにドレミで即座に言うことなどとても信じられない。小さな時にピアノを習ったかどうかの差だ。そういう経験は大人になってからは遅い。幼い頃であれば容易に習得出来ることが、大人になればさっぱりだ。そのために、幼児教育の商売がはやる。それはさておき、筆者は方向音痴でもある。これが長年の間に随分ましになったと思っているが、今日はにぎにぎふみふみして右京図書館に行ったその帰り、目指す場所とはあまりにかけ離れたところに行ってしまい、つくづく方向音痴のひどさを自覚した。どの道をどのようにたどったかを調べるためにネット地図で調べたが、図書館から３００メートルほどのところで記憶が曖昧になっている。もっとも、何度も道を曲がったので、その全部を記憶している人はまずいないだろう。筆者がショックであったのは、図書館からわずか５０メートルの曲がり角でもう９０度も方向が違う道に入り込んだことだ。角を曲がると絶対に南と思っていたのが、実際は西であった。地図を見てそれがようやくわかった。この最初のつまづきが最後まで響く。人生もそのようなものだ。道を誤っていることに気づけばいいものを、せっかくここまで走って来たのであるから、まず間違いはないと、あまり根拠のないことを思う。今日の筆者の図書館からの帰りもまさにそうであった。２，３度袋小路に入り、そのたびにますます方角がわからなくなり、そのうち眼前に見憶えのある山が出現し、どうもおかしいとは感じていた。３０分ほど走ってようやく見憶えのある道に出たが、それは図書館から西、四条通りから北へ３００メートルほどの位置だ。その時点でとっくに目指す場所に行くことは諦めたので、その次の目的であったムーギョとトモイチで買い物をして帰った。その２軒のスーパーにしても、筆者はその東から接近するつもりが、西から向かうことになった。つまり、かなり遠回りをした。方向音痴であると、このように無駄をしてしまう。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/21/94/d0053294_021417.jpg" border="0" width="500" height="284"/></center><br/>
　自転車に乗ることはめったになかったのが、右京図書館に２週間に一度行くことになって、２週間に一度は乗ることになった。去年秋に空気入れを買い、出発するたびに後輪に空気を入れるが、その一種の儀式も気分がよい。筆者の自転車は、にぎにぎはいいが、ふみふみがおかしい。大きな音が後輪からギコギコと出る。何かが擦れていて、その分、ふみふみもかなり重い。今日は道に迷って見知らぬ場所を走りどうしであったので、それがよけいに重く感じた。ところが、見知る場所に出る５分ほど前、急にそのギコギコが消え、ペダルが軽くなった。たまにそういうことがあるが、原因がわからない。自転車は７，８年前に中古で３０００円で買った。今では誰も乗らないようなオンボロになっている。それでも乗るのは、後輪を新品に代えたこともあるし、また買った店のおじさんの思い出も詰まっているからだ。前に書いたが、その自転車に乗っている時、警官と白バイが追跡して停車させられ、盗難したのだろうと疑いがかけられたことがある。自宅に来れば買った店の領収書を見せると言っても信じてもらえず、それならその自転車屋に電話してほしいと伝え、しぶしぶそうしてもらったところ、店のおじさんは筆者が買ったことに間違いないことを伝えてくれた。その事件からほどなくして自転車屋のおじさんはあの世に行ったから、また呼び留められた場合、盗難車ではないことを証明してくれる人がいない。そのため、また警官に呼び留められた時のことを考えて、自分を証明するあれこれのものを携帯するようになった。また、筆者の自転車はライトが点かない。そのため、日が暮れてからは乗らないようにしている。無灯光で警官に呼び留められると、また盗難車と疑われる。自転車に乗らずに歩く方が健康によいし、日が暮れてからムーギョに行くことにしている。そのムーギョとトモイチに今日は２時頃行った。今日の夜のニュースで知ったが、太秦の東映撮影所で火事があった。その際を通ったのが火事のちょうど１時間前であった。それはさておき、午後２時ではスーパーの客は多く、レジの女性たちも顔ぶれが違う。実はトモイチのレジの女性について数か月前から面白い関係が続いているが、それを書くのは少々まずいので、別の話題にすると、今日のトモイチの館内放送によれば、太秦警察からの達しで、６月１日から同店で買ったアルコール飲料を休憩スペースで飲むことが出来なくなる。その準備期間として確か今日から控えてほしいと何度も言っていた。この店の休憩所が広いことは以前に書いた。最近とみにそこの席がよく埋まっている。３月に筆者も一度安いビールの一缶を買い、家内を前にそこで飲んだことがある。酒禁止は、筆者のように徒歩で家から往復する人は問題はないが、スーパーとしては車で来ている客かどうか判別のしようがない。そして、実際は運転しているにもかかわらず、そこで酒を飲むのがいるのだろう。あるいは、近くの飲食店から抗議が来たかだ。たぶんそれと思う。近くにはお好み焼き屋やそば屋、焼き肉屋、喫茶店など店があるが、それらのほとんどを兼ねているのがトモイチのその休憩所だ。たこ焼きもお好み焼きも売っているし、ビールは冷えたものが１００円程度から買える。これでは誰もほか店では食べずに、トモイチで買ってその休憩所でくつろぐ。せめて酒だけは飲ませるなと抗議があったのだと思う。筆者がこのスーパーの休憩所がそれなりに好きなのは、たくさんの人間が観察出来るからだ。梅津は京都でも柄がいいとは言えない地区で、社会の底辺に近い人々が多くスーパーに出入りする。そういう人たちを見るのが楽しいと言いたいのはないが、つんと澄ましていい服を着た人たちよりかは面白い。<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/21/94/d0053294_0215777.jpg" border="0" width="284" height="500" align="left"/>　筆者はいつも夜７時過ぎにムーギョやトモイチに着くから、昼間に行くと見かけない人に出会える。今日はムーギョで初めて見る若い男性に注目した。ここ数日の筆者の格好は、黒のジーパンに黒のスニーカー、白の襟つきのシャツに黒のタイトな若者風のジャケット、そして黒の帽子に黒のサングラスと、黒づくめで、格好だけはまるで２０代だ。今日はこの格好ではさぞかし暑いかと思ったにもかかわらず、曇りでうすら寒かった。自転車を駐輪場に留めた時、上は白っぽい半袖のＴシャツ、下はゆったりとしたトレーナーか、ともかく、下着を合わせて３枚しか身につけていない男と出会った。筆者のすぐ前をムーギョに入って行く。ふと見ると、両腕に刺青をしている。カラフルで、一瞬シールを貼っているかと思ったが、間近で盗み見すると、本物の刺青だ。黄色が目立ち、そこに青と赤、黒で、外壁の落書きによくあるようなタギングの文字が描かれている。どう見てもマンガっぽいので、こんな刺青を入れて、何年かすると飽きないかと心配したが、先のことなど考えれば刺青を入れることは出来ない。若者にとっては後悔しないことが格好いいことなのだ。その男性とは、店を出たのもほぼ同じであった。筆者は１０００円分ほど野菜を中心に買ったが、その男は手ぶらのまま出た。おかずのコーナーを長らく見ていたのに、気に入ったものがなかったか。昼間であるので、おかずの種類も数もとても多く、何も気に入るものがないとは信じ難い。後ろ姿を見ると、身なりがうす汚れていて、哀愁が漂っていた。仕事をしていないのかもしれない。背は高く少々小太りで、目つきは悪いというほどでもない。刺青を入れた理由は知らないが、先頃大阪の橋下市長が言っていたように、刺青を入れる者は役所の職員にふさわしくないという見方は世間ではまだ強い。そんなことも知らずに刺青を入れたはずはなかろうし、それなりの覚悟はあったと思うが、今の若者はそんなことも考えずに簡単に入れてしまうのかもしれない。これは前に書いたが、７，８年前、中古レコードのＨＯＴＬＩＮＥに２０代前半の女性がアルバイトで勤めていて、何度も話してそれなりに仲よくなった。西院に住んでいると言っていたから、下町具合は梅津と大差ない。その彼女がしきりに刺青をしたいと語っていた。ややふっくらとした色白の目玉がくりくりした美人で、しかも笑顔を絶やさず、性格もとてもよいように感じたが、刺青を入れたいという発言は意外ではなく、彼女の雰囲気には合っていた。それは彼女の存在をネガティヴなものと捉えて言っているのではない。どう言えばいいか、彼女なら刺青は似合うだろうし、その覚悟でそれなりに人生を後悔せずにわたって行くと思えた。もう少し言えば、そんな彼女の恋人になるのは楽しいだろうなということだ。とはいえ、彼女と恋愛関係になれば筆者は刺青を入れさせるだろうか。入れさせるのであれば、筆者がその下絵を描き、筆者との関係を示すものにする。マンガ的なものでは絶対に駄目だ。またそんなものは彼女には似合わない。ＨＯＴＬＩＮＥで働きながら、一方では新聞配達もしていると言っていた。元気にしているだろうか。育った家庭環境は推して知るべしとしても、それは彼女の魅力を損なっていなかった。苦労させられる男と一緒になっているとしても、きっと逞しくて明るく生きていると思う。ところで彼女は自転車でＨＯＴＬＩＮＥに通っていたのではないか。にぎにぎふみふみ。これは手紙を何度も書く行為を連想もさせるが、彼女の住所を訊いておけばよかった。今日の最初の写真は昨日と同様、松尾橋から見下ろした砂州。４月７日の撮影。２枚目も同じ日。これは砂州が川の流れ方向に三角形に尖っていた様子。３枚目は４月１８日、松尾橋バス停から。クリックで拡大する。昨日の同じ角度の写真には、右端の歩道に小さく家内の後ろ姿を写し込んだ。<br/>

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    <title>●にぎにぎぎしぎし</title>  
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    <issued>2012-05-19T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-23T00:11:45+09:00</modified>  
    <created>2012-05-20T00:10:46+09:00</created>  
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      <name>uuuzen</name> 
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
肩凝りは全くしないが、その代わりに疲れがたまると左下の奥歯がよく痛む。１０年ほど前、その奥歯が痛み、悪くなったと思って歯医者に行ったところ、全く悪くないと言われ、治療してもらえなかった。<br/><br/>そして、親切な若いその歯医者は、「疲れがたまると治療した場所が痛みますよ」と言ってくれた。原因がわかって嬉しかった。今日はその奥歯が最高に痛む。右はどうもないので、食事の際は右ばかりで噛む。普段もだいたいそうだ。そのためか、筆者の顎は右の方が強くなって顔の左右対称性は特に顎によって崩れている。歯が痛み始めたのは３日ほど前だ。それが昨夜のことで巨大化した。昨夜の投稿『死の銀鈴』はＶＩＳＴＡのパソコンの反応が異常にのろいので、ＷＩＮＤＯＷＳ９８に接続し直して書いた。いらいらして書き、読み返さなかった。そして今日の夕方、かなりの箇所を書き変えた。それはさておき、昨夜投稿後、ＶＩＳＴＡにつなぎ直すと、突如「更新プログラムをダウンロードしますか」という画面が現われた。今日はこのことについてまず書く。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/20/94/d0053294_023425.jpg" border="0" width="500" height="284"/></center><br/>
　昨夜投稿したのは深夜２時半だ。その直後に寝てもよかったが、ＶＩＳＴＡの調子があまりに異常なので、その原因を確認したく、ともかく「更新プログラムをインストールしますか」の問いに対して「イエス」をクリックした。それからが問題であった。何と１時間もかかってダウンロードが終わった。修正プログラムをひとつ入手するのに１時間パソコンが使えない。ハード・ディスクはジリジリと音を立て続け、途中でスイッチを押さえてもパソコンは終了しない。３時半になった時、もうこれでようやく寝れるかと思ったが、今度はインストールが自動的に始まった。ほとんど悲鳴を上げんばかりとなり、そのまま窓を開けてパソコンを投げ捨てようかと思ったが、我慢強い筆者だ。とにかく、最後まで見届けようとした。ところが４時２０分まで待っても３分の１しか終わらない。ついにパソコンをそのままにして寝た。朝６時半に家内に起こされ、また眠って今度は８時半に電話で起こされ、また眠って、９時半に起きた。今日は朝から出かける用事があった。睡眠は合計５時間ほどで、これはしんどい。ＶＩＳＴＡのパソコンでこんなに苦労するとは思わなかった。朝８時半に目覚めた時、パソコンを確認するために３階に上がった。インストールは当然終わっていたが、何と新たに３つの更新プラグラムをインストールすべしとの表示が出ている。そこで調べてみた。ＶＩＳＴＡのパソコンを使い始めたのが今月１０日だ。それから９日経ち、その間にダウンロードかつインストールした更新プログラムは１０２個であった。１日１０個以上だ。これを異常と言わずして何が異常だろう。筆者は想像した。ＶＩＳＴＡのパソコンのスイッチを入れた途端、「更新プログラムが来ていますよ」の知らせが届いている。「イエス」をクリックすると２時間ほどはパソコンが使えない。あるいは使ってもＷＯＲＤで文書２行を打つのに１時間かかる。笑い話ではなく事実だ。ようやくインストールが済むと、次にはまた新たな更新プログラムが届いている。毎日その連続で、パソコンは更新プログラムをインストールするためだけにジリジリと音を発して動いている。ＶＩＳＴＡがそういうＯＳとは知らなかった。ＷＩＮ９５や９８にはそんな更新プログラムはなかった。あってもダウンロードしなかった。なぜなら、せいぜい文章を打つか、自分のブログにアクセスするか、またはネット・オークションに入札するだけで、それ以外のことはまずやらない。なので、ウィルス感染の心配はゼロに等しい。ＷＩＮ９５を今も使っている。それは最も使いやすいからだ。ただし、入札が出来ない。そのために９８を使うようになった。ところがこれは９５より性能が悪いというか、馬鹿だ。最新のフラッシュ画面に反応しようと背伸びするため、画面がしばしばフリーズする。９５はさっぱりしたもので、自分の能力には負えないとなれば無反応でいてくれる。だが、入札のためには９８は必要だ。それに、昨夜のようにＶＩＳＴＡがＷＩＮ９８の１００分の１の性能もないとなれば、９８を使うしかない。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/20/94/d0053294_03743.jpg" border="0" width="500" height="284"/></center><br/>
　今朝８時半にＶＩＳＴＡの画面を見た時、新たに届いていた更新プログラムはもちろん拒否した。それどころか、今後一切の更新プログラムを取り込まないと決めた。それでもなお、パソコンを起動するたびに、警告表示が出て、ダウンロードを勧める。よけいなおせっかいだ。マイクロソフトもいい加減なＶＩＳＴＡという商品を開発したものだ。毎日１０個以上の更新プログラムを今後ずっと取り込まねばならないとすれば、最初に売り出したＶＩＳＴＡは欠陥品であったことになりはしまいか。時代とともにウィルスの脅威が増し、プログラムの脆弱な箇所を補強しようというのはわかる。ＶＩＳＴＡは１００室ほどもある巨大な建物だが、筆者はパソコンでせいぜい畳１枚あれば充分な作業しかしない。ＶＩＳＴＡはあれこれも出来る能力を持つ分、そのあちこちの部屋にボロが出て、外敵に晒されやすい。パソコンで３次元のゲームをしたり、ＴＶを見るなど、１００室の大半を使わねばならない人にとってはＶＩＳＴＡが常に安全に作動してほしい。だが、毎日数時間もその作業でパソコンが本来の仕事に使えないとなれば、これは詐欺に近いのではないか。ＷＩＮＤＯＷＳ ＵＰＤＡＴＥには、「ダウンロードやインストールにどれほどの時間がかかりますか」という質問とその答えがある。「パソコンの能力によってもまたプログラムの大きさにもよって違う」とある。あたりまえだが、毎日１０個近くも取り入れなければならないのは、どう考えてもおかしい。そのためのプログラムを日々せっせと書いている人がマイクロソフト社には大勢いるはずだが、何とも哀れな職業ではないか。その修正プログラムのバグをまた修正するプログラムもきっとあるはずで、かくてＶＩＳＴＡという１００室の建物はどこもつぎはぎだらけで、グロテスクさを日々拡大している。筆者のＶＩＳＡＴのパソコンは、もともとの能力がＸＰ用であるのに、無理してＶＩＳＴＡを入れたものではない。最初からＶＩＳＡＴ用に作られたパソコンだ。それにディスクＣの空き容量は１００ＧＢ以上ある。にもかかわらず、更新プログラムひとつ入れるのに２時間かかる。昨夜書いたように、他の作業を同時に行なわずに、ダウンロード、インストールのみの作業でだ。ま、ワードの反応が異常に遅かった理由は、パソコンが更新プラグラムを取り込む準備をしていたからだ。そう言えば今までにも何度も同じことがあった。数日前は一度に３９の更新プログラムをダウンロードせよとの指示が来てそれにしたがった。４時間ほど時間が取られたが、３９個でそうなら、すこぶる早いのだろう。昨夜は何しろ１個で２時間だ。<br/>
　昨夜４時半に就寝したのは、夜型の筆者でも遅い。ここでまた先日来の無言電話について書いておく。カレンダーに記しているが、毎週木と金にある。１７日は深夜４時２０分であった。正しくは日が変わった１８日の金だ。深夜３時や４時といった時間帯に起きている人がいることを先日ＴＶで知った。中央卸売市場に通う人たちだ。そういう市場は３時から４時は最も活発に動く。中央市場に勤務する知り合いがないでもないが、それらの人ではない。昨夜は８時から１０時まで小学校で消防団の訓練があって、その見学に行った。そして、自治連合会の副会長たちに、今月の連休から毎週２回は確実に無言電話がかかって来ることを話した。ある人は、すかさず「女とちゃうか」と言った。筆者が女につきまとわれる男に見えるのだろうか。また、そうとしても、女から恨まれるだろうか。ともかく、昨夜４時半頃まで起きたのは、その無言電話を待っていたところがある。かかって来て筆者が受話器を取り、そして無言でいると、相手はどう思うかななどと想像していた。だが、かかって来なかった。少しずつかかって来る時間が遅くなっているので、そのうち５時６時、また７時や８時になるかもしれない。そうなれば面白い。さて、今日は駅前の変化シリーズでもよかったが、ＭＯに保存している写真を消化したい。それで、去年８月に連続投稿した題名を思い出した。松尾橋上から眼下に見る三角の砂州、そして松尾橋のバス停前に建設中のマンション群の工事現場写真だ。最初の砂州は３月下旬、２枚目は４月７日に撮影した。上下が逆さまになっているが、これは砂州の下流側がそのように尖っていた。３枚目のマンション現場は３月下旬の撮影で、これはクリックで拡大する。三角の砂州は握り飯を連想させる。今日は食パンを１枚食べただけで夕方帰宅するまで何も食べなかった。そのための時間がなかった。三条通りを西に文化博物館に向かって歩いていると、２０代の変わった服装の男性がリヤカーのような荷台に握り飯をたくさん並べて移動販売していた。１個ずつ紙に包まれていて、印刷の色が異なる。色ごとに中身が違うのだろう。値段は見なかったが、道行く人に気軽に買って食べてもらいたいという考えだ。だが、そんな若者がいるだろうか。今後もっと暑くなると、腐敗も心配だ。薄利多売の商売がはやっているとはいえ、握り飯だけの販売は、店をかまえて客を待つより率がいいのだろうか。あまり売れていない様子で、三角形の包みはぎっしりと並んでいた。飲料も一緒に売るべきだが、あるいはそうしているかもしれない。さて、奥歯の痛みは一向に収まらない。今日は日づけが変わる前に寝よう。無言電話が深夜に鳴って来ないことを願う。<br/>

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    <title>●『死の銀嶺』</title>  
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    <issued>2012-05-18T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-21T18:20:15+09:00</modified>  
    <created>2012-05-19T02:23:03+09:00</created>  
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    <dc:subject>●その他の映画など</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
零下３０度の雪山で撮影されたこの映画、レニ・リーフェンシュタールの主役ということを以前から知っていたが、２週間前に右京図書館にあるのを見つけて借りて来た。新しくＴＶを買ったからではないが、最近ＤＶＤを見る機会が増えた。<br/><br/><img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/19/94/d0053294_2373535.jpg" border="0" width="227" height="321" align="left"/>以上まで書いて１時間半経った。その間ずっとパソコンと格闘していた。ネットをせず、ＷＯＲＤソフトだけ起動してこれを書いているのに、一語反応するのに１０秒ほどかかる。ウィンドウズ９５の何倍も遅い。昨日まではよく動いたのに急に調子がおかしくなった。パソコンを再起動させると、更新プログラムを３つインストールするのでスイッチを切るなとの表示が出た。そしてそれから４０分もそのままだ。ネットの画面を見ていないのに、どういうプログラムをインストールするというのだろう。ＶＩＳＴＡは性能がＷＩＮ９５よりはるかにいい分、よけいなことを勝手にするような仕組になっているのだろう。文章だけスムーズに打ちたいのに、たった２行を書くのに２時間近くもかかっているのでは、何のための性能のよさかわからない。インターネットの一時ファイルを削除し、ディスクのクリーンも行ない、ローカル・ディスクの空き容量が１００ＧＢ以上もあるというのに、一語反応するのに１０秒もかかるとは、全く信じられない。呆れ果てて再起動ではなしに一旦終了させたところ、また更新プログラムをインストールするとの表示が出て、３０分もディスクがジリジリという音を発しながら作業を続けた。頭に来て何度もスイッチを押すなどしたが、強制終了出来ない。それでこの文書はＷＩＮ９８のパソコンを使って書いている。そうそう、ＶＩＳＴＡのパソコンにはメモリーは１ＧＢ積んでいるが、先日買った２ＧＢは相性が合わず、反応しなかった。いずれ４ＧＢにしたいが、そうしてもなおＷＯＲＤの文章を打つのに、一語入力に１０秒もかかるとなれば、別のところに問題があるのだろう。この買ったばかりのＶＩＳＴＡは、ほとんど動画を見ず、もっぱら毎晩こうして文章を書く程度で、ディスク容量はＷＩＮ９５の１００倍もあるが、反応は１００倍遅い。まるで漫画だが、そこで思ったのは、たとえば、筆者がもっと巨大な容量のパソコンを使っても、おそらくＷＯＲＤしか使わないのであれば、その反応はＷＩＮ９５より遅いのではないかということだ。それはおそらく、原始的な作業はより原始的な能力のパソコンにこそふさわしいからだ。ＷＯＲＤだけ使うのであればＷＩＮ９５の方がかえっていいに違いない。それを感じていたのでＷＩＮ９５を使い続けているが、調子がおかしくならないどころか、ＷＩＮ９８よりよほどすぐれている。また、ＶＩＳＴＡには洒落た機能がいろいろとついているが、それらは別になくてもいいもので、パソコンの性能はもう頂点に達しているのではないか。その頂点は筆者にすればＷＩＮ９５で充分といったところだ。<br/>
　さて、上記のように、今までうまく事が運んでいたのに、それが何らかの事情で疎外された時、ストレスが一気に増す。命にかかわることならば、そのストレスはどれほどだろう。今日取り上げる映画は、後半部がそういう問題を扱っている。氷点下３０度の雪山で遭難し、助けを待つ若い男ふたりと女ひとりの行動だ。これは実話を膨らまして脚本が書かれた。遭難して丸４日間、テントもなく、また現在のように防寒具も充分でない時代に雪山に閉ざされると、たいていは死ぬが、この映画では男女ふたりが助かる。それは実話ではなく、人間ドラマを盛り込むために脚色がなされた。だが、それは不自然ではなく、全部実際にあったことに思える。その前になぜこのＤＶＤを借りたかを書いておく。２年ほど前になるが、たまたまネット・オークションでレニのＤＶＤが格安で売られていることに気づいた。１枚１円のスタートで、同じ商品を同じ業者が数十枚は売っていた。もちろん落札価格は数百円になったが、それでも安い。買おうと思いながら、そのうち出品がなくなった。おそらくその業者は過剰生産されて倉庫に長らくあった商品をまとめて買ったのであろう。それだけレニの人気は昔の一時期はあった。ＮＨＫが１０年かもっと前にレニの特集をしたことがある。８０代の高齢にもかかわらず、スキューバ・ダイヴィングの資格を取り、水中世界の美しさを撮影したことでまた有名になった。その前は８０年代だったか、アフリカのヌヴァ族の写真集を出して健在ぶりを示した。レニは１００歳を超えてから死んだが、その美意識は誰もが認めるものであったろう。だが、戦前のベルリン・オリンピックの記録映画を撮り、ナチスに協力したと考える人がドイツには多く、今なお正当にその芸術性が評価されているとは言い難いところがある。ベルリン・オリンピックのその映画は、東京オリンピックを撮った市川昆にも影響を与えたであろう。また、ヌヴァ族の男性たちの肉体美に惚れ込んで写真集を出したことは、もともとレニには人間美を謳い上げる思いがあったことがわかる。それはレニが最初はダンサーであったことから説明出来る。体を使った芸術がレニの目指すところで、それが怪我によってダンサーを続けることが出来なくなった後、映画俳優となったことにも表われている。また、女優には美しい顔も求められる。レニはかわいいという表現は当たっておらず、背も高くていわゆる美女という表現がぴったりな冷たい顔をしている。それをレニは自覚していたであろう。<br/>
　レニを俳優として最初に起用したのは、アーノルト・ファンク博士だ。彼は地質学を学んでアルプスに心酔し、一方では映画にも関心を抱いて、山岳映画の開拓者となった。ファンクが最初にレニを起用した映画は１９２６年の『聖山』で、レニは２４歳であった。この映画の３年後に『死の銀嶺』が公開された。脚本作りにレニは意見し、より深い感動ものとなって、当時大ヒットした。筆者は前知識なしで見たが、あまりの迫力に久しぶりに映画の面白さを感じた。今はＣＧを使って経済的に途方もない映像を生み出すことが常識化しているが、そういう映画はどれもつまらない。映画はもともと作り事だが、映像を加工し過ぎると真実味が失せる。その意味で、『死の銀嶺』は零下３０度の山中でどのようにして撮影したのか、その疑問だけでも別格的な作品に思えて来る。すでに特殊撮影の技術はあったが、この作品はほとんどそれを感じさせない。もちろんカットをつないで実際にあったことのように錯覚させる手法を採っていることは言うまでもないが、カメラ位置を考えると、ちょっと信じ難いカットがたくさんある。それは山を知り尽くしたファンク監督がいてこそ可能であったはずで、事故が起こり得るぎりぎりのところで撮影したに違いない。そういう撮影の困難は今ではＣＧで済ますというのがハリウッド方式だ。だが、それでは映画の性質が根本的に変わってしまう。観客を心底驚かせるには、映像に迫力が必要だ。それには安易なセットを使ってはならず、観客に実際の冬山にいるかのような気分にさせるために、俳優も撮影隊も山に登らねばならない。この映画はそれをしている。筆者は登山には無縁で、なおさらこの映画の撮影を想像するだけで縮み上がるが、登山をしない人なら誰しもであろう。また、登山を好む人は、山の美しい遠景や、山肌に張りつく人たちなど、映像美を堪能して登りたくなるだろう。つまり、この映画は山岳映画を切り開いたと同時にその最高峰となって、今後も凌駕されることはないに違いない。こう書けば何をおおげさなと思う人がきっとある。今は軽くて防寒効果抜群の衣裳はふんだんにあるし、撮影機材も小型で性能がよいが、この映画はまだ１９２０年代のことだ。フィルムを使い、また機材は今では信じられないほど重いはずで、その労苦は勘案されねばならない。ヘルツォークの映画に『彼方へ』という山岳ものがあって昔見たが、彼はきっとファンク監督の作品を熟知しながら、そのドイツ映画の伝統上にどういう山岳作品を撮ればいいかを考えたであろう。だが、この映画を見れば、『彼方へ』は軽く吹っ飛んでしまう。<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/19/94/d0053294_322891.jpg" border="0" width="227" height="323" align="left"/>　物語は単純で、登場人物も少ない。そのことが映像と舞台の迫力となって、この作品を忘れ難いものにしている。２０代のヨハンネス・クラフト博士は愛妻のマリアを伴ない、インスブルックの山岳案内人クリスチアンと一緒にピッツ・パリュー山に登る。クリスチアンが雪崩れの危険を示唆したにもかかわらず、高をくくっていたクラフトは眼前にマリアがクレヴァスに落ちてしまうのを目撃する。助けに下りるがザイルが無残にちぎれて底にたどり着けない。そうしてクラフトはマリアの助けの声を耳にしながら、氷の中で死なせてしまう。それが１９２５年１０月６日のことだ。それからちょうど３年経った同じ日、レニ演ずるマリアと、その婚約者のハンスが山小屋へとやって来る。その目の前にはピッツ・パリューがそびえている。この景色が何度も映るが、雲の動きや小雪崩れなど、山好きにはたまらないだろう。マリアとハンスは雪を投げつけ合ったりしてルンルン気分で、ふたりだけの時を満喫する。山小屋には１冊の備えつけのノートがあり、それを開いたマリアは３年前に同じ名前の女性が遭難死したことを知る。そして、その夫のクラフトがどうしているかをハンスに訊ねると、愛妻を亡くしてからは幽霊のようになってピッツ・パリューをさまよっていることを知る。マリアは雪の中で凍っているマリアを思い浮かべ、どこかうっとりした表情を浮かべるが、ここは無声映画であるので、表情は大事だ。マリアはクラフトに関心を抱き、失意に沈むクラフトの手をそっとにぎって遭難事故のことを聞き出す。そこから観客はこの映画がどう進むかの関心がかき立てられる。話を少し戻すと、ハンスが「幽霊のように」と言った瞬間、山小屋のドアが開いて風が入る。驚いたハンスとマリアはその方向を見ると、クラフトが外に立っている。この場面はとても印象的で、無声映画ならではのところがある。さて、ここで書いておくと、この映画にはオーケストラの音楽が絶えず鳴り響いていて、その音質のよさにびっくりさせられる。デジタル処理したとしても、あまりにもいい音で、そのことが映像とは合っていない。後でわかったが、この音楽は１９９８年に新たに作曲されて添えられた。それで納得した。各場面にあまりにもぴったりと合っていて、たとえばピッケルで氷柱を叩き折る場面が２，３度あるが、氷が折れる瞬間にきれいな音でその様子を表現する。そのシンクロ具合は全く見事で、無声映画時代にすでにこのオーケストラの音楽があったとすれば、映画音楽は１９２０年代に完成し切っていたことになる。この音楽はそれだけを聴いてもちょっとした交響詩で、実際そのようにして聴きたい思いにさせられるほどだが、それほどに主題もはっきりとしており、また変化にも富んでいる。その変化として、たとえばラヴェルの「ボレロ」そっくりの音楽が使われている。それが気になったので、映画を見終わって調べた。「ボレロ」は１９２８年の作曲で、翌年にはヨーロッパ中で有名になっている。ということは、この映画にその引用的なことが行なわれていたならば、当時最先端の音楽を用いたことになる。なるほど大ヒットしたのは、そういう音楽の先進性もあるかと思った。だが、実際は音楽は１９９８年につけられた。その際、作曲者はこの映画が発表された１９２９年にどういう音楽が評判になっていたかを調べてラヴェルの「ボレロ」を知り、それにきわめて似た音楽を挿入することで、当時の雰囲気をなおのこと強調しようとしたのだろう。それは都会のキャバレーのような場所が映った場面でも言える。その１分そこそこのカットには、チャールストンが使われた。それも１９２０年代の音楽だ。このように、この映画は音楽がとてもよい。そうなると公開当時はどういう音楽であったかが気になる。おそらくピアノ伴奏だろう。その楽譜を元にオーケストレーションしたのかもしれない。<br/>
　話を戻して、ハンスは山小屋に入って来た男がクラフトであることに気づき、クラフトを交えて山小屋で食事をする。就寝時間になった時、窓際は寒いので、真中に寝るようにクラフトはハンスに提言する。男ふたりに挟まれた形でアンナは寝るが、そのことを拒まず、すぐに寝入る。その姿にクラフトは妻の面影を見たのか、アンナの方を向いて眠らない。そして腕をアンナの頭に伸ばすと、アンナはその手の中に頭を置く。その姿を翌朝ハンスは目撃する。この男ふたりに女ひとりの図式は『聖山』にも使われた。井上靖の小説にもあったと思うが、それはファンクの映画を参考にしたものだろう。それほどにファンクの山岳映画は世界に影響を及ぼした。そうそう、インスブルックはチロルにある。北数十キロがミュンヘンで、オーストリアやミュンヘンと言えばヒトラーを思い出すが、この映画のクリスチアンはヒトラーに少し似ていて、ちょび髭は全く同じだ。この映画の公開当時、まだナチスは政権を得ていなかった。この映画でレニを見たヒトラーが数年後にはドイツで一番有名な人物になり、やがてレニとも会い、また自分たちの政党を宣伝する映画を撮らせることになる。さて、一夜明けてクラフトは山小屋のノートに山行きを記す。その時、寝入っているふたりを見つめながらやや迷いの表情を見せ、そして意を決してａｌｌｅｉｎと力強く書く。つまり、ひとりで登ることを自分に言い聞かせる。ところが目覚めたハンスは同行を乞い、クラフトはそれに同意する。するとアンナも目覚め、自分も一緒に行きたいとクラフトに懇願する。クラフトは拒絶するが、執拗に食い下がるアンナの前で考えを翻す。こうして３人でピッツ・パリューに登ることになった。それはちょうど３年前と同じだ。観客はまた同じ悲劇が繰り返されるのかとハラハラさせられる。以上までが映画の４分の１ほどだ。残りは登山、そして遭難、救出と物語が続く。遭難と救出の場面は、前述したように下手すれば撮影隊も遭難するではないかというほどに氷の崖の這い登ったり、また深いクレヴァスを下りたりする。それらがＣＧではないという事実だけでも圧倒的なものがある。レニは５メートルの高さに宙吊りされた状態のまま、頭上でファンクがダイナマイトを爆発させて生じさせた雪崩れに飲まれ、顔を含め全身あざだらけになって、発狂寸前の精神状態まで行ったそうだが、監督を殺してやりたいほど憎んだレニは、この映画の大ヒットによって名声を不動のものにし、その後自分が監督した映画を撮るなどした後、ナチスに見出される。それがレニの才能にとってよかったことは確かであろうが、ナチスと組んだという汚名は生涯ついて回った。<br/>
　脇役だが、ハンスとアンナの友人として複葉機のパイロットであるウデートが前半と後半に登場し、重要な役を演じる。その姿はどことなくサン・テグジュペリを思い出させるところがある。３人が遭難したことを新聞記事で知り、キャバレーで休んでいたウデートは救出に駆けつける。遭難して４日目の朝だ。前日の夜には寒さからハンスは発狂し、クラウスとアンナは彼をザイルで縛りつけるが、その騒動の中、クラウスは足を骨折する。クラウスの態度、すなわち他者を助けることはこの映画の一番重要な主題になっている。命をかけて他者の命を守る。また、村人たちが遭難者を二次遭難を恐れずに救出に向かい、そうした力のない者はひたすら祈るという人間愛が、この映画を美しいものにしている。それはたとえばヘルツォークのような戦後のドイツ映画には見られない。また、この命を賭してという部分は、ふたつの大きな戦争のはざまの気分を伝えているだろう。その中からナチスが国民に熱狂的に迎えられることにもなる。さて、ウデートの飛行機が雪山のピッツ・パリューの間近を飛びながら３人の姿を探す場面もまた撮影の妙味をよく伝える。ようやくのことウデートは３人の居場所を知り、食料などを落下傘で何度も落とすが、どれも間近には落ちない。そしてまた吹雪の夜がやって来る。３人は空腹と極寒の中で震え上がりながら、結局遭難場所に辿り着いたのはクリスチアンであった。遭難した３人の中でクラフトのみが冷静で、しかもハンスとアンナを守りながら、灯りで下界に信号を送り続ける。主役はレニとなっているが、実際はクラフトだ。クラフトはふたりを助けるために凍え死ぬが、妻が亡くなったのと同じ山で眠ることは、幽霊のように山をさまよった苦しい３年に終止符が打たれたことであって、死は本望であったろう。クリスチアンからクラフトの遺書を読み聞かせてもらったアンナは、クラフトの妻が氷の中で凍結している姿を想像したのと同じように、クラフトが氷の中で眠っている姿をまじまじと思いの中で見つめる。映画の最後はくどくなく、クラフトの凝固した姿とアンナのまんじりともしない正面顔を交互に映す。クラフトはアンナが無事に助けられることを思って姿を隠したが、そこには当然、亡き妻をレニのアンナに重ねたところがある。ハンスが重みのない人物として描かれているのに対し、クラフトは落ち着いて頭脳明晰な男であった、アンナがクラフトにほのかに魅せられたのは確実で、その淡い恋心が、雪山の白さと共鳴し合って、この映画をロマンティックなものに仕立て上げている。だが、主役は男女の恋ではなく、非情な雪山だ。その硬質性が実によい。<br/>
　レニはこの映画の当時２６，７歳で、一番美しい頃だ。レニことマリアが氷の中で死んで眠っている静止映像が一瞬映った。特殊撮影と言うか、加工映像なのだが、とてもリアルでまた美しかった。レニはこの映画の後、『青い光』という映画を撮る。それはノヴァリスの『青い花』を連想させる。『死の銀嶺』という邦題はあまりよくないが、原題を直訳すると「ピッツ・パリューの白い恐怖」で、死を連想させないでもない。だが、「死」を含むと、誰かが死ぬという筋立てがわかってしまう。これはよくない。「ピッツ・パリューの白い恐怖」の方が、まだロマンティックさもある。この映画がドイツ・ロマンの伝統を受け継いでいることは、映画の半分ほどを占める氷と雪の映像がロンン主義の代表的画家のフリードリヒの絵画を思わせるものであることからも誰の目にも明らかだが、ドイツが他のヨーロッパ諸国にはないこうした映画を戦前に撮ったことは、映画の歴史の中では永遠に記憶されるだろう。そして、戦後無数の映画が莫大な費用を費やして撮られ来ているにもかかわらず、美しくも真に背筋が凍るようなリアリティのある作品は、こうして１９２０年代に完成していることを思わないわけにはいかない。戦前の無声映画を退屈と思っている人は試しに見るがよい。そうそう、山岳で思い出した。ナチスに頽廃芸術家とみなされたキルヒナーは晩年アルプスに隠棲し、その風景をたくさん描いて死んだ。キルヒナーはこの映画を見て、ドイツ・ロマンの系譜に連なりたいと思ったのではないだろうか。<br/>

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    <title>●嵐山駅前の変化、その２０６（ホテル）</title>  
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    <issued>2012-05-17T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-21T00:27:20+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●駅前の変化</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
村という言葉を先日耳にしてなるほどと思った。あまり詳しく書くことが出来ないので、今日はこの話題を取り上げるべきか、今も迷いがある。また自治会の話だ。<br/><br/>何度も書くように、筆者は今年で会長を４年目を務めている。それがたいていの人には「よくぞ引き受けたな」との思いらしい。見上げたことだという意見と、馬鹿じゃなかろかが半々だと思う。面白いのは、嵐山に住んで３０年にならない新参者の筆者に依頼が来たことだ。そのことを自惚れているのではない。前任者が１２年も担当したことを気の毒に思って引き受けた。４月の総会では、筆者は本年度中に次期会長を決める何らかの方策をみんなで決めたいことを発言した。総会の２，３日前にＡ４の紙１枚にちょうど収まるように、思いを箇条書きにし、それを総会出席者全員に配布した。棒読みでは事情がよくわからないだろうと思い、それを読まずに即興で演説した。２０分から３０分ほどだ。出席者は全員無言であったが、筆者がこの３年間で感じたさまざまな矛盾は伝わったと思う。みんなで集まるには広い場所が必要だ。それにはどの自治会も小学校近くの自治会館を使うが、わが自治会からは徒歩１０分ほどかかることもあって、ある店を借りている。もちろん有料だ。それもあって、そう何度も集会を開くことが出来ない。会長をどのように決めるかという方法をまず決める、つまり多数決で物事を決めて行くという最初の決め事から話し合わねばならず、それを終えてから本格的に会長選出や自治会の会則を整備するつもりだが、会則はもう書き終えている。ただし、それがみんなに認可されるかどうかは別問題で、こうしたことを全部年内に決めるには会合を数回は持つ必要があるかもしれない。だが、経費削減と、またみんな多忙でもあるので、筆者は回覧物の配布で作業を進めるつもりでいて、来月からはたくさんの文書をまとめる必要がある。自治会内の住民全員がハンコを押して回覧したことを確認しながら作業を進めるつもりで、それを３月までにきれいに終えたい。ところが、会則は絵に描いた餅でもあって、そのとおりにうまく動いて行く保証はない。というのは、先日書いたが、わが自治会は６５歳以上が４人にひとりだ。この高齢化を考えると、会長として動きたくても出来ない人も多いだろう。また、会長にはなったが、実質動くのは別人ということにもなりかねない。とにかく、今までとはそうとう異なる状況となっていて、みんなで決めた会則であるからとはいえ、それを盾にしてあまりにドライに事が動けば、自治会本来の趣旨も失われる恐れがある。<br/>
　嵐山が村であるとの意見は、嵐山に住んで４０年になる人から耳にした。その人曰く、「自分はまだ新参者」ということだ。それほどに昔から代々住みついている人たちは団結力があって、よそから引っ越して来た人を本心で受け入れないというのだろう。これこそがよく言われるように京都人のいやらしさでもある。だが、日本のどの村でも同じだ。日本は村社会とよく言われる。それはネット社会にも現われている。筆者は全く見ないが、２チャンネルといった書き込みのサイトは、意見を同じくする者が集まって気炎を上げている。匿名であるし、同じ考えを持つ者同士好き放題を書き込むことが、仲間意識を高めることに一役買っている。村には団結力があって、いざという時にはよい場合もあるだろう。だが、反対によそ者を受けつけず、それでいて内部の者同士が本当に家族のように親しいかと言えば全くそうではない。筆者の見るところ、嵐山は村社会だが、そうでない部分もあって、村の住民とよそ者との対立構造という簡単なことでは割り切れず、結局は人間的に合うか合わないかで人のつき合いが成立している。そのいい例が、筆者が会長を頼まれたことだ。ただし、それは今のところ嵐山村にふさわしい世代が見つからないので、ピンチヒッターという色合いも濃い。それはさておき、２，３０分演説したその元ネタのＡ４用紙は全世帯に回覧された。誰もまともに読まないだろうと思っていると、筆者より年配の地の人がひとり意見しにやって来た。その内容はおおむね筆者への同情だが、会長を決めることや会則の整備が１年で出来るかという心配も含まれていた。だが、筆者としては会長役をせいぜい４年で辞めたいと最初から思っていたので、どうにか強引にでも年内に決めたい。会則が出来た最初の会長として仮に筆者が選ばれたとしても、その１期のみと思っている。その１期が２年ではどうかと総会で話が出たので、ひょっとすればもう２年は続け、計６年ということになるかもしれない。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/18/94/d0053294_153823.jpg" border="0" width="500" height="330"/></center><br/>
　先日松尾大社のお祭りで子ども神輿があったことは書いた。神輿を法輪寺までごろごろと曳いて行きながら、３０代後半のある母親と話をした。ここ２，３年でよく話をするようになった。その奥さんのご主人は深夜の帰宅で、いつも寝るのが３時頃らしい。子どもふたりを抱え、必死に仕事をしている。そのことは以前にもその奥さんから聞いてはいたが、もう少し詳しい事情を知って驚いた。全く健気と言うか、４０代半ばの父親の仕事ぶりがどういうものかを改めて自覚した。奥さんは家計の助けになるようにパート勤務しているが、ご主人があまりにへとへとになって帰宅するので、５０代後半は自分が看病している姿を想像すると言う。ふたりの子のうち、下の男子は今小学４年生と思うが、地蔵盆の時に筆者の頭に抱きついて来たりしてじゃれる。そのようにされることがあまりないのでびっくりした。そのことを神輿を曳きながら奥さんに言うと、ご主人に甘える時間がないとのことであった。早朝から深夜まで働きづめで、子どもは父恋しいのだ。そんな話をしながら奥さんは、筆者に会長を何年も押しつけてすいませんと謝る。筆者が作ろうとしている会則が整備されると、おそらくそのご主人もいずれは会長を担当せねばならない。そうなれば仕事に支障が出る。もちろん仕事を持っている人は多いし、筆者もそうであるから、仕事が多忙という理由で会長役を免れる決まりを作ることは出来ない。とはいえ、４年目になってわかって来たことは、本当に会長にふさわしい人があまり見つからないことだ。また、自治会の存在意義は、いがみ合うことなく、みんな仲よく楽しく顔見知りとして暮らす「村社会」の構成にあるから、そうドライに会長を順に担当するという形が好ましいとは言えない。筆者が２，３０分の演説で言ったことの中に、「公平」という言葉があった。つまり、担当出来る人は順に会長を引き受けるのが筋との考えだ。筆者は４年も担当させられて迷惑だと語気を荒げたのではない。その気になれば１０年でもあるいはもっと長く担当出来るが、そうすれば前任者と同じことになって、筆者の次を決めることが大いに困難となる。筆者のように快く引き受けてくれる人はまずいないと思っておいた方がよいからだ。ならば、筆者の役目は、筆者が仮にいなくなっても、会則でどうにか支障なく自治会が動いて行く仕組みを整えることだ。演説の要旨はそれであった。<br/>
　一昨年よその自治会長を担当したＭさんと親しくなり、そのＭさんが急に思い立って山科に転居したことは先日書いた。そのことを自治会内のある人に話すと、「嵐山に愛着がないんやな」と言う。これには意表を突かれた。地元に愛着のある人はみな「嵐山村」の住民だ。そういう人たちには、まだどこかによそから来た人たちを新参者と見る思いが残っている。筆者にとって自治会の会則の整備は、そういう旧弊の「嵐山村」の意識をなくすことが目的のひとつでもある。だが、先に書いたように、会則は「新たな嵐山村」を構成することでもあって、村意識はなくならない。ただその意識が時代に応じて広がりのあるものになって行くべきだ。その意味での「公平」を思う。また、もうひとつのそれは、言うまでもなく、旧態の「嵐山村」で会長を担当してしかるべき人がそれを免れていることの解消だ。ただし、このことについてはそうとう風当たりが考えられる。そこでいつも思っていることは、一種の開き直りとしての新参者の意識だ。筆者は嫌われても平気で、いつでも引っ越すことが出来るし、別段嵐山に愛着はない。だが、住むからには、それなりに頼まれたことは充分に処理したい。それにどこへ引っ越しても日本は村社会であるから、同じことだ。村に住み、村に一見同化しながら、筆者は村意識を持っていないのだろう。今の若い世代はますますそうではないか。嵐山は田舎とはいえ、都会にあまりに隣接している。そのことがわが自治会内にもそれなりの形で現われている。もっと田舎に行くと、それこそ村意識が強くて住めないだろう。そのことはわが自治会に住む綾部の田舎に住んでいた人から耳にした。そして、そういう古い因習が今なお根強い田舎の住民が都会に出たがっている。それは日本の村社会の崩壊を意味するかもしれない。この村意識が少子高齢化でどう変化して行くか。さて、嵐山村にホテルが建った。今日の写真は去年５月１８日の撮影だ。ちょうど１年目の明日１８日に載せるつもりが、今日書くつもりでいた話題はまだ考えがまとまらない。<br/>

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    <title>●ＲＥＴＵＲＮ ＯＦ 若冲の「薔薇小禽図」の訪問着</title>  
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    <issued>2012-05-16T23:59:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
準備が大変であったと思うが、もう会期が終わって作品は日本に戻って来たであろう。若冲の『動植綵絵』３０幅がアメリカのワシントンにあるナショナル・ギャラリーで一堂に展示された。<br/><br/><img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/17/94/d0053294_0422052.jpg" border="0" width="360" height="500" align="left"/>展覧会の題名は「ＣＯＬＯＲＦＵＬ ＲＥＡＬＭ ＯＦ ＬＩＶＩＮＧ ＢＥＩＮＧＳ」で、これは「生き物の色鮮やかな領域」といった意味だ。「ＬＩＶＩＮＧ ＢＥＩＮＧＳ」は「ＨＵＭＡＮ ＢＥＩＮＧＳ」に対するもので、人間を省いた生物ということになる。今までにも『動植綵絵』はアメリカにわたったことがある。今回は表装が新調されてからは初めてのことで、また全幅というのもそうだろう。会期は３月３０日から４月２９日で、ザッパ関連ニュースで随時ネット上のザッパ関連の記事を調べて送ってくれる、ニューヨーク勤務の大西さんが４月２０日に見に行った。ニューヨークから日帰りで、ひとりでバスに乗って片道４時間、往復で３８ドルということであった。１ドル８５円とすると３２００円ほどだ。京都から名古屋までは高速バスで片道３時間、往復では１０００円割り引いて４０００円であるから、アメリカはかなり安い。また美術館は入場無料であるから、そのことも考慮するとなおさらだ。日本では美術展は今は大人ひとり１０００円以上する。実は今日は家内の仕事が正午で終わりであったので、待ち合わせをして奈良に出かけるつもりであったが、急な用事にばたばたし、その気がなくなった。また、そのばたばたでかなり疲れ、午後はソファで少し眠った。目覚めた時に思ったのは、奈良に出かけていると、きっと帰りの電車の中でぐっすりと眠ったであろうことだ。奈良に出かけるにはかなり思い切りがいる。京都からでは、大阪難波に出て向かうルートと、京都駅から南下する方法があるが、乗り換えをしての合計料金は同じだ。それで繁華街を経由する大阪ルートを選ぶ。いつも奈良で昼食、大阪で夕食ということになるが、家内と奈良の展覧会に行くと、交通費その他で１万円以上は使う。そのため、筆者ひとりで出かけてもいいかと思うこともあるが、天気がとてもよかった今日などは、奈良行きは絶好の機会で、家内は行きたがった。来週あたりには行くつもりでいるが、天気がどうなるか。お金の話になったのでついでに書くと、このブログのネタには、１日当たりどれほどの費用と時間を費やしているかとたまに考える。ＣＤの解説ならば安くつくが、奈良で見る展覧会についてとなると、１万円ほどになって、筆者としては少々高い。そんなふうに経費面で他人のブログを見ると面白い。たまにとてもお金がかかっているものに出会う。たとえば海外旅行の記録だ。北欧に数日行った人が、その感想を２，３日間書くならば、１日当たり２０万円ほど費やしている計算だ。そういう豪華なブログこそが人に楽しみを与え、また存在価値もある気がする。それに引き換え、筆者のブログは１日当たりせいぜい１０００円ほどではないだろうか。かなりしみったれている。金がかかっていないものは華々しさに欠ける。その華々しさがない筆者のブログに今日は多少華やか写真を載せる。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/17/94/d0053294_0425440.jpg" border="0" width="500" height="326"/></center><br/>
　先日からワシントンでの若冲展について少し書くつもりでいた。大西さんからは一昨日メールをもらいながら、その返事をしていなかったので、その返事代わりに今日は書く。もうひとつ理由がある。今日は郵便局に二度往復しながら、あちこちの家の庭先に咲いている真赤やピンクの薔薇の花を楽しんだ。ちょうど通りがかった時、４０代の女性ふたりがその薔薇の話題で盛り上がっていた。男性はあまり花に興味はないというのが相場だが、女性は薔薇が好きだろう。女ふたりが薔薇の花をはさんで笑顔で話し合っている図はなかなか楽しい。そう言えば一昨日家内が、わが家に昔薔薇の木が２，３本あって、大輪の紫がかったピンクや真赤な品種が毎年花を咲かせていたことを思い出した。それが枯れたのは風通しが悪くなったからだ。薔薇は広い庭に植えてやるのがよい。また虫がよくつくので、その処理も必要だ。放ったらかしにしていたので、いつの間にか枯れた。アンリ・シダネルではないが、薔薇をたくさん育てるには、よほど広い土地が必要で、京都市内では無理だ。郵便局までの道のりに４か所ほど薔薇を育てている家がある。うち１軒はおもちゃの庭のように狭いところで実にうまく育てている。そのほかは半ば放置状態で、そうなればせっかくの薔薇もどことなく惨めで、元気がないように見える。また、ある家では２，３日前に白の一重の品種が満開で、しばし立ち止まって眺めた。それは『動植綵絵』の「薔薇小禽図」に描かれるものとそっくりで、日本の古来品種ではないだろうか。それはさておき、薔薇は年中見かけるが、やはり５月が季節だ。この季節に京都府立植物園で薔薇をたくさん写生したのは、もう１０年もっと前のことだ。またそういうような時が過ごせるようになればいいと思いながら、年々時間が短く感じる。時の経過が早いと思うのは、このブログにしても同じだ。「薔薇小禽図」をそのまま友禅訪問着に染めたことの最後の投稿は去年１１月２０日のことで、半年前になる。その投稿を読んだ大西さんがメールをくれてから、うまい具合にと言おうか、「薔薇小禽図」がアメリカで展示されることになった。そして、それをもう大西さんは見て来た。そのメールから引用する。展覧会で見た「薔薇小禽図 / ROSES AND SMALL BIRD」は、素晴らしい作品でした。大山さんの着物の作品と比べる前に、若冲の赤い薔薇の色が、以外に沈んだ赤で表に出てくるような強さがないのに驚きました。鶏などの鶏冠などで強烈な赤も使っているのにあえて薔薇の花ではあえて抑えたのでしょうか？ 大山さんの着物では、写真でですのであくまで印象ですが、気持ち暖かく表に出てくる美しい赤でしかも陰影のせいかもしれませんが、着物の裾の方が、幾分赤が濃く見える印象でとても落ち着いた感じです。」<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/17/94/d0053294_0433967.jpg" border="0" width="360" height="500" align="left"/>　「薔薇小禽図」をそのままキモノに染めるとはいえ、全く同じ顔料と構図では無理だ。若冲の『動植綵絵』は水の中に漬けて汚れを洗い取ることは出来ない。そんなことをすれば絵具はすぐに剥げ落ちる。だが、若冲時代に洗っても色落ちしない友禅染が完成していた。それは顔料よりも染料を主に使用する。その染料はそれこそ『動植綵絵』に描かれる生物から抽出するもので、現在のような化学的に合成したものではない。その分、安定度が低かったが、媒染を入念にするなど、企業的秘密を各職人が手にして、華麗でしかも褪色しにくい工夫を凝らした。『動植綵絵』は顔料だけではなく、染料も使っているが、画家が染料を使うことは珍しいことではなかった。若冲よりはるか昔から、色として使えるものは何でも使おうと思いがあった。「薔薇小禽図」の赤い薔薇の色合いは、滑らかなぼかし具合からしても染料を使っている。蘇芳と思うが、この植物染料を昔何度か染色に使ったことがある。独特の深みのある色合いで、化学染料ではまず出せない。だが、蘇芳を科学染料と一緒に使うのはいろいろと制限がある。筆者が染めた方法は、蘇芳の木片を釜で煮出し、その染液を大きな刷毛で生地に引き、乾燥後に媒染剤を引くということを繰り返して濃度を高めるもので、友禅染のように細かい区画に筆で色を挿すことは出来ない。あるいはその方法がわからない。また、何度も染め重ねた蘇芳は濃度が高くなったのは当然だが、光に当てていない箇所と、当て続けた個所が比較すると、２０年の間にかなり変色していることがわかる。植物染料で染めたものは化学染料より安定がよいというのは幻想だ。どっちも褪色する。変化しないものなどないのだ。だが、若冲はそのことについてどういう考えを抱いていたであろう。『動植綵絵』は今でも「ＣＯＬＯＲＦＵＬ ＲＥＡＬＭ」と言われるほどに色鮮やかだ。その理由は保存のよさもある。あまり光に当てなければそう褪色しない。今回のアメリカでの展覧会は図録がアマゾンで３０００円台で買えるが、どうやらそれはクローズアップを多用して細部の妙を見せるものとなっている。同じ視点はすでに小学館から出ている分厚い画集で試みられた。その本には「薔薇小禽図」の細部の図版が６，７点載る。印刷ではあるが、その赤い薔薇の色合いは、筆者が昔染めた蘇芳色に近い味わいだ。これをよく知っていたので、「薔薇小禽図」を題材に訪問着を染める際、一時は蘇芳を使おうかと思った。それをやめたのは、化学染料との混じりだ。訪問着を染めるのに、「薔薇小禽図」がそうであるように、墨や胡粉を多く使ったが、そのほかの色はすべて化学染料だ。それを植物染料に代えるには、江戸時代の友禅染と同じことをせねばならない。そして、その方法は明らかになっていない。企業的秘密として、職人たちは得意とする技術を門外には伝えなかった。おおよそはわかるが、そのおおよその中から確実な技術を獲得するには長い年月を要する。また、そうして染めたものが１００，２００年を待たずに悲惨な褪色ぶりを示さない保証はない。大西さんの先のメールに対する返事になっているかどうかわからないが、「薔薇小禽図」を訪問着に染めるのは、染料ひとつを取っても悩ましいことがある。これに構図も加わるから、ブログ数回の投稿では１回当たり大変な労力と経費がかかっている計算だ。それもあって、今日は以前使わなかった「薔薇小禽図」の訪問着の写真を２点載せる。１点は上前見頃の裾から上部、もう１点は写真館で筆者のカメラで撮った。最初の写真は大西さんのメールに添付されていたものを少しだけ小さくした。<br/>

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    <title type="text"><![CDATA[PR: ４ＬＤＫ超！って…ひ、広い！憧れの間取りに住む！]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/R2vaoA1LWXJz/1E0n3zdnK2x2?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/R2vaoA1LWXJz/1E0n3zdnK2x2?type=3&ent=891243bfc4dec70ea1eb171813035c10"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > １５畳リビングも！やっぱりこの広さが欲しい。即入居可！の新築マンション特集 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
    <created>2012-05-17T00:43:40+09:00</created>
    <modified>2012-05-20T00:17:00+09:00</modified>
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    <title>●『ＤＷＥＥＺＩＬ ＺＡＰＰＡ　Ｌｉｖｅ―‘Ｉｎ Ｔｈｅ Ｍｏｍｅｎｔ’―』 その３</title>  
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    <issued>2012-05-15T18:42:00+09:00</issued>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
逐語訳ではわかりにくい箇所が多々あるので、昨日載せたドゥイージルの文章の補足説明を続けると、「メタ・データ」という言葉がある。これは父の曲を外から眺めるだけではなしに、父が作った空気の彫刻である音楽の響きの内部に刻まれている遺伝子情報の中に含まれるデータのさらに大きな法則と解釈するとよい。<br/><br/>もう少し噛み砕いて言えば、ある曲を逐一音符をなぞってコピーするのではなく、その曲がどういう旋法で成立しているかを知ることだ。フランクの曲は長短の調整で完全に分別出来るものではなく、ある音の並びを基礎としてギターの即興演奏が組み立てられている。それはその使用されている旋法がわかれば誰でもある程度は似た音の列が演奏出来ることでもあるが、実際の曲となるとそんなに簡単に割り切れるものでもない。ある曲の調性を知れば、誰でも優れた即興演奏が出来るかと言えば、全くそうではないのと同じだ。曲の背骨のような旋法から特徴的なメロディを多く紡ぎ出すことは、創造力が欠かせない。それには「自由な思いの即興と音色の霊感」が同等に必要で、しかも「そこへサウンドに導かせる」ことで、それが可能となるとドゥイージルは考える。この「サウンド」という言葉をどうイメージするかだが、ギター・ソロの場合、ギターの音色とバック・バンドの演奏だ。前者については『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』では各曲ごとに使用したギターとエフェクターを明記している。それはギタリスト以外には関心のないことだろうが、ドゥイージルにとっては重要なことで、アルバム・ジャケットに描かれるように、もっぱらギブソンのＳＧを使っている。またエフェクターについては２枚のディスクを収めるトレイ底のイラストに描かせているほどで、『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』を支えているのは、こうした機材のお陰ということになる。作品の仕上がりは道具に左右するという考えは父親譲りだ。ところが、ギターの特色ある音色だけでは創造性は獲得出来ない。そこでバック・バンドの演奏が大きな意味を持つが、父が書いた曲をバックの演奏やギターの音色まで忠実に模倣するならば、どこにドゥイージルの創造性が宿る余地があるか。それをドゥイージルは父の曲の外観と内部の基本データを熟知したうえで、「自由な思いの即興」に委ねるというのだ。こうした行為は試行錯誤の連続であることは言うまでもない。父の曲をひとまず全部勉強し終わってからようやくコピー演奏を始めるというのではなく、とにかくまず始め、少しずつ父の世界に分け入るという考えだ。準備期間は別にして、ＺＰＺは６年前の結成で、その後大量のツアー録音を手中にはしたが、それらはＣＤとしてまとめるにはバランスが悪いほどミキシングがばらばらであった。それがこの３年間の演奏はようやく納得の行く素晴らしい「瞬間」をたくさん獲得出来て、それが『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』と『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』の同時発売された１０００部限定の２枚組ＣＤとなった。今後ＺＰＺを何年続けるのかわからないが、『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』の意味が自宅に具えた録音貯蔵室であることを思えば、そこからいつでも同様のアルバムを編集出来る余裕を伝える。その一方でいみじくもドゥイージルが「創造的な空間の中で自己をいかに表現出来るか」と書くように、独創的な音楽家としての自信を充分得た段階でＺＰＺを解体して、またオリジナル曲を演奏するのではないだろうか。ドゥイージルは父とは違って寡黙だ。そのことがかえっていいのではないか。寡黙さの向こうに人知れない苦労を抱えているはずで、また少しずつ父の音楽の世界を理解し、父とは違う自分のものを見出そうと、もがいている姿が思い浮かぶ。ステージを見に来てくれる人々があってこその『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』と『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』で、そのＣＤが世界でわずか１０００枚限定であることを思うと、これは創造ということを多少とでも理解を示す人であるならば、誰もがダウンロード出来るサイトに音源を載せたり、またＣＤ－Ｒに焼いて友人たちにばら播くことはよもやしないであろう。ＦＡＮＴＯＭレコードのＴＯＭから『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』を無料で送ってもらったので持ち上げるのではないが、せめて『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』の見開きに書かれていた同社の意思をここで伝えておきたい。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/94/d0053294_1845154.jpg" border="0" width="500" height="221"/></center><br/>
　曲目解説を簡単にしておくと、ディスク１の最初の曲「ＦＬＩＭ ＦＬＡＭ」はシュガーケイン・ハリスのヴァイオリン・ソロそっくりな音色のギターで、これは父がやらなかった。エフェクターの進歩があってこその曲だが、それだけではなく、ドゥイージルはハリスの奏法の癖をよく学んでいる。また、この曲を聴くと、ＺＰＺにはヴァイオリン奏者は不要と思える。何の曲から抽出したかはわからない。２「ＧＵＩＴＡＴＬＯＳ ＭＡＮＴＡＮＡ」は、『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』にも収録される「ＣＩＴＹ ＯＦ ＴＩＮＹ ＬＩＴＥＳ」のソロで、ここではもっと短く１分しかない。３「ＴＨＡＴ‘Ｓ ＨＥＡＶＹ」は「ＨＥＡＶＹ ＤＵＴＹ ＪＵＤＹ」。４「ＣＵＲＬＹ ＴＯＥＤ ＳＨＯＥＳ」はたぶん「ＺＯＭＢＹ ＷＯＯＦ」。５「ＹＯＵ ＣＡＮ’Ｔ ＧＥＴ ＴＨＥＲＥ ＦＲＯＭ ＨＥＲＥ」は何の曲からか不明だが、おそらく「ＹＯ‘ ＭＡＭＡ」か。６「ＴＨＡＴ‘Ｓ ＲＩＧＨＴ」は「ＫＩＮＧ ＫＯＮＧ」からで、スローなソロはキーボードに聞こえるが、１に似た音色でもある。７「ＳＴＩＮＫ ＰＡＴＲＯＬ」は「ＳＴＩＮＫ－ＦＯＯＴ」。８「ＴＨＥ ＳＴＩＮＫ ＥＹＥ」はバックのリフが特徴的だが、思い出せない。９「ＴＨＥＹ’ＲＥ ＡＴＴＲＡＣＴＥＤ ＴＯ ＴＨＥ ＬＩＧＨＴ ＭＡＭＡ」はディスク１では最長で７分。『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』にも収録される「ＹＯ‘ ＭＡＭＡ」から。ただしここではヴォーカルをカットする必要上、最後はうまく処理している。父の演奏をかなり忠実にコピーしているが、それは特にメロディアスな冒頭部分で、そういった箇所はフランクも全くの即興でたまたまあるステージの際に閃いたというよりも、ステージを重ねるごとに徐々に見出して行ったもので、楽譜に鉛筆で作曲しなかっただけで、同じことを実地にしたと言える。つまり、ドゥイージルにすれば父のソロのどこからどこまでが動かし難いものか、判断に迷うところが多いはずで、この９曲目は、父とは違うメロディが少しずつ増えて行くのが面白い。よほど好きな曲でしかも観客を魅了したと自信があるのか、題名にそれが表われている。１０「ＮＥＡＰＯＬＩＴＡＮ ＳＵＮＳＥＴ」は題名が示すようにナポリで収録された。静かな演奏でうっとりさせられる。おそらく「ＩＮＣＡ ＲＯＡＤＳ」だろう。ディスク１ではベスト・テイクではないだろうか。『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』収録の曲名はどれもドゥイージルの詩情が出ており、曲の内容とよく似合っている。１１「ＦＩＲＳＴ ＤＡＹ ＷＩＴＨ ＴＨＥ ＮＥＷ ＢＲＡＩＮ」は全く切れ目なしに前曲とうまくつながるが、レゲエのリズムに変わる。何の曲からかは不明。１２「ＦＯＬＬＯＷ ＭＥ」も同様。１３「ＹＯＵＲ ＳＬＩＭＥ ＩＳ ＯＮ ＦＩＲＥ」は「Ｉ’Ｍ ＴＨＥ ＳＬＩＭＥ」からであることは昨日書いた。題名から熱気溢れる演奏であることがわかる。<br/>
　ディスク２。１「ＪＵＳＴ Ａ ＴＲＩＭ」は４分４５秒で、１６「ＤＥＡＴＨＬＥＳＳ ＨＯＲＳＩＥ ＲＩＤＥＳ ＡＧＡＩＮ」に次いで長い。ドゥイージルの技量を示すうえでは最適の曲かもしれない。父にはなかった印象深い速弾きの箇所があり、個性的名演といったところ。「ＩＮＣＡ ＲＯＡＤＳ」のソロではないかと思うが、正しくは不明。２「ＰＨＡＳＥ ＭｃＮＵＧＧＥＴ」も不明。３「ＳＯＵＴＨＥＲＮ ＧＡＲＶＹ」は「ＣＡＬＯＬＩＮＡ ＨＡＲＤ ＣＯＲＥ ＥＣＳＴＡＳＹ」と思うが不明。４「ＣＡＮＡＤＩＡＮ ＪＡＺＺＲＣＩＳＥ」はバックの演奏から「ＣＩＴＹ ＯＦ ＴＩＮＹ ＬＩＴＥＳ」だろう。ディスク１の２とは違ってサックス・ソロと絡む。５「ＳＣＲＡＴＣＨ」も不明。６「ＨＡＩＲ ＣＬＵＢ ＦＯＲ ＤＯＮＩＥＳ（ＧＲＥＡＳＹ）」はアルバム『ジョーのガレージ』の「ＷＥＴ Ｔ－ＳＨＩＲＴ ＮＩＧＨＴ」だろう。７「ＷＨＥＲＥ ＥＶＥＲＹＯＮＥ ＳＴＩＬＬ ＬＯＯＫＳ ＴＨＥ ＳＡＭＥ」はギター・ソロ曲の「ＣＡＮＡＳＩＥ」で、イントロの短い語りまでコピーしている。８「Ｉ ＰＲＯＭＩＳＥ ＮＯＴ ＴＯ ＭＥＳＳ ＵＰ ＹＯＵＲ ＨＡＩＲ」は題名から想像出来るように「Ｉ ＰＲＯＭＩＳＥ ＮＯＴ ＴＯ ＣＯＭＥ ＩＮ ＹＯＵＲ ＭＯＵＴＨ」だ。９「Ａ ＣＨＩＣＫ ＷＡＬＫＳ ＯＮ ＴＯ ＴＨＥ ＳＡＴＧＥ」も題名が面白いが、ＣＨＩＣＫは鶏ではなく、チック・コリアだ。ＺＰＺはリターン・トゥ・フォーエヴァーと共演しており、その時に得た録音だ。最初にチックのキーボード・ソロがあり、後半はドゥイージルのギターとの掛け合いとなる。この曲に今後のドゥイージルの進む道が示唆されているかもしれない。つまり、フュージョン系のミュージシャンの仲間入りで、オリジナル曲を演奏しながら、有名どころと共演して腕を磨くという方法だ。１０「ＢＡＴ ＳＡＮＤＷＩＣＨ」は前曲から一転してヘヴィーな音に変わる。父の「ＳＯＵＰ‘ＯＬＤ ＣＬＯＴＨＥＳ」を聴くような思いにさせられるが、何の曲かは不明。これはバックの演奏のリフが特徴的でないからで、前述の「サウンドに連れて行かせる」を引き合いにするならば、そのサウンドを変えれば独創も変わり、また増すという考えだろう。１１「ＷＨＡＴ ＤＩＤ ＹＯＵ ＭＥＡＮ ＢＹ ＴＨＡＴ？」は前半は比較的スローな演奏でスペイシーな音色、バックの演奏も父にはない音だ。後半に勢いが増して熱気を帯びるが、これも「ＩＮＣＡ ＲＯＡＤＳ」だろうか。１２「Ａ ＮＩＧＨＴ ＯＵＴ ＩＮ ＴＥＬ ＡＶＩＶ」はテルアヴィブで収録された。父が演奏しなかった場所まで赴いたことの記念曲か。「ＺＯＭＢＹ ＷＯＯF」だと思うが、それを言えば１３「ＭＩＤＲＡＮＧＥ ＥＸＰＬＯＩＴＡＴＩＯＮ」もそうかもしれない。１４「ＩＳ ＴＨＩＳ ＳＡＦＥ？」は前半のギターの音色がロマンティックでよい。後半はそれが一転する。「ＩＮＣＡ ＲＯＡＤＳ」のような気がするが、もしそうならば、同じヴォーカル曲でもギター・ソロは自在に形を変えていたことになる。もっとも、それは父がこの曲で盛んにやったことで、その道の上を進んでいるに過ぎないかもしれない。１５「ＷＨＡＴ ＫＩＮＤ ＯＦ ＭＵＦＦＩＮ ＩＳ ＴＨＩＳ？」は説明が不要か。最初にシーラ・ゴンザレスがドゥイージルの名前を観客に向かって唱える。演奏は２分に満たない。もう少し長めに聴かせてくれるとよいのだが。ひとまずこの曲でステージが終わり、最後にアンコールで静かに「ＤＥＡＴＨＬＥＳＳ ＨＯＲＳＩＥ ＲＩＤＥＳ ＡＧＡＩＮ」が始まる。アルバム制作には選曲と配列の双方の作業が欠かせないが、『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』はＣＤ２枚に休憩をはさんだ前半と後半のふたつのステージが収録されている形をしている。この続編はいずれ出るだろう。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/94/d0053294_18453425.jpg" border="0" width="500" height="349"/></center><br/>
　ついでに書いておくと、５月１１日にゲイル・ザッパから「Mothers Day 10 May & Roxy Performances」という名目のメールがあった。何年も前から期待されている１９７４年のロキシーでのライヴ演奏の映像がようやく発表のめどが立ちそうだ。フランクがせっかく撮影しながらそれを発売しなかったのは、映像と録音した良質な音とのシンクロが困難で、その作業を徹底するには途方もない時間と費用がかかると考えたからだ。フランクが放棄した企画をその後長年費やしながら、どうにか商品に出来ないかと模索し続け、ついにゲイルはあるアイデアを思いついた。それをメールの最後で示唆している。簡単に言えば資金難であるので、同ライヴ映像が商品になった時に、そこに予約者か、いくらかの資金を提供してくれた人の名前を表記するという考えだ。それがアルバム『ＭＯＦＯ』のようにＣＤブックレットの内部に細かい文字で印刷されるのか、あるいは映像のエンドロールに映し込まれるのかはわからないが、おそらく予約を取るのは確実で、『ＭＯＦＯ』と同じように名前を印刷することとは別に、寄付してくれる人の名前をエンドロールに入れるのではないだろうか。また、このライヴ映像はＤＶＤとして商品化すると同時に、劇場での公開も考えているのだろう。年内は無理でも、来年には発表されるかもしれない。ザッパ・ファンはドゥイージルの活動とは別に、フランクの録音の発売を期待している。それはゲイルの年齢を考えても、ここ数年でかなりの枚数が世に出るのではないか。また、そうでもしなければ、やがてはゲイルの監修が得られず、ＣＤ化は先細りになるか、その反対にあまり良質でないものまで発売されるかもしれない。<br/>
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/94/d0053294_18455364.jpg" border="0" width="360" height="500" align="left"/>　ドゥイージルが父の音楽をＺＰＺという形で広めようとするのは、時代を超えて伝えるべき価値があると信じるからだ。筆者は２０代頃から４０年聴き続けているが、ザッパの音楽を知らない音楽ファンにそのよさを伝えることには骨が折れる。そのため、ほとんどそんな真似はしないが、自分が好きな曲は聴いてほしいという思いは常にある。膨大なザッパの曲の中からザッパの個性を手短に伝えるにはどうすればいいかを昔からそれなりに考えて、カセット・テープに編集したことがある。それは、同じ曲をどう編曲して発売し直しているかに着目したもので、『ＤＷＥＥＺＩＬ ＺＡＰＰＡ　Ｆ．Ｏ．Ｈ．』その３に書いたように、たとえば「ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」だ。それで今日は最後にその後の同曲を焼いたＣＤ－Ｒについて追記しておこう。数日前にＷＩＮＤＯＷＳ ＶＩＳＴＡの中古パソコンを入手したことは書いた。これでようやく仕事部屋の３階でＹＯＵＴＵＢＥを見ることが出来るようになったが、早速「ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」を検索して見つけた投稿がいくつかあった。ひとつは日本人バンドによる、「ＳＯＮ ＯＦ ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」だ。いかにも味噌臭い演奏だが、これは仕方がない。それが味であるし、それが日本だろう。彼らの演奏は最初の１６小節主題を何度も繰り返すもので、ギターやキーボード、ドラムスが順にソロを担当する。フランクが同曲をそうしたように演奏したかと言えば、レコードにはしなかったが、した。それは１９６８年秋パリでの演奏で、海賊盤で聴くことが出来る。実はこの音源をデジタルで筆者は所有していない。ところがそれもＹＯＵＴＵＢＥに載せられていることを知った。早速それをダウンロードして音のみ抽出した。そして、『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』その３に記した特製ＣＤ－Ｒに組み込んで新たに焼き直した。その曲目は以下のようになった。<br/>
１、「ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（『ＵＮＣＬＥ ＭＥＡＴ』）<br/>
２．「ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（１９６８年パリ・オランピア劇場）<br/>
３、「ＳＯＮ ＯＦ ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（ＬＰ『ＨＯＴ ＲＡＴＳ』ヴァージョン）<br/>
４、「ＳＯＮ ＯＦ ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（１０枚組ＬＰ海賊盤「ＭＹＳＴＥＲＹ ＤＩＳＣ」に収録される３曲メドレーのうち、冒頭２分４４秒のみ）<br/>
５、「ＳＯＮ ＯＦ ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（ＣＤ『ＨＯＴ ＲＡＴＳ』ヴァージョン）<br/>
６、「ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（『ＴＨＥ ＢＥＳＴ ＢＡＮＤ ＹＯＵ ＮＥＶＥＲ ＨＥＡＲＤ ＩＮ ＹＯＵＲ ＬＩＦＥ』）<br/>
７、「ＳＯＮ ＯＦ ＭＲ．ＧＲＥＥＮ ＧＥＮＥＳ」（『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』）<br/>
１はおそらく１９６７年かその１，２年前の録音だろう。作曲はもっと遡るかもしれない。ともかくスローなヴォーカル曲だ。これがどのように変化して行くかが上記のリストでわかる。２は歌がなく、テンポも速くなっている。１６小節単位でメンバーがソロを取る。ところがその演奏から１０か月ほど経った３では驚くべき変化が見られる。歌がないのは同じでも、テンポはさらに増し、また楽器は多彩になっている。そのうえ、これが重要だが、１６小節の主題は最初と最後のみで、中間部は新たに楽譜に書き起こした、あるいは即興で得られたギター・ソロを元に各楽器で色づけしている。ここには後年に至るまで変わらないザッパの作曲方法、レコード作りの着想が全部出ている。そして、他人が模倣出来ないのはその部分だ。それでもなおこの３の長大なギター・ソロをそのままコピーしようとする人はあるし、ＹＯＵＴＵＢＥでもそのような演奏がアップされている。おまけに『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』ではドゥイージルも同じことをしている。巧みに編集された３をライヴで再現するのは至難の技のはずだが、レコードの音がどのようにしてテープ編集されたものかわからないファンにすれば、それはスタジオでそのままの形で演奏されたものと思い込むしかない。２から１年と経たずにザッパがギターの腕前を極端に向上させたとしても、２と３の落差はあまりに大きい。そこにはレコードでしか出来ない魔術がある。とはいえ、ザッパの管弦楽団用の作曲能力からして、３の多彩な音は２を演奏した時にすでに獲得されていた。そういうロックとは違う音楽の才能があって初めて３は生まれる。それをおそらくドゥイージルは痛いほど知っており、３を演奏するのはギターの一音ずつを忠実にコピーするしかないと思っている。同じような曲に「ＹＯ‘ ＭＡＭＡ」のギター・ソロがある。これも違う会場で収録したものをくっつけているが、そのようにレコード化されると、それが完成形となってその再現を迫る。そのことをナポレオン・マーフィ・ブロックは父フランクの考えを理解していないと揶揄するのだが、ドゥイージルが父の作品の構成の秘密として「自由な思いの即興と音色の霊感」を思う時、特に前者の「自由な思いの即興」が意味するところは、さほど単純な問題ではないことを知る。確かに３のギター・ソロはそういう思いの産物であろうが、思いを自由に羽ばたかせるだけで得られる演奏では決してない。それは１６小節の主題が確固たるものとして揺るがないのと同じように、どのフレーズも厳選された味わいをたたえる。つまり、厳密には即興ではない。あるいはあえてそれを使いたいのであれば、膨大な即興を重ねた果てに見つけたこれぞという音の連なりで、主題の作曲と何ら大差がない。そうした作品としての厳格さこそが、空気彫刻の中でも高くそびえ続ける。筆者はそういう作品をザッパが書いたことにこの４０年勇気づけられて来た。膨大な作業の果てにわずかに得られる宝石の輝きがある。３はそういう曲だ。２にはまだそれがない。そして、同じ主題を使いながら、こうも作品を磨き続けたザッパの姿勢を、芸術を志す人にわかってほしい。そのために上記の曲目の配列のＣＤ－Ｒを１枚焼き、またそこに自分で解説をつけようと思っている。<br/>

        ]]></content> 
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    <title>●『ＤＷＥＥＺＩＬ ＺＡＰＰＡ　Ｌｉｖｅ―‘Ｉｎ Ｔｈｅ Ｍｏｍｅｎｔ’―』 その２</title>  
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    <issued>2012-05-14T23:59:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-18T10:36:59+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
瞭然は一目では言うが、一聴では使わないのは、一度聴いただけでは音楽はよくわからず、また誰もが同じようには感じないからだろう。それにザッパがよく気づいていたように、音は嘘をつくことが出来る。<br/><br/>これはデジタル時代になって画像、映像もそうなった。見えているもの、聞こえているものが、実際にそのままの形で存在したものとは限らず、加工が施され得る。ザッパのステージを生で見ることは一目瞭然の現実の体験だが、その録音はもはやそうではない。そのそうではないことを盾に取ってザッパはレコード作りをした。その一方でライヴ録音をそのままアルバムとして発表することにも考えが及んでいたのは、生のステージならではの、つまり観客の息を感じての思いがけない演奏の高揚を期待したからだが、全くミスのないあるステージの録音がえられたとしても、それをアルバムとして発表することはもうすでに現実そのままではない。『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』の「その１」の写真を載せたが、『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』のジャケットはカル・シェンケルがザッパのＣＤ『ＤＯＥＳ ＨＵＭＯＲＳ ＢＥＬＯＮＧ ＩＮ ＭＵＳＩＣ？』に揃えて描いたもので、またその『ＤＯＥＳ ＨＵＭＯＲＳ……』のイラストは、同アルバムの再発に際してザッパが依頼した。この再発盤の方が音に迫力があり、またわずかに演奏が長いので、ほとんど初回盤を聴くことはないが、それでも再発盤の音がすっかり気に入っているのではない。図太くて迫力のある音に仕上がってはいるが、どこかゴツゴツ、ボコボコした感覚がある。それは初回盤にはないが、ＣＤが発明された頃の発売でもあって、全体に音が頼りない。先日その２枚を聴き比べながら思ったのは、同じ録音テープでもこうも違う音としてＣＤが作られることだ。ライヴ録音であっても、それはたったひとつの現実とは到底言えないことになる。生演奏であっても、会場のどこに座って聴くかで音が違い、またエフェクターやマイクその他、電気的に処理される音はどうにでも改変することが出来る。そして、とにかく１枚のＬＰやＣＤに音が缶詰状態にされたとしても、それを再生する装置でまた音が違って聴こえる。これは書いたかどうか、最近オーストラリア製のＣＤプレイヤーを買った。その音が全体に柔らかく、ほかのプレイヤーとはかなり違って面白い。それをスピーカーを変えればまた違って来るから、音は全く一聴瞭然とは言えない。それはともかく、ザッパの音楽を長年聴いている者でなければ、その本質がわからず、また楽しめないかと言えば、そうではないだろう。どの曲にもザッパらしさはあるはずで、わずかな曲を繰り返し聴くことで、その音の独自の世界の味がわかる。ザッパの音楽を知らない人にそれをどうして伝え得るかを考えて最近１枚のＣＤ－Ｒを焼いたが、それについては明日書く。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/94/d0053294_012246.jpg" border="0" width="500" height="227"/></center><br/>
　『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』にはドゥイージルによる短い説明が載っているが、『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』にはもう少し詳しく思いを書いている。文章の題名は、『「Ｉｎ Ｔｈｅ Ｍｏｍｅｎｔ」としたい理由』で、以下に本文を逐語訳する。「２００６年にＺＰＺは誕生した。その時以来、さまざまな音の地形を探検する機会を持って来た。それは父の音楽の外観だけではなく、父が耳のための空気の彫刻へと変異させるために空気の粒子をよく果敢に指揮したサウンドのＤＮＡの内部に潜んでいるメタ・データもだ。思うところ、これらの記念碑の構築方法は自由な思いの即興と音色の霊感であった。<br/>
フランクの音楽の文脈の中でソロを演奏するには、この方策をくっつけなければならないことは知っていた。質問はこうであった。その創造的な空間の中で自己をいかに表現出来るか。答えはこうであった。サウンドにそこへ連れて行かせるとよい。フランクはかつここう言った。「音楽は時を装飾する。」 この２枚組ＣＤは自分自身の地帯を装飾することに費やした時間のわずかな部分を表している。<br/>
どの曲もバンドとわたくしが「瞬時に」を獲得した例となっている。サウンドの幅広い多様性がこれらの瞬時に利用されていて、またこの過程で自分自身の声を発見したかのように感じている。演奏はわたくしの広大なＦＯＨ－Ｆｒｏｎｔ Ｏｆ Ｈｏｕｓｅ－参考図書室から選ばれた。伝統的に、ＦＯＨミックスはさまざまな欠陥を抱え、レコードの素材として発売するのに充分なバランスを持っていない。そうではあったが、これらの特別のＦＯＨミックスは優れた詳細なサウンドを持っていると思う。ゆえに、これらのＣＤでは素材のためのマルチトラックのセッションは持たず、音楽的瞬間がここに実際生じたという唯一の公的証拠となっている。<br/>
この、最新３年間のツアーから好みの瞬間をいくつか編集したものを楽しんでほしい。この特別限定ＣＤセットをショーにやって来てくれてこれらの瞬間を可能にしてくれた人たちすべてに捧げる。」<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/15/94/d0053294_012295.jpg" border="0" width="500" height="224"/></center><br/>
　いささか固い文章になったが、このアルバムに収録したギター・ソロには自信があるようだ。「サウンドにそこへ連れて行かせるとよい」は、サウンドが曲のムードを作り、その中でソロがどう表情を持って連なって行くかは自明のことという意味に捉えればよい。これはギターの音色もあるが、ドゥイージルが演奏している間のバンドの演奏の役割が大きい。また、そのバンドが奏でる演奏はフランクのオリジナルどおりでなくてもよい。オリジナルを模倣しながら、そこから派生する音色もまたそのオリジナルが持っていた世界であり、そのようにして演奏は少しずつ変わって行く。昨日書いたように、フランクとかつて共演したナポレオン・マーフィ・ブロックはドゥイージルの演奏はフランクの考えを理解していないと考えているが、一方でギター・ソロの腕前をほめているのは、矛盾があるのではないか。『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』に含まれるのは、フランクのソロを完全コピーした演奏ではない。つまり、融通が利いている。どの曲もヴォーカル曲の中間ソロから取られたと書いたが、実際はインストルメンタル曲もあって、たとえば「キング・コング」のソロがディスク１に含まれる。同曲はフランクにとって各メンバーが順にソロを奏でるのに便利で、晩年までレパートリーに含め、それは最初の録音とはかなりかけ離れた演奏となった。そのことを知るドゥイージルは、同じ曲を取り上げながら、父がやらなかったアレンジを施している。それはメンバーが違うから当然ではあるが、フランクが残したアルバム中の同曲を忠実にコピーしなかった。そのため、ナポレオンの意見は少々誇張が混じる。「これらの記念碑の構築方法は自由な思いの即興と音色の霊感であった」は、父の音楽が記念碑としてそびえており、それと同じ高さで立派なたたずまいのものを建てるには、「自由な思いによる即興と音色への霊感」が必要だとドゥイージルはＺＰＺを結成する前から知っていた。ただし、その「自由な思いによる即興」というものが、自分のギターには適用されても、他のメンバーに対しては極度の逸脱を許さなかったのだろう。その極度がドゥイージルとナポレオンでは考えが違った。だが、これも昨日書いたように、メンバーの自由度が高かったのは、天才的才能が集まった７０年代前半までで、それ以降次第にフランクはメンバーをロボットのように扱った、つまり技術抜群でザッパの指示に忠実に動くことを欲した。そうであるからこそ、シンクラヴィアを導入もした。<br/>

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    <title>●『ＤＷＥＥＺＩＬ ＺＡＰＰＡ　Ｌｉｖｅ―‘Ｉｎ Ｔｈｅ Ｍｏｍｅｎｔ’―』 その１</title>  
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    <issued>2012-05-13T23:40:00+09:00</issued>  
    <modified>2012-05-18T10:37:32+09:00</modified>  
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    <dc:subject>●新・嵐山だより</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
贈り物が届いた。イギリスのファントム・レコードのトムからの、ドゥイージルの２枚組ＣＤ『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』だ。先ほどトムにお礼のメールを出した。「トムのファンになりました。何しろファントム・レコードですからね。」とは書いていない。<br/><br/><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/94/d0053294_23394322.jpg" border="0" width="500" height="227"/></center><br/>
事情がわからない人のために改めて書いておくと、先月ドゥイージルのギター・アルバム『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』を注文したのに、価格が少し高い『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』が届いた。間違っているとのメールをすぐに送った。すると、翌日の４月２５日、早速返事のメールが届いた。商品を誤ったことの謝りと、早速『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』をプレゼントするとのことであった。今月中旬に届くかと思っていたところ、日曜日の今日届いた。郵便は通常日曜日は配達しないが、前回と同じく国際書留郵便で、これは休日でも配達されるのだろう。印鑑を必要とするこの書留扱いは、ＢＡＲＦＫＯ－ＳＷＩＬＬはそうではないので、送料は安い。ところで、昨日書いたように今日は子ども神輿が繰り出すお祭りであったが、その昼休みに自宅に戻ると届いていた。午後から松尾大社まで神輿を曳いて行かねばならず、ＣＤを聴いたのは午後３時過ぎだ。２枚を全部通して聴いた。全２９曲も入っている割に大半の曲が１分か２分台とかなり短い。収録時間を確かめると、ディスク１が３５分ほど、２が４０分で、合計７５分はＣＤ１枚分にどうにか収まる。まるでＬＰ時代だ。これはフランク・ザッパの２作目のギター・アルバム『ＧＵＩＴＡＲ』からすればかなり物足りない。１枚ものとして発売するならば、価格は下げねばならない。それで２枚に分けて水増ししたのかと思いたくなるが、ディスク１と２を通して１枚のＣＤ－Ｒに焼いて聴くと、やはりおかしいであろう。それぞれのディスクがそれなりによくまとまっているからだ。また、どの曲も速い演奏で、４０分ほどでもたっぷり聴いたという気がする。その点では『ＧＵＩＴＡＲ』はあまりに盛りだくさんな内容であった。『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』は父フランクのギター・アルバムに倣って、ＺＡＰＰＡ ＰＬＡＹＳ ＺＡＰＰＡのツアーで収録されたライヴ音源からギター・ソロだけを抽出している。大部分が２０１０年で、２００８、９年が１曲ずつ、２０１１年が８曲だ。また父のソロをかなり忠実にコピーしている曲もあれば、父にはなかった面白い音色を奏でるなど、エフェクターの進歩を反映している。ヴォーカル曲から中間部のソロばかりをまとめたものであるので、ＺＰＺのレパートリーからして、どの曲かはファンならたいていすぐにわかる。それは題名からも言える。ディスク１の最後は「Ｙｏｕｒ Ｓｌｉｍｅ Ｉｓ Ｏｎ Ｆｉｒｅ」と題される。これは「Ｉ‘ｍ　Ｔｈｅ Ｓｌｉｍｅ」のソロであることはすぐにわかる。題名からは元の曲がわからなかったり、また聴いてもわからない演奏がたくさん収録されている方が喜ばしいのは言うまでもないが、残念ながらそうはなっていない。たとえばディスク２の最後「Ｄｅａｔｈｌｅｓｓ Ｈｏｒｓｉｅ Ｒｉｄｅｓ Ａｇａｉｎ」は、２枚組ライヴＣＤ『ＲＥＴＵＲＮ ＯＦ ＴＨＥ ＳＯＮ ＯＦ…』の最初に入っている「Ｄｅａｔｈｌｅｓｓ Ｈｏｒｓｉｅ」の別ヴァージョンで、３０秒ほど短く、また演奏は『ＲＥＴＵＲＮ ＯＦ』の方がいいのではないか。このように以前発表した曲の別ヴァージョンを含むのは、それだけレパートリーが少ないことと、父の魔力から逃れ難いことを意味している。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/94/d0053294_23402735.jpg" border="0" width="500" height="222"/></center><br/>
　一昨日アメリカの大西さんからザッパ関連ニュースのＵＲＬが届き、その中にナポレオン・マーフィ・ブロックのごく最近のインタヴューがあった。かなり長文で、後半にＺＰＺに参加した感想が語られていた。厳しい意見で、ドゥイージルはフランクとは全然違った性質でしかも父の音楽観を理解しておらず、また一緒に演奏したいとは思わないというものであった。もう少し噛み砕いて言えば、フランクのステージは毎日違ったが、それは一緒に演奏する人物の才能を引き出し、それと掛け合ったからだ。フランクは演奏家が違えば音楽も変わると考えていた。フランクなら毎回演奏を変えることを楽しんだし、そうすることで曲がどんどん変化して行った。そういう曲のたったひとつのヴァージョンがレコードになっているだけであるのに、そのレコードが細部まで動かせない完成品とみなすことは滑稽なのであろう。音楽はもっと自由であるべきというのが、かつてフランクと一緒に演奏したメンバーの思いのようだ。独善的のようでいて、才能ある人物のそれを最大限に引き出すことを心得ていた。それは確かにナポレオンが最初に参加した７３年ではそうであったが、ドゥイージルがゲスト参加するようになる１０年少々後では事情が違った。フランクはまた、ライヴ演奏と、レコードは違うものと考えていた。ところがドゥイージルはレコードの音をそのままステージで再現することに固執し、ナポレオンの歌う歌詞が少しでも違っているとそれを指摘した。ナポレオンにすればそれはいわばアドリブのつもりもあったはずで、また実際に間違っていてもそれが演奏の傷にはならず、それを逆手に取って曲の進展を図ればいいことで、それはフランクも同じ考えであったのだろう。簡単に言えば、ナポレオンから見れば息子ドゥイージルは狭量なのだ。だが、それは気真面目とも言い換えることが出来る。それほどに父の影が大きいのだ。絶対的権威で立ちはだかり、父の演奏の細部をないがしろにすることはまだまだ出来ないのだ。まずはそっくりそのままコピーする。それが始まりだ。そう思ってのメンバーに対する厳格主義なのではないか。ドゥイージルのＺＰＺがどういう演奏をするかは、筆者はそれが結成された２００６年から見えていた。それは全くナポレオンが語るのと同じで、であるから今さらナポレオンの意見を知っても驚かない。それに、ナポレオンはドゥイージルのギターの才能は認めている。これは『Ｉ．Ｔ．Ｍ．』の方『Ｆ．Ｏ．Ｈ．』よりもいいということになるだろう。明日はもっと聴き込んで書く予定でいる。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/94/d0053294_23404692.jpg" border="0" width="500" height="227"/></center>
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    <title>●ブログ作成歩録５２（訪問者数１１１１１１）</title>  
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    <dc:subject>●ブログ作成歩録</dc:subject>  
    <content type="html"><![CDATA[ 
<img class="IMAGE_LEFT" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/94/d0053294_171996.gif" border="0" width="180" height="78" align="left"/>竜巻は日本には馴染みがなかったのに、先日はアメリカ並みの大きな被害があった。同様の竜巻がいつどこで起こるかわからない。地球温暖化が原因と見る向きもあり、不穏さが増す一方の時代になりつつある。<br/><br/>数年前に中学時代からの友人であった女性のＡが肝炎で亡くなったが、彼女は２５年ほど前にふたり目の子どもを産むかどうかで悩んでいて、産むことに否定的に傾いていた。その理由が、「大山くん、これからの時代、何もいいことが予想でけへんで。子どもにとっては暗い未来のようでかわいそうや。それにわたしらも老後はどうなっているかわからへんしな」というものであった。ところが、数年後にふたり目を出産した。ふたり目を産むことに不安であったのは、夫の稼ぎが心配であったからと思うが、自分も続けて働けばどうにかなると決心したのだろう。だが、Ａは５０代であの世に行ってしまった。こう言えば酷かもしれないが、彼女が人生で成した最も大きな業績はふたりの男の子を産んだことだ。もっと生きたかったのは当然としても、子孫をふたり残したことは一応の役目は果たしている。そのことにＡは満足していたであろう。仕事で名を残すといっても、ほとんどの人は高が知れている。Ａが予想した日本の暗い将来像は、その後いっこうに改善させたとは思えず、数十年先には働くひとりがひとりの高齢者を支える超高齢化社会が来る。それでも急にそうなるのではなく、徐々にであるから我慢出来るであろうし、またせねばならない。そんなことを今日はムーギョまで買い物に行きながら思った。今日はとても寒く、松尾橋をわたる時に震え上った。先日まで暖かったからだ。これからどんどん暖かくなる季節であるのに、逆戻りするとなおさら寒く感じる。橋のたもとの気温計を見ると摂氏１０度で、これは筆者に予想より１度高かった。そこで思ったのは、急に気温が下がると、それを大きく感じることだ。実際は２桁で、つい１か月前から比べるとぐんと暖かい。冬の寒さは嫌いでも、秋から少しずつ下がって行くので、そういうものかと我慢が出来る。予想がつくからだ。その予想と同じものが日本の将来像だ。働けるひとりがそうではないひとりの老人を支えるとしても、今からそうなると思っていればどうにかなるし、どうにかせねばならない。また、ひとりがひとりを支える社会は、親ひとり子ひとりの生活を思えばよく、さほど生活困難な状態ではないのではないか。だが、親ひとりに子数人というのが、にぎやかでいいものであって、子どもの少ない社会はさびしいと言わねばならない。わが自治連合会は西京区で２番目に高齢化が進んでいて、６５歳以上が人口の４分の１となっている。そしてこの割合が年々高まっていて、小学生が皆無の自治会がある。そういう自治会では地蔵盆は大人が楽しむ場とならざるを得ないが、明日予定されている松尾大社の還幸祭に伴う子ども神輿はどうなるのだろう。<br/>
　今日は午後３時に法輪寺で、明日のこの子ども神輿巡行の準備をした。小さな神輿を自治会内の児童たちに曳かせるが、前後を筆者ら大人数名が誘導する。また、朝９時から午後２時頃まで自治会内を太鼓を叩いて練り歩いたり、松尾大社まで往復する。大人も子どもも市販されている水色の半被を着るが、神輿を台車に載せて転がせながら歩くだけで、「祭りだワッショイ」の熱気からは遠い。３年に一度は雨に祟られるが、明日はどうだろう。法輪寺の境内の隅にテントを張り、その下に神輿を据えながら思ったのは、竜巻があるとテントも神輿もひとたまりもないことだ。いや、それほどの風でなくても運動会のテントが飛ばされてけが人が出る事故が何年か前にあった。そんな不幸が起こらないようにお祭りをするのだが、事故などの悲劇は絶えない。したがってお祭りなど気休めに過ぎないと考える人もあろう。だが物は考えようだ。お祭りをしているから、まだ悲劇が少なくて済んでいるのと思うべきだ。昔から人はそのように考えて来たはずで、そういう人の思いが長い年月の間さほど変わらないとすれば、今ある状態もなるべくしてなったと考えるべきで、人口減少、少子高齢化もいい側面をもっと喧伝すべきではないか。さて、明日はいつもより少しは早く起きる必要上、展覧会の感想を書くのは気が重い。何を書くべきかと思案していたところ、先ほどブログののべ訪問者数が１１１０９８になっていることに気づき、３人増えるのを１０数分待った。そして１１１１１１になった画面を保存して加工した。数日前に中古で買ったＷＩＮＤＯＷＳ ＶＩＳＴＡの画面であり、またＥＸＣＩＴＥは設定画面をリニューアルしたので、その双方を見せるめにも今日はつごうがいい。１０万人を記録したのが今年１月１８日であった。それから今日まで１１５日経つので、１日当たり約９７人となる。去年初夏頃から年内いっぱいは１００数十人を連日超えていたが、ここ１，２か月は７０から８０といったところで、漸減一方だ。この調子で行くと、数年後にはゼロになるか。前述の理屈で言えば、それも自然でいいと思うべきだ。いや、実際のところ、筆者がこうして元気で書いているのも長くて１０数年で、それはほんの一瞬とも言える。それが過ぎればこのブログは消え去るなりして、訪問者ゼロの状態になる。また、今日記録した１１１１１１が１桁多い１１１１１１１になることは絶対にあり得ないので、１１１１１１のゾロ目は素直に面白がってよい。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds.exblog.jp/pds/1/201205/13/94/d0053294_0213079.jpg" border="0" width="500" height="375"/></center>
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    <title type="text"><![CDATA[PR: 編集・デザイナー求人はテンプスタッフ・クリエイティブ]]></title>
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    <content type="html"><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/R2vaoA1LWXJz/PP_SH5RaFyPh?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/R2vaoA1LWXJz/PP_SH5RaFyPh?type=3&ent=b836df5b7feb435ef4de51e07b534039"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 雑誌書籍編集・デザイナー・Web系のクリエイターに特化し案件をご紹介。実績多数 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></content>
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